運命 「なあ、律。律のヴァイオリン、少し見せてもらっていいかな」 「…どうぞ」 「……うーん」 うなりながら、板をさわったりネックを撫でてみたり、かなり失礼に人の楽器をぺたぺた とさわりまくる俺を、律は苦笑しながら快く許してくれている。 「まだ迷っているのか」 さらりと問われて、俺は少し耳を赤くしながら、うん、とうなずいた。 迷っている、と律が言ったのは、俺のヴィオラのことだ。俺が今使っているヴィオラは顧 問の先生から借りているもので、俺個人の所有物じゃない。先生からは、「君がオケ部に いる間、自由に使ってください。それからのことは、…まあ、そのとき考えましょう」と 言われている。 …音楽科ではない俺が、オケ部を引退してからもヴィオラを続けるとは普通考えない。だ から、オケ部にいる間自由に使いなさい、とだけ言えば良かったはずなのに、先生は「そ れからのことはそのとき考えましょう」と付け加えた。…たぶん先生は、そのときもう気 付いていたんだ。俺がこのヴィオラに惹かれることを。 先生から借りたヴィオラは少し大ぶりに出来ている。オケ部の他の生徒が持っているヴィ オラ、特に女の子が使っているヴィオラに比べると大きさの違いがはっきりわかる。同級 生の女の子が一度弾いてみたいというので貸したら、一節弾いて彼女は、「これで一曲弾 ききるのは私には無理かも…」と音を上げた。見た目が少し大きいだけではなく、やはり しっかり重さがあるし、ほんの少しのこととはいえ、いつもとは指の位置も変わってくる。 慣れの問題もあるだろうが、やりづらさが先に立つそうだ。 だがその大きさが、俺には逆にしっくりきた。深く重い音にも惹かれた。新品のヴィオラ ではなく、ある程度弾きこまれたものだからだろうか、音にとげとげしさがない。やわら かくて、奥行きがあって、耳になじむ音だ。 ヴィオラを少しずつ弾き慣れ始めた俺は、楽器店に立ち寄って新しいヴィオラを見つける たびに試し弾きをさせてもらうのだが、なかなかこれと思う音に出会えない。自分が今弾 いているヴィオラに勝るものを見つけられない。 「先生は、三年間貸してくださるとおっしゃっているんだろう。今から焦ることはないと 思うが」 「そりゃそうだけど、…でもこれ以上こいつに愛着がわいたら、手放せなくなるような気 がするから。早めに自分のヴィオラを見つけた方がいいのかな、って気がするんだよ」 律は俺の言葉に肯定も否定もしなかった。ただ静かに、俺の手元にある自分のヴァイオリ ンを見つめている。 音楽室に、ばらばらと生徒が出入りする。今日のオケ部は個別練習の日だ。ミーティング の日や全体練習の日は、時間を決めて全員が集まるが、個別練習の日はみんなが音楽室に 来るとは限らない。練習室をとって、一人で弾きこむ生徒もいるし、パートで集まって別 室で弾いている楽器もある。金管楽器系は何故か屋上が好きなようで、今日も外からトラ ンペットの音が聞こえてくる。確かに、あの音が空に抜けていく感じはさぞ気持ちがいい だろう。 いい加減、律にヴァイオリンを返そうと、そっと胴を持ち上げたとき、俺はそのイニシャ ルに気付いた。律のものとは違うイニシャルだ。 「これ…?」 指さした俺の手元をのぞき込んで、律が少し不思議そうな顔をする。それがどうした、と いう顔だ。 「律のイニシャルじゃないよな?」 「ああ」 それか、と首をすくめて、 「このヴァイオリンを作った人のイニシャルだ」 「…へえ」 「幼なじみの祖父がヴァイオリンの工房を持っていて、俺は小さいときからずっと、その 人にヴァイオリンを作ってもらっていた」 珍しく、眼鏡の奥の瞳に少し淋しそうな優しさがのぞく。ホームシックを一度も口にしな い律が垣間見せた郷愁に、俺はどきりとした。 「オーダーメイドってわけだ」 「ああ。特にこれは、板から自分で選んだんだ。すごく気に入ってる」 「いいなあ。…俺もそういうところで作ってもらいたいな」 一度先生のヴィオラを持ってしまうと、どうにも市販の既製品が物足りない。もちろん、 自分がえらそうなことを言えるレベルの演奏者ではないという自覚はある。この物足りな さはおそらく、音だけではなく、大きさの印象が強く関わっているのだろう。この大きさ が、自分にはしっくりくるのだ。 「大地が本当にそうしたいなら、工房を紹介してもかまわない。…だが」 律がまだ何か続けようとしたときだった。 