運命は知っている


老将は荒れ果てた齋庭に佇み、ぼんやりとあらぬ方を見ていた。風は重く、どんよりとに
ごり、天には黒い呪いの太陽。
「……」
彼がため息をこぼしたとき、
「ムドガラ」
若々しい声が彼を呼んだ。
「無事に戻って何よりだ」
アシュヴィンの明るい強い眼差しは、疲れ果てた老将の瞳にもかすかな力を取り戻させた。
「殿下もよく、留守をお守りになりました」
「父上とサティをよく守ってくれたそうだな。…礼を言う」
「お二人ともお強くていらっしゃいます。儂の助けなど、何も」
「だが、中つ国の女王を討ったのはムドガラの手柄だったと父上は仰っていた。鬼神のご
とき働きだったのだろう。……老体にむち打って」
きらりと瞳をきらめかせ、からかいの一言を付け加えられて、沈んだ表情だったムドガラ
も微苦笑を返す。
「老体とは。……事実とはいえ、殿下に面と向かって言われると、こたえますな」
「本心では自分のことを老体などとは思っていない癖に、よく言う。……怒ってもいいん
だぞ」
朗らかにアシュヴィンは笑った。
「いやいや。…もう昔のようには参りません。……さすがに今回は、少々疲れました」
しみじみ言ってから、ふと、彼はまじまじとアシュヴィンを見た。まじまじと…というよ
りは、じろじろと、に近い視線に、何だ、とアシュヴィンは少しまばたきを繰り返す。
「…俺が、どうかしたか」
「…いえ。…時に、殿下はいくつにおなりで」
「何だ、藪から棒に。…明けて十九になったばかりだ。…それがどうした」
「十九。…そうですか。……今の殿下よりはもう少し年が若そうに見えましたので、では
彼は十八か、…十七、かもしれませんなあ…」
「何のことだ」
ムドガラは猪首を肩にうずめるようにした。
「中つ国の将軍です。……中つ国の軍の一部が橿原宮の陥落を受けて西へ落ち延びたのを、
儂が追いましてな。皇は儂が追うには及ばぬと仰いましたが、高千穂の女傑と合流されて
はのちのち面倒なことになると思いましたので。土蜘蛛のエイカが中から崩して、大将だ
った四道将軍は逃げ出した後のガタガタの寄せ集め軍と聞いていましたが、……いや、な
かなかどうして。……彼らはよく刃向かい、よく逃げました。……儂としたことが、取り
逃がしてしまいまして」
「…おかしなことを言うものだな」
アシュヴィンは少し笑った。
「敗走する軍の将をほめるのか、我が師は」
「ただ逃げるだけなら誰にでも出来ますが」
ムドガラも苦笑を浮かべつつ、首を横に振った。
「部下の命を守りつつ逃げ切るのは、並大抵のことでは出来ません。儂の大群を前にして、
あの将軍は精一杯努力し、最小限の犠牲でそれをやってのけた。頑強な狗奴の兵が多かっ
たとはいえ、彼が直接指揮を執った本隊の兵は、ほぼ全員が逃げ切ったはずです」
ムドガラは、つと嘆息した。
「…一瞬だけ対峙しましたが、…鬼神か、手負いの獣か、という目をしていました。…そ
れでいて、指示は素早く冷静だった。…殿下より若そうに見えましたし、我らの橿原侵攻
まではほとんど実戦経験もなかったでしょうに、よくも戦ったものだ。……あの判断力と
胆力は、天賦の才かもしれません。…いや、我ながら、恐ろしい敵を後に残してしまった
ものです」
「……ムドガラ。…そういうことはもう少し残念そうに言え。…無理でもせめて、見かけ
だけでもそう取り繕え」
「……は」
アシュヴィンは腕を組み、大岩に寄りかかって、苦笑で老将を見つめている。
「今のお前の顔は、その敵将の無事を喜んでいるようにしか見えん」
「…」
ムドガラは恥じるように自らの額に手を当て、そのまま顔を隠した。
「殿下は、人の顔を読むのがお上手になられましたな」
「ちがう。お前が表情を偽るのが下手なだけだ」
「そうですか」
「そうだとも」
言って、アシュヴィンは首をすくめた。
「心配はいらん。その将軍とやらが今後この常世に刃向かってくるようなら、俺がこの手
で倒してやる。…お前に手を下させることはない」
強さを誇るようでいて、声が穏やかで暖かいのは、老いた己の心をいたわるからだと、…
…愛弟子のその優しさに、ムドガラは目を細めた。
「にしても、我が師がそこまでほめる男か。…会ってみたいものだな」
「…中つ国も、滅ぼされてそのまま、とは参りますまい。女王の血を引く二ノ姫は逃げ延
びたという話ですし、高千穂や筑紫に駐留の兵も残っているはずです。軍を立て直し、巻
き返してくるならあるいは、……あの青年と殿下の正面対決も実際にあり得ましょう。…
…どうぞ、ゆめご油断なさいませんよう」
アシュヴィンはふと眉を上げた。
「…なんだ。油断するような見た目なのか?」
ムドガラは笑う。
「何しろ、彼の周りは屈強な狗奴の兵ばかりでしたからなあ」


