雨月


夕方から降り出した雨は、夜半になってもまだ蕭々と降っている。
喉の渇きを覚えた那岐は、寝台から身を起こして手探りで回廊に出た。
雨天特有のしっとりとした空気がじわりと身体にまといついてくる。月明かりがないせい
で闇は濃く、なかなか目が慣れない。しばらくまばたきを繰り返し、闇に目が慣れてきた
ところで、ようやく那岐は歩きだした。
その足が止まったのは、回廊の扉を一つくぐり抜けたときだ。柱でも木でもない形が、回
廊にほとりとある。
見回りの衛士なら動いているはずだ。もしや、といつも胸に入れている御統を探ったとこ
ろで、那岐の気配に気付いたのか、影がゆらりと動いた。
そのかすかに見えたシルエットで、那岐ははたとそれが何であるか、…否、誰であるか、
に気付く。
「忍人…!」
驚きが那岐の声を大きくした。
「……?」
忍人は那岐の驚きぶりに逆に虚を突かれたようで、小さく首をかしげている。
まさか、彼を妖しのものかと訝しんだとは言えず、ごまかすために那岐は自分から口を開
いた。
「こんな夜更けにどうしたのさ、見回り?」
「ああ、夜番の兵に声をかけてから休もうと思って、詰め所に行くところだ」
「立ち止まっていたみたいだけど」
「、…ああ。…月が」
「?」
「月が見えたものだから、つい」
「……?」
那岐はぽかんと口を開けた。
雨はまだ降っている。
「…月?」
何かの比喩だろうか。だが忍人は聞き返した那岐に静かにうなずいて見せた。
「回廊を歩いていたとき、かすかに光が差したんだ。何か不審なものかと光の方を見たら、
雨雲がかすかに切れて、雲間からぼんやりとおぼろに月が姿を見せていて」
「……」
那岐は思わず空を見上げた。しかし既に空には雲の切れ間はない。忍人も少し困った顔で、
かすかに微笑む。
「…見えなくなってしまったが、先刻までは見えていたんだ」
言い訳するような物言いは、忍人には珍しいことだ。
「おぼろに雲がかかった間からのぞいているのに存外まぶしくて、……それで気付いた。
今夜は十四夜だ」
「…ああ、そういえば」
明日には満ちる。その寸前の月。
忍人は、つと、那岐の髪に手を伸ばした。
「明日は、君の祝い日だ、そう気付いて、」
それまで淡々と話していた声が、そこでふと甘くなり。
「…君を、思い出していた」
「……っ」
那岐は小さく息を吸った。自分の誕生日を指摘されたことよりも、忍人のその声の甘さに
ぐっときた。
「月がまた隠れてしまって惜しんでいたら、回廊にまた光が、…君が現れた。…雲間に隠
れた月がここに降りてきたかと思った」
「…大げさだよ、忍人」
那岐は困惑した声を出したが、忍人はゆるゆると首を振る。
「君は光だ。…君と陛下は。……俺にとっては、何物にも代え難い、光」
言って、目をそらし、雨雲重い空を見上げる。
「国を守って戦いながら、ずっと光が見えなかった。意地だけがよすがだった。……そん
な俺に希望の光を見せてくれたのは、姫と君だ」
「……」
「君たちのためならこの命を賭していい、…そう思った。………。……今も思っている」
「……っ」
那岐はたまらなくなって、忍人の言葉を遮るようにその身体をかき抱いた。
「……?」
「…もういい、もう話すな、忍人」
敗軍の将として、絶望の中を這い蹲って生きてきた忍人の言葉が痛い。…痛みに気付いて
いないような、その淡々とした有り様が一層辛い。
「命を賭すなんて言うな。君は僕を光と言うけれど、僕にとっても君は光なんだ」
君がいなければ、僕はきっと二度と光らない。
「…っ」
ささやく那岐の言葉に、忍人が小さく短く、鋭く息を吸った。
那岐は強く、更に強く、忍人をかき抱く。


雨は、蕭々となおも降る。……月は見えない。