俺たちの会話をどの部分から漏れ聞いていたのかは知らないが、突然上級生が俺たちの会 話に割って入ってきた。 「これだから田舎者と素人は」 言って鼻を鳴らした先輩は、オケ部のみんなから「ぼっちゃま」と呼ばれていた。俺には よくわからないが、彼の持つヴァイオリンはかなりの名品らしく、二言目にはそれを自慢 する。星奏学院の生徒には珍しく、都内から通学していて、「家が遠いから」が口癖だ。 「家が遠いから」全体練習やミーティング以外では音楽室に顔を出すことはあまりなく、 いつも自宅の防音室で練習しているらしい。おかげで、彼自慢のヴァイオリンがどんな音 を出すのか、俺はほとんど聞いたことがない。全体練習で華やかにうたうのは、いつも律 のヴァイオリンだからだ。 「そんな田舎の工房製なんて、たいしたことがないに決まっているよ。せっかく今、先生 に貸していただいた名品を弾いているんだから、次はもっと上のものを選ぶべきだ。もっ とも、榊の耳じゃまだ善し悪しがわからないかもしれないがね。…何なら、信用できる店 を僕が紹介してあげようか?」 …俺はむっとした。 上だとか下だとか、決めるのは他人じゃない。ましてや作る場所でもない。楽器が自分に とっていいものかどうか、決めるのは自分の手と耳だ。だが彼はなおも言いつのる。…今 度は律に向かって。 「如月も、そろそろ気付くべきじゃないかな。どんなに技術が高くても、やはりヴァイオ リンの音色は楽器そのものに左右される。いつまでも安物で我慢していては、上は目指せ ないと思うよ」 彼が自慢たらたら、自分の名品とやらをケースの上から撫でながら言い放った瞬間、律の 目に剣呑な色が宿る。そのこぶしが握りこまれるのを見て、俺は反射的に先輩と律の間に 割って入った。 「…榊?」 けげんそうな先輩に、俺はいかにも如才なく、にっこり笑ってみせた。 「俺、実は、自分のヴィオラを買うかどうかもまだ決めかねているので、店の紹介は今の ところ必要ないです、先輩」 先輩は少し鼻白んだ。そこへたたみかける。 「それに俺、先輩のヴァイオリンをソロで聞いたことがないんで、どんな音かわからない し。律のヴァイオリンくらい、合奏でも目立つ音なら、俺にでもわかったと思うんですけ ど。残念だなあ、せっかくの名品なのに、音が鳴らないなんて」 「なっ……鳴らないっ!?」 怒りのあまり真っ赤になって絶句している彼に、上から目線で軽く一礼する。俺は上背が あるので、悪気がなくてもたいていの先輩には上から目線にならざるを得ないのだが、今 はあえてそこを強調する。もちろん、悪気を持って。 「人が増えてきたから、練習場所を変えよう、律。…じゃあ、失礼します、先輩」 とっとと荷物をまとめ、ヴァイオリンもヴィオラも律ごと抱え込むようにして、俺は音楽 室を出た。 屋上ではトランペットがまだ気持ちよく吹いている。練習室の予約が取れているわけでも ない俺の足は、自然と森の広場へ向いた。 木陰のベンチに荷物を下ろして息を吐く。律の左手が、まだ握りこまれたままだったので、 俺は少し笑った。 「…律」 ぽんぽんとその左手を叩いてやると、律ははっと我に返って手を開いた。 「利き手で殴るつもりだったのか?」 少しおどけてからかうと、律はゆっくり首を横に振った。 「大事な手をそんなことには使わない。…感情を抑えるために、握りこんでいただけだ」 「…何だ」 拍子抜けしてしまう。 「俺の早とちりだったのか。てっきり…」 「いや、大地が割って入ってくれて良かった。あのままあの男が話し続けていたら、俺は たぶん足を出していた」 …おいおい。 「物騒なこと言うなよ…」 「足なら、ヴァイオリン演奏に支障はない」 「いや、それも変だろ」 律の脳みそのシナプスは、全てヴァイオリンでつながっているんだろうか。てかもしかし て、シナプスがヴァイオリンの弦なんじゃないか、こいつ。 「見た目よりけんかっ早いよな、律は」 俺が苦笑すると、律は眉間にしわを寄せ、珍しく、焦れたような声を出した。 「俺が田舎者と嘲られるのはかまわない。事実だ。だがあいつは、このヴァイオリンを安 物だからたいしたことがないと決めつけ、しかもお前を素人と呼んだ」 俺は思わずぽかんと口を開けた。 「…え、…俺?」 そうだ、とむすっと律は言う。眉間にしわがもう一本増える。 「大地の音をきちんと聞いていればわかる。お前はもう素人と呼ばれるべきじゃない。そ れがわからない耳は節穴だ。…大切な親友を二つとも否定されて、こらえてはいられなか った」 凍てつく空に白く輝く三日月のような鋭さで言い放った声はひどく冷ややかだったが、俺 の胸には熾火のようなほのあたたかさをもたらした。 …無性にうれしくて、たまらなかった。 「…ありがとう」 俺の礼の言葉を聞いて、ふっと律は我に返った顔になった。 「?…何が」 「親友だと言ってくれて」 言葉を添えると、さらにぽかんとした顔になる。その顔のまま、 「何を…今更」 と律は言った。 「いや、そりゃ俺はお前のこと特別だと思ってるけど、お前にとっての俺は、オケ部にい る友達の一人だろうと思ってた」 一人に過ぎない、と言おうとして、さすがにそれはいくらなんでも卑屈すぎると呑み込ん だのだが、その控えめな表現ですら律には驚きだったようで、律の顔に浮かんでいた『ぽ かん』が『呆然』に近くなる。 「…お前は、…俺の名前を呼んでいるのに?」 その呆然とした顔で、ひそりと律は問うた。 「…名前…」 如月ではなく律と呼んでくれと、確かにそう言われた。促されるままにずっとそう呼んで いる。もう他の呼び方なんて考えられない。でもそれは「律が、『如月』と名字で呼ばれ ることに慣れていないから」だと思っていた。 …いや、だが。 オケ部では、同級生も先輩もみんな、律を名字で呼んでいる。たまに遊びに行く寮で見か ける寮生も、律には如月と呼びかける。 律を律と呼んでいるのは、…俺だけ、か。 ……俺に、名前で呼んでくれと言ったときから、律はもう、俺を親友だと認めてくれてい たのか。 「……」 ため息のような嘆息をもらしてから、 「…お前、わかりにくいよ。…律」 俺は思わずつぶやいた。 「すまない。よく言われる」 単刀直入に謝って、律はもしかして、と少し首をかしげた。 「ヴィオラのことにも気付いていないのか、大地?」 「…ヴィオラ?」 ひやりとした。 「先生から借りているということにこだわっているのに、自分のヴィオラを持つことにも 踏ん切れない。それはお前がヴィオラを続けることを迷っているからじゃなく、そのヴィ オラを既に自分の相棒として認めているからだ。…他のヴィオラでは代わりが務まらない。 …違うか?」 ずっと考えないようにしていたことだった。 気付いてしまうと本当にこのヴィオラを手放せなくなる気がして怖かった。だが、真正面 から律に指摘されては、降参するしかない。 「…違わない。…それは気付いてた。……というか、気付かないように、考えないように してた」 でも、律の言うとおりだ。…俺はもう、このヴィオラ以外考えられない。 律は笑って、やはりなと小声でつぶやいた。だから、工房の紹介は必要ないんじゃないか と思った、とも言う。…さっき上級生に邪魔されて言い損ねたのはそのことだったらしい。 「だったら、もう他のヴィオラを探すのはあきらめろ。お前の運命のヴィオラはそこにあ るんだ」 俺は、ケースにも入れないままで掴んできた俺のヴィオラをしみじみと見た。 ……俺の、運命のヴィオラ。 「いつか返す日が来たとしても、お前達の結びつきが強固なら、…あの先生なら、わかっ てくださるんじゃないかと、俺は思う」 「…うん」 ……それからのことは、…まあ、そのとき考えましょう。 柔らかい先生の声が耳によみがえる。俺は先生を納得させられる、こいつのパートナーに なれるだろうか。 どこかすっきりした風情の、涼しげな横顔をちらりうかがう。 三年後。俺は外部受験をして医学部を目指す。律はたぶんこのまま、内部受験して音楽を 極めるだろう。いやもしかしたら、その前に海外に出て行くかもしれない。律の腕ならあ り得ない話じゃない。 いずれ分かれていく道。俺たちは、一瞬だけ交わった今この時間だけの親友ではなく、そ れから先もずっと、親友と互いを呼び続けていられるだろうか。 「……」 俺はうつむき、身を固くする。 −−…焦ることはないと思うが。 静かな声が聞こえた気がした。 それは現実の声ではなく、さっき律が言った言葉を心が反復しているのだと気付いて、俺 は物思いから覚める。律は無言のまま、ヴァイオリンにあごを載せていた。すらりとした 気持ちのいい演奏姿勢。ちらりと俺を見て笑って、…弾き始めたのはバッハのインベンシ ョン。穏やかな音の上がり下がりが、俺の波立つ心をゆっくりと静めていく。 律の弾く姿をじっと見つめて、俺はぼそりと彼の名を呼んだ。 「…律」 律が笑う。 焦ることはない。惑うことはない。そう言われている気がした。 …俺の、運命に。