強がり、嘘つき。 それは、各人の個人練習がすんで、さあ、全体での練習を始めようかと、大地が律に合図 をした時だった。 合図に応じるように顔を上げた律は、難しい顔をしていた。その表情に一瞬、よく見なけ ればわからないほどのためらいが動く。 けれど、逡巡はかすかでしかなかった。 「すまない、用事を思い出した。少し外す」 律は冷静に、けれど口早にそう言い、おもむろに部室を出て行った。 ざわり、と、波打つように部員達の間に動揺が伝染していく。 「…しょうがないな、うちの部長は。…忘れっぽくて」 その動揺を抑えたのは、からりとした大地の一言だ。 後輩達はともかく、同級生達はあからさまに疑問や戸惑いの視線を投げてくる。しかし大 地は動じなかった。 「放っておいて始めよう。…弦楽セレナードの第一番から」 胸を張り、穏やかに、…作り慣れた嘘の笑顔をしっかりと顔に貼り付けて、大地は室内の 混乱とぶれを抑え込む。胸に渦巻く黒いものを、一人こっそり呑み込んで。 律はそのまま、練習が終わっても帰ってこなかった。命よりも大切なヴァイオリンが部室 にあるのだから、残して帰ったりはしないだろうと思ったが、正門の閉門時間のこともあ るし、部室も閉めなければならない。大地はゆっくり腰を上げた。 てっきり屋上か、でなければ森の広場かと思っていたのだが、そのどちらにも律はいない。 校舎の中のどこかにいるのかと、広場から足早に引き返す途中、ふと思い立って、大地は グラウンドに足を向けた。 閉門時間ぎりぎりだけに、運動部の生徒達も皆クラブハウスに引き揚げた後で、見渡して も動くものはない。…だが、ゆっくりとあたりを確認して、あきらめのため息をつきかけ たとき、大地は、観客席にうずくまるように座り込む影があるのを見つけて、走るように 歩き出した。 もう宵闇が濃くて、てっきり座席の影かと最初は見過ごしたのだが、他の座席に比べてそ この影だけがくっきりしすぎているとはっと気付いたのだ。 駆け寄ったその場所にいたのは、果たして律で。 「……こんなところにいたのか、律」 声をかけると、疲れた顔で律は大地を見上げた。 痛むのだろうか。傷を抱えた左手を、右手でそっと押さえている。意志の強いその瞳が絶 望の色に彩られているのを見て、胸が痛くなる。 …呑気な顔、明るい顔、何でもない顔、と呪文のように心の中で唱えながら笑顔を作り、 大地はそっと手をさしのべた。 「閉門時間だよ。…帰ろう、律」 「…そんな時間か」 律は力なくうなずいたが、大地の手を受け取ろうとはしない。 「…すまない。…練習を放り出してしまったり、捜しに来させたり、…迷惑をかけたな」 一人で立ち上がり、毅然と前を向く。 「行こうか」 前へ。まっすぐ歩き出す律に、逆に大地の足が凍りついた。 動かぬ気配に怪訝そうに、眼鏡を押さえて律が振り返る。 「…大地?」 その声が本当に不思議そうで。 …大地の中にめらり、…炎が揺らぐ。 「どうして、平気そうにするのかな」 「……?」 律は振り返った態勢で動きを止めた。 「腕。…調子が悪いんだろう」 律はかすかに苦笑を浮かべ、右手で左手をこするような仕草を見せた。だが、イエスとは 言わない。大地は少し唇を噛んだ。 「無理をして平静を装って、…それが必要な場面ももちろんあるだろう。たとえば後輩達 を不安がらせないようにしなきゃならないとかね。…だけど今、ここには、俺と律しかい ない。それなのに律は平気そうな顔をする。…それは何故だい?」 「…それは…」 口早に訴える大地に、律は呆気にとられた顔になった。それが当然だろう。…そう言いた げな顔だ。しかし。 「律は、俺の前でも強がらなきゃならないと思ってる?」 念を押すように大地が問うと、今度はぽかんと目を見開く。 「俺は、…俺の前では、律に正直でいてほしいと思ってる。…少なくとも、腕の件に関し てはね」 「……」 「全てを俺にさらけ出せという権利は、俺にはないかもしれない。