アシュヴィンが出雲の戦いを経て二ノ姫の軍に合流したのは夏の終わりだったが、今はも
う秋もかなり深まってきている。熊野での滞在もずいぶん長くなった。
最初は常世の兵と同道することに戸惑っていた様子の中つ国の兵達も、そこそこ状況にな
じんできたようだ。アシュヴィンが船内を闊歩してもぎょっとすることはなく、それどこ
ろか呑気に、
「殿下、今日は鹿肉のなべだそうですよ」
などと声をかけてくる。
苦笑を返して、アシュヴィンは堅庭へ出た。
ちょうど、入口を守る狗奴の兵に、忍人が何事か指示を出しているところだった。屈強な
体格の兵を見上げて語りかける姿は、歴戦の猛将とはとても思えぬ華奢さで、アシュヴィ
ンは思わずにやりと笑った。
指示を終えたらしい忍人が、ちらりとアシュヴィンを見て眉をひそめる。
「どうかしたのか」
「何が?」
「何をにやにや笑っている」
「いや。…ちょっと、俺の師匠の言葉を思い出していた」
その言葉は思いがけない返事だったに違いない。忍人は眉を上げた。
「…君の師匠は何と?」
「中つ国の将軍は、いつも狗奴の兵に囲まれているので、小さく見えるから気をつけろ、
と」
「……。…それは、俺か」
忍人はくさった。
見張りの狗奴の兵は一瞬だけ笑いに瞳をすがめたが、すぐに何もなかったかのような無表
情に戻る。アシュヴィンはにやにやと笑っている。
「誰だ、君の師匠という人は」
「ムドガラだ」
アシュヴィンがぽんと放った名前に、忍人ははっとした顔になった。
「常世の、ムドガラ将軍か」
「知っているか?」
そのはずだと思いつつ、試みにアシュヴィンは問うてみる。
「遠方に身を隠していた二ノ姫達を別にすれば、この戦いに身を投じていて、ムドガラ将
軍を知らぬ者などない」
忍人は硬い声で言った。…あるいは、かつて戦ったときのことを思い出したのかもしれな
い。
「君の師匠か」
「そうだ。剣の持ち方、戦い方、…戦術から兵の動かし方まで、ありとあらゆることをた
たき込まれた」
「…そうか」
忍人は心持ち目を伏せる。…そしてもう一度繰り返した。
「……そうか」
「ムドガラはな、お前をほめていたぞ、忍人」
「……?」
信じられないという顔で、忍人はアシュヴィンを見上げる。
「実に上手く逃げる、とほめていた」
「…それはほめ言葉ではない」
むっつりと、また忍人の顔がしかめられた。
「いや、心底ほめていたさ。あの劣勢の中、部下を守りつつ上手く撤退するのは、並大抵
の判断力と胆力ではない、とな」
「……部下を守れたわけではない」
忍人の声は苦かった。…出雲での体験を心の傷に残しているアシュヴィンも、忍人が今噛
みしめる痛みの味は他人事ではない。自然、声がなだめるように低くなった。
「…ムドガラの大軍に追われたんだぞ。…全滅して当たり前なんだ。…よくも生きのびた」
ひそりと狗奴の兵がうなずく。…あるいは彼も、その場にいたのかもしれない。
「俺は、ムドガラから戦の土産話にお前のことを聞かされた。……そのときからずっと、
お前に会ってみたかった」
「…」
忍人はふい、と顔を背けた。困惑しているのが明白なその仕草は、またアシュヴィンを微
笑ませる。
「我が師はお前を、狗奴の兵に囲まれていて小さく見えると言っていたが、……なかなか
どうして」
「……?」
「狗奴の兵に囲まれていなくとも、充分華奢だぞ、忍人」
「……!」
からかわれた怒りと、けれども敵国とはいえ皇子のアシュヴィン相手に、同門の兄弟子達
にそうするようには、向かっ腹を立てて怒鳴りつけるわけにはいかないという困惑とで、
忍人は真っ赤になった。
アシュヴィンは破顔一笑し、その背中を遠慮なしにどんと叩く。
「こらえることはない。好きに怒鳴りつけろ。…俺はお前の王ではない」
「…」
忍人は憤懣やるかたないという顔をして、…それでもアシュヴィンを怒鳴りつけることは
せず、かわりに、アシュヴィンがそうしたように、どん、と彼の背を叩いた。…それから
表情をゆるめ、…ひそり、笑う。
「…」
静かで、きれいな笑顔だった。
「…っ」
…めったとないその表情がじわりとうれしくて、アシュヴィンも穏やかに笑い返した。


俺はお前の王ではない。……が、俺はお前の、何になれるのだろう。
自問するアシュヴィンの、その答えは、これから先の運命だけが知っている。