失われた歯車

「また勉強?」
那岐がのぞき込むと、千尋はひゃっ、と小さな悲鳴を上げた。
「…ちょっと、那岐!驚かさないで!」
小さく眉をひそめて見上げてくる少女に、那岐は小さく鼻を鳴らして身を起こす。
「入ってきたのにも気付かなかったわけ?」
「…集中してたんだもん」
「…というより、理解できなくて寝そうになってた、って感じだったけど?」
「………」
図星だったらしい。千尋は唇をとがらせてそっぽを向いた。
那岐はもう一度鼻を鳴らす。
「いきなり無理して詰め込んだって身につかないと思うけど」
「…それを言わないでよ…」
がくりと千尋は肩を落とした。そのまま、竹簡を広げていた机の上に上半身を投げ出し、
深いため息をつく。
「私だって、自分が戦略だの軍事だの政だのに向いていないってことはよーくわかってる
けど、…でも、わからないからって、放り出していいってことにはならないもん…」
その疲れた様子に、那岐は次の言葉を飲み込んだ。
ふわり、と風が、千尋の部屋の薄布を揺らして通り過ぎる。
春に筑紫で白虎の加護を得た一行は、出雲に逗留していた。青龍の磐座へ至る道は出雲の
祭祀の日でないと開かない。そして出雲の祭祀は月の満ち欠けに関係があるらしく、その
暦の日が来るまでは祭祀が行えない。
やむなくの逗留とはいえ、この時間を利用しない手はない。忍人や風早、布都彦たちは兵
の鍛錬に精を出し、遠夜は日々野に出て薬草を集めている。サザキたちも、柊の指示であ
ちらこちらを探索しているらしい。使いっ走りにすんなよ、と文句を言いつつも、船に閉
じこめられているよりは外を出歩ける方が彼らも楽しいのだろう。口ぶりよりは楽しそう
に毎日出かけていく。
そして千尋は、この機会にと、軍事や政についての勉強を集中的にさせられているのだっ
た。
季節はゆっくりと春から夏へと移りつつあった。柔らかかった日差しは強くまぶしくなり、
風の匂いもかぐわしい花のものから少しむっとするような草いきれへと変わった。
こんな季節に勉強してるとあれを思い出すなー、と那岐が思っていると、どうやら千尋も
同じことを考えたらしい。
「…なんだか、夏休みの集中講座受けてる気分…」
呻くように言った。
顔色はさほど悪くないが、声が疲れているのが気になって那岐は眉をひそめた。
「…あのさ、千尋。…がんばってるのはわかったから、少し休めば?」
のろのろと千尋が顔を上げる。那岐を見て、少し情けなさそうに笑うと、ううん、と首を
横に振った。
「なんで」
「だって、この暑い中、兵士の人たちはへとへとになるくらい訓練してるんだよ。…そん
なときに、自分だけ休めないよ」
「だからって、千尋が根を詰めればいいってものでもないだろう」
「それはそうだけど…」
千尋は少し口ごもったが、またきっぱりと首を横に振った。
「まだ駄目。今はまだ、勉強を始めたときと変わらないから。ほんの少しでも、進歩した
なって思ってもらえるようになりたいの」
その言葉は針のように、那岐の心の隅をひっかいた。
「…誰に?」
出た言葉は、少し冷たかったと思う。声の色に驚いたのか、千尋はきょとんとした顔で那
岐を見上げる。
「…え?」
「進歩したって、千尋がほめてもらいたいのは、誰?」
「…えーと」
力なかった顔に、少し赤みが差した。那岐は笑う。
千尋はひどく正直だ。もちろん、真面目な少女だから、引き受けた限りは、自分に課せら
れた責任を全うするために精一杯の努力をするだろう。だが、今のこのがんばりは、姫だ
から、王位継承者だから、将軍だからやらねばならない、という義務以上のものを感じさ
せる。
筑紫にいた頃まで彼女の中にあったはずの迷いは既にない。千尋は一心に前を見ている。
認めてほしい、と、ただそれだけを一途に願って。前を。
…誰を?
千尋が口を開かないので、代わりに名前を挙げようと那岐が口を開きかけたときだった。
耳になじんだ律動的な足音が千尋の部屋に向かって近づいてきて、部屋の前でひたりと止
まった。そして、静かな声が在室を問う。
「二ノ姫。…こちらか?」
はっ、と千尋の表情が晴れた。疲れた様子は変わらないのだが、目に気力が戻る。それは
傍で見ていて驚くほどの、鮮やかな変化だった。
「いるよー。入ったら」
千尋の代わりに、那岐はのんびりと彼を招き入れた。のんきな言い方に千尋は苦笑してい
るのに、入ってきた忍人はいつもと変わらない真面目くさった表情だ。
「那岐、君もここで勉強か?」
「まあね。…忍人こそ、今日の鍛錬は終わったの?」
「もう少しやりたかったが、死屍累々になってしまってな」
「……ほどほどにしておきなよ」
「ほどほどにした。船まで戻る元気を残しておかなければ、全員を背負っては帰れない」
涼しい顔で言う忍人に、那岐はげんなりした顔になった。…兵達も気の毒に。
「ところで姫、…陣形の竹簡でわからないところがあると風早に聞いたが」
「え」
千尋は目をぱちくりと見開く。その反応に、忍人が逆に驚いた顔になった。
「ちがうのか」
「あ、いえ、…確かに、朝風早がここに来てくれたとき陣形の竹簡を読んでいて、わから
ないことがあるのも事実なんですけど、…わからないって、風早に言ったかなと思って」
首をかしげている千尋に、忍人がああ、と小さくつぶやいた。
「確かに、風早にはそういうところがあるな。俺も、貸してほしいと口に出して言ったこ
とはないはずの竹簡を、君、読みたがっていたでしょう、と貸してもらったことがある」
君の顔を見て、手助けが必要だと思ったんだろう。
忍人は無表情に近い真面目な顔で、まっすぐに千尋を見る。
「俺で良ければ質問を聞くが、…どうする?」
「あ、はい!よろしくお願いします!」
千尋が背筋を正したのを潮に、那岐は立ち上がった。
「じゃあ、僕は退散」
「勉強していたんじゃないのか」
先ほどの適当な那岐の返事を、忍人は覚えていたらしい。
「別に俺がいても君の勉強は続けられるだろう」
「横で陣形の話をされたんじゃ、間違いなく、僕寝るから。…横で僕が寝てて、千尋の集
中力が続くようなら残るけど」
千尋は額を押さえた。
「…えーと、それは、ちょっと。…横で寝られると、つられちゃうかも」
眉を八の字にした情けない千尋の顔を見て小さく笑う。
「だろ?だから行くよ。ま、がんばって」
「はーい」
素直に返事する千尋。無言でかすかにうなずいて那岐を見送る姿勢をみせ、すぐに千尋に
向き直る忍人。
部屋を出る瞬間に、那岐は二人をもう一度振り返った。
二人は既に竹簡を間に挟んで、陣形の勉強に入っている。千尋が竹簡を指さしながら忍人
を見上げたところだった。
その憧憬にも似た眼差し。
忍人が千尋に向ける、静かに柔らかい慈しみの瞳。
…あんな目をするんだ。
胸がちくりと痛んで、…痛んだことに那岐は驚いた。
この痛みは何だろう。羨望か、…嫉妬か。…嫉妬だとしたら、僕は一体どちらに妬いてい
るんだろう?
……。
頭を一つふるりと振って、那岐は逃げるようにその場を去った。…どちらに、と考えるこ
と自体ちょっと変じゃないかと、いつもの彼なら考えたはずなのに、そのとき彼は考えな
かった。
まるで、思考の歯車を一つ、どこかに落としてしまったかのように。