でも少なくとも、その 腕のことでだけは、俺に正直でいてほしい。事故のことも、悪化の経緯も、俺はもう知っ てる。共にオケ部を運営する立場として、今日のようなことがあったときにフォローでき るよう、これからも情報を共有すべきだと俺は思ってる」 …ちがうかい? 静かにそう付け加えると、律はますます困惑した顔になった。 「大地。言っている意味がわからない。俺は腕のことについて、大地に嘘をついたことは ないつもりだ」 「…でも、強がるのと嘘をつくのはこの場合同義だよ、律」 「…っ」 「律が強がれば、俺は律の状態を見誤る。それは、誤情報を与えられるに等しい」 「…ずいぶん、理詰めで来るんだな」 批難と苦笑が半々の顔に、ああ、と大地はきっぱり肯定を返す。 「理詰めでいかせてもらうよ。…俺が情に訴えても、律には効き目がないようだから」 「…情?」 「そう」 大地は叫び出したい気持ちを必死に押さえた。 「俺の前でも強がらなきゃならないと思ってる?…俺はさっきそう聞いただろう?」 「……」 律の表情が困惑ばかりを浮かべることがもどかしくて、唇を噛む。 「…俺はね、律。…さっき少し傷ついたんだよ。…律が、俺の前でも平気そうな顔をして、 一人で行こうとするから」 大地は律に手をさしのべてみせる。…さっき受け止めてもらえなかったその手を、もう一 度。 「律が本当に一人でも大丈夫な時なら、俺は手を貸したりしない。それは律に失礼だとわ かっている。…でもそんな、…そんなに痛そうな、苦しそうな顔をしている時くらいは、 頼ってもらっていいはずだ。律が俺を、友人だと思ってくれているのなら」 「……」 ゆるり、ゆるり。…律の表情が変わっていく。そのことに少しだけ、大地は力を得る。 「律。…本当に辛い時、人の手を借りるのは甘えじゃない。必要なことだよ」 律は目の前に差し出された大地の手をじっと見つめた。それから改めて大地の目をまっす ぐに見て、…ようやくその顔に理解の色が浮かび上がってくる。 「…違うんだ、大地」 「……?」 「俺は、強がるつもりはない。……ただ、わからなかっただけだ」 「…わから、ない?」 こくんと律はうなずいた。 「……腕は痛む。おまけに今まで通りには動かない。でもそのことで、辛いとか苦しいと か、そういう感情を自分が持っているかどうかが、よくわからなかった」 「……律」 「痛くても、弾きたい。痛くて、弾けない。……俺がわかっていることは、その二つだけ なんだ」 不意に、つぅっと、…律は綺麗な一筋の涙を頬にこぼした。 「…でも、大地の言葉を聞いているうちにわかってきた。……俺は、そのことに苦しんで いた、んだな」 確認するように言われて、大地も泣き笑いに似た顔になる。 「そうだと思うよ」 肯定すると、律も頬に涙をこぼしたまま、少し笑った。 「…肩を借りてもいいかな、大地。…気が抜けたんだ」 「いいよ。…もちろん」 律は素直に大地の肩に額を預けた。 「大地。…俺は大地に、嘘をつくつもりも強がるつもりもない。ただ、俺は大地みたいに 聡くはなれない。…自分の感情でさえも、理解の外だ。……だから、俺がわかってないと 思ったら、何でもいいから教えてくれ。…今みたいに」 「…ああ、そうだね。…俺も律の鈍さの度合いを見誤っていたみたいだよ。次からは気を つける」 小さく律が笑った。大地もくっと喉を鳴らして笑う。…とぎれとぎれだった笑いがやがて つながり、しばらくそうして笑い合って、……さて、と大地はつぶやいた。 「行こう、律。…本当に門が閉められてしまう前に帰らないと」 「ああ」 「…手は?」 ダンスに誘うような角度にさしのべられた手に、律は笑う。 「必要な時は借りる。…今はいい」 「了解」 先に立とうとした大地の上着の裾が、かすかに引っ張られる。振り返る大地の前で律は微 笑み、 「ありがとう、大地」 吐息のようにかすれて甘い声が、夜のしじまに溶けて消えた。