梅雨明け

忍人はゆるりと目を開けて枕元の時計を確認した。同室の友人に気を遣って目覚ましは使
わないようにしているのだが、体内時計が正確なのか、いつもおよそ同じ時間に目が覚め
る。
いつも通り、時計は5時を少し回ったところだった。しかし、カーテンの隙間から漏れる
光はない。夏至は過ぎたがまだ日は長く、この時間ならとうに夜が明けているはずだが、
今日はたたきつけるような雨の音だけが外の世界の全てのようだ。
ひどい雨だ。
何気なく心の中でそうひとりごちてからふと、忍人は下段のベッドをのぞき込んだ。
『彼』は、激しい水の音を余り好まない。熟睡していればいいが、とのぞき込んだその寝
床にしかし、彼はいなかった。薄い肌かけ布団が、人が寝ていた形にふくらんだまま残さ
れている。
「……」
忍人は無言で身を起こし、ひらりと上段のベッドから降りると、手早く身支度を整え、部
屋を出た。
階下の台所兼食堂から灯りがもれている。そっと覗くと、物音か気配かで気付いていたら
しい、那岐がまっすぐに忍人を見て、
「おはよう」
と言った。
手に麦茶のコップを持っている。
「おはよう。早いな」
応じながら忍人が自分の椅子に腰を下ろすと、那岐は表情を変えずに、
「いいだろ、別に。どうせもう雨は降ってるんだから」
と鼻を鳴らした。
「…?」
一瞬きょとんとした忍人だが、すぐに那岐の言葉の意味を悟り、苦笑する。
自分が早起きしたから雨が降ったのだとからかわれることを見越して、先回りしたものら
しい。
「…那岐が起きたときには、もう雨が降っていたのか?」
「うん、雨の音で目が覚めた」
言って、彼はゆるりと窓に顔を向けた。台所の窓は模様の入ったすりガラスになっていて、
あまりはっきりと外は見えないのだが、窓を叩く雨粒くらいは見える。
「少しはましになったかな。でもまだひどい降りだね」
それから忍人に向き直り、まじまじと見つめてからふっと、片目をすがめるようにして苦
笑してみせた。
「こんな雨でも走りに行くんだ」
その瞳の色を見て、忍人は一瞬言葉に詰まった。
那岐にそう言われるまで忍人は、「今日はここにいようか」と言うつもりでいた。雨音が
那岐を不安にさせているのではないかと、…自分が何かの助けになれることがあるのでは
ないかと思っていた。もしそうなら、日課として大事にしている鍛錬を、一日くらい休む
ことなど何でもないと考えたのだが。
自分を見つめる、どこか挑むような那岐の目を見て思い直す。
彼はそんな、他愛のない優しさなど、必要としてはいない。むしろ自分がそんな提案をす
れば、この程度の雨で日課を取りやめるなんて、と言われそうだ。たとえそれが彼の本心
ではなく強がりだったとしても、彼はこの程度の雨音で音を上げるほど心弱くはなく、ま
た自分も彼をそんな風に扱ってはならないのだと、その程度のことで信念を枉げる自分で
あってはならないのだと気付かされる。
彼の横に立つ友として。
忍人はゆるく目を閉じ、小さく肩をすくめた。
「何なら君も行くか?」
忍人のそのいらえを聞いて、那岐が先刻の忍人と同じように、一瞬返答に詰まるのがわか
った。
たぶん、台所をのぞき込んだ忍人の表情を見たときから、那岐も忍人の行きすぎた気遣い
に気付いていたのだろう。だからわざと挑発した。が、その返答で一枚裏をかかれるとは
思っていなかったらしい。
「…それはさすがに、…どうかな」
どこか気の抜けた那岐の声に、忍人は思わず吹き出した。
片手を口に当てて笑いをこらえながら那岐を見ると、彼は憮然とした顔で唇をとがらせて
いたが、忍人と視線があって、ふと、その表情を苦笑にゆるめた。
「雪になるか、雹になるよ」
「雪はともかく、雹は痛いな」
忍人が真顔で返すと、冗談に決まっているだろう、とがしがし頭をかいた。
「僕が行くわけないだろ。走るのも雨もまっぴらだ」
本気で厭そうに舌を出してから、ふ、と那岐は優しく笑う。
「行ってきなよ、忍人。玄関にタオルおいといてあげるよ」
その表現に忍人は肩をすくめた。
「寝直すつもりか」
「まだ5時だよ。当然だろ。…大丈夫、いつもの時間にはちゃんと起きる」
…確かに、那岐は寝穢いわりに、ぎりぎりの時間にはいつもきっちり起きてくる。ばたば
たと落ち着かず、時間に間に合わないのはいつも千尋の方だ。
小さくうなずいてから忍人は席を立った。
玄関で靴を履いて、きっちり靴紐を結んでいると、
「いってらっしゃい」
既に眠気を含んだ声が、洗面所へ入っていった。
きっと、忍人が帰ったら、ふかふかのタオルが上がりかまちに置いてあって、那岐はもう
一度布団にもぐりこんですやすやと眠っているのだろう。今日は確か風早が食事当番だか
ら、台所には味噌汁の湯気がただよっているだろう。千尋は洗面所で、湿気のせいでおさ
まりの悪い髪と格闘しているのではないだろうか。
いつもの朝が始まる。
「いってきます」
小さくつぶやいてから、忍人は静かに玄関の戸を閉め、雨の中へ走り出していった。
激しい雨は梅雨明けの前触れ。
たぶん明日は晴れるだろう。