栗花落


所用で室生に出向くことになり、千尋は忍人と共に山道をたどっていた。
本来女王の行幸ともなれば、輿を使い、たくさんの供を連れた行列となるはずだが、気分
転換を兼ねたい、大仰にはしたくないと千尋が言い張ったので、忍人一人を供に連れ、徒
歩で道を行く。
忍人は馬を引いている。万が一、千尋が歩けなくなったらこれに乗せようという心づもり
なのだが、当の千尋は宮から出たという解放感に満ちあふれており、鼻歌まじりで足取り
も軽い。
あちこちきょろきょろしながら道を歩いていた彼女がふと、道の先を指さして問うた。
「あれは何ですか?」
千尋が指さした先では、何か白くてわさわさしたものが木を覆っている。一瞥し、忍人は
あっさりと答えた。
「栗の木だ」
「…栗の木」
千尋は素直に忍人の言葉を繰り返す。
「ああ」
「じゃあ、あの白いのは」
「栗の花だ」
「…へー…」
まじまじと見入る千尋の姿がおもしろいのか、忍人は珍しく、いつも冷静な目にかすかな
苦笑をのぞかせている。
「独特の匂いがあるし、見てさほど美しい花でもないだろう」
「私には珍しいです」
「…?……どこにでもある花だ」
千尋は笑って、ゆるゆると首を振った。
「異世界で私が住んでいたところでは、お店に栗の実は売っていても、栗の木は、…少な
くとも身近には見かけませんでした。……今も、橿原宮の庭には植わってないし、子供の
頃はあまり外には出なかったし」
忍人は静かに眉を寄せたが、すぐにいつもの淡々とした顔に戻って、ぽん、と千尋の頭に
手を載せた。
…あたたかくてくすぐったくて、じわりと心が熱くなる。どきどきしていることを悟られ
たくなくて、何か話題をと千尋がおたおたしていると、忍人の方で先回りするかのように
口を開いた。
「この栗の花が落ち始めると梅雨入りだと言われている」
「…え?」
「つゆには梅の雨という字をあてることが多い。梅の実が生る頃の長雨という意味合いな
のだろう。…同じように、栗の花が落ちると書いて、つゆり、ついり、…つゆいり、と読
ませる地域があるんだ。栗の花が落ちるとその地域では梅雨入りするからだろう」
千尋は一度大きく瞬きしてから、目を丸くした。
「…忍人さん、物知りですね」
忍人は肩をすくめた。
「あちこち、転戦したからな」
笑いは苦い。…思わず千尋は胸を押さえた。
「語感は美しいが、その意味するところを考えると、正直、あまり好きな言葉ではないな」
「…忍人さん、梅雨が嫌いなんですか?」
「梅雨が、というか、雨全般が、あまり好きじゃない」
日常のことで忍人が好き嫌いを語るのは珍しい。千尋は小さく首をかしげた。
「…どうして?」
忍人は苦い顔をして、やや目を伏せた。
「…雨の日の戦いは危険だからだ」
「……」
「濡れた身体は重くなるし、足元がぬかるんですべりやすい。ふんばりもきかない。…歴
戦の勇士でも不覚を取ることがある。奇襲には好機だが、逆に言えばこちらが奇襲を受け
る危険もある」
淡々と言葉を並べて、ふと千尋の顔を見、忍人は、すまない、と少し笑んだ。
「君にはつまらない話だな」
「…いいえ。…女王として、将軍の見解をつまらないなどと思うことはありません」
あえてきりりと武張って答えて、
「…それに、自分があまり雨中の戦いを経験せずにすんだのは幸運だったんだなとしみじ
み思いました」
ふわ、と付け加えれば、忍人の瞳もやわらぐ。笑い返して、千尋はつぶやいた。
「私も雨は嫌いでした。……忍人さんみたいな、立派な理由じゃないけど」
「…?」
首をゆるりとかしげる忍人の仕草は、先を促しているようでもあり、聞いていいのかと迷
うようでもある。…率先して、千尋は口を開いた。
「雨の日は、たぶんみんなが戸を立てるからだろうと勝手に憶測するんですけど、……い
つもよりはっきり、人のうわさする声が聞こえてくるんです。…いい話ならいいけど、う
わさは得てして、聞いて気持ちのいい話じゃないから」
だから、雨は嫌い。
つぶやいた声に思わず痛みが混じり、千尋ははっと我に返った顔で、ごまかすように大き
く手を振った。
「すいません、つまらないこと言って。あの、子供の時の話です。…今の話じゃないです
から。…ていうか、忍人さんの悩みに比べたら、私の言ってることってすっごいちっさい
話で、なんだか恥ずかし……」
言い終える前にまた、千尋の頭の上にぽんと手が載せられた。そして今度はぽんぽんと、
何度か続けて頭をなでられる。かすかにささくれた気持ちを落ち着かせるように優しく、
ゆっくり。
「……痛みは他人の基準ではかるものじゃない」
静かな一言がじわりと千尋の胸に落ちる。うなだれるように頭を垂れた千尋に、忍人は今
度はそっと、背中を押した。
「…長く続く雨は憂鬱だが」
声の響きが少し変わった。顔を上げると、忍人は空を見上げている。空には雲がかかって
いるが、雨が降りそうな空ではない。
「その長い雨が上がって、晴れてくる瞬間は、嫌いじゃない。…君は?」
「…あ、はい。…好きです。雨上がりの木や草はしっとりしてとてもきれいだし」
忍人の顔がゆるりと千尋に向けられた。浮かぶ笑顔は、戦いの中では見られなかった穏や
かさで。
「君が俺と同じものを辛いと眺め、同じものを美しいと喜んでいる。…そう考えるのは、
不思議と心地良い気持ちになる」
「……」
ゆっくりと千尋は想像する。憂鬱な雨の中、忍人と同じ気持ちで雨を眺める自分。…それ
は確かに、どこか心地よくて。
「…君と同じ気持ちになれるのなら、雨も悪くはない」
「……忍人、さん」
千尋の唇に恥じらいに似た笑みが浮かんだ。苦くはない、暖かい笑顔だ。それを認めて忍
人は肩をすくめる。…ほっとした、そう言いたげに。
「…行こう。…足取りが遅くなったようだが、馬に乗るか?」
「…いえ、まだ大丈夫です。…行きましょう」
少し足を速めて歩き出す二人を見送るように、栗の木が一つ、二つ、白い花を散らした。