嘘の家


「千尋、ハンドル!ハンドルしっかりまっすぐ!!」
「え?…え?…え??う、後ろ放してるの?えっ!?…きゃー!!」
最後のきゃー!は、ガッシャーン、と自転車が倒れる音に重なった。那岐が、あーあ、と
ため息をつく横を無言ですり抜けて、忍人は千尋と自転車とを助け起こす。
「…あ、…ありがと、お兄ちゃん」
「今日はもうここまでにしようよ、千尋、忍人。…結構暗くなってきたよ」
那岐の言葉に西の空を見上げてから、忍人は左腕の時計を確認した。
「まだ五時過ぎなのにな」
「もうすぐ十一月だもんね。日が落ちるのが早いんだ。先月はまだこの時間明るかったの
にな。……にしても」
那岐はふと、まじまじと千尋を見た。
「千尋はなんであんなにハンドルをぐらぐらさせるのさ。…怖くない?」
「したくてしてるわけじゃないもん…」
転んだときの痛みか、出来ないことへの悔しさか、半べそをかきながら千尋は唇をとがら
せた。
「ぐらぐらするんだもん」
「スピードが出ていないからだ」
あっさりと忍人が言い切った。
「千尋は怖がってスピードを出さないが、本当はある程度スピードを出さないと自転車は
安定しない。…明日はまた足けりから練習だな」
足けり、というのは、ペダルをこがずに自転車にまたがったまま地面を蹴って歩いて前に
進む方法だ。これでスピードを出すことに慣れてくればすぐ自転車に乗れるようになる、
と忍人の友人が教えてくれたらしい。
「俺の弟なんか、三日で乗れるようになった!」
のだそうで、自分の弟は運動系に勘のいいタイプだから三日は特別な例かもしれないが、
一週間もあれば大丈夫だよ、と太鼓判を押してくれたのだが。
…残念ながら千尋は、半月たってもいっかな乗れるようにはならないのだった。
「真冬が来るまでには乗れるようにならないとなー。練習するのが寒くなって嫌気がさす
だろ」
「いや、厚着になるから転んでも痛くないだろう。むしろ冬の方がいいかもしれない」
二人の会話をため息つきつき背後で聞いていた千尋がぽつりとつぶやく。
「でもさ、お兄ちゃんも那岐も、小さい頃から乗れてたんでしょ?…こんな大きくなって
から自転車覚えるなんて、無理だよ」
思わず那岐は後ろを振り返った。
「小さい頃からって、…そんなわけないだろ。僕も忍人も、こっちにきてから覚えたんだ
よ」
「…え?」
千尋は那岐の言葉にぽかんと目を見開く。
「…こっちで下宿するようになってから?……どうして?…那岐やお兄ちゃんは男の子だ
し、小さい頃から実家で乗ってたんじゃないの?」
「……っ」
しまった、と思ったのが那岐の顔に出たのかどうか。
自転車を押しながら隣を歩いていた忍人が、
「交替だ」
と言って、那岐にハンドルを渡した。自然と那岐は、背後の千尋に背を向けてハンドルを
見ながら前に向き直ることになる。代わりに、という体で、忍人が千尋に向き直り、口を
開いた。
「うっかり忘れているようだが、千尋。…俺も那岐も、実家は山の奥の、そのまた奥だ。
舗装されていない道も多いし、そもそも坂だらけで、自転車に乗るメリットはあまりない。
だから実家じゃ、誰も自転車を持ってない」
「……あ」
千尋は口を手で押さえた。
「そ、そっか。…うん。そうだったね」
うんうん、と納得している千尋の声に、ハンドルを押して前を向いて歩きながら、那岐は
苦い笑いに唇をゆがめた。
「だから、俺も那岐もこちらへ来るまで自転車には乗ってなかった。俺が乗ろうと練習し
ていた時は、今の千尋よりも年が上だった。それでも乗れた。千尋もきっと大丈夫だ。…
がんばれ」
「…うん」
にこりと千尋が笑った。
「ありがとう、お兄ちゃん。…がんばる」
畝傍山にゆっくりと日が沈んでいく。その赤い光が、忍人の静かに微笑んでいる白い貌を、
照れ笑いを浮かべた千尋の笑顔を、苦いものを呑み込み一人うつむく那岐の顔を、等しく
照らしていた。


「…たいした嘘つきだね、見た目によらず」
那岐がそうつぶやいたのは、風呂も食事も終え、二人が自室に引き取ってからのことだ。
受験生の忍人が、まだもう少し勉強しようと机に問題集を並べるのを尻目に、那岐はさっ
さと二段ベッドの下段の自分の陣地に引きこもっている。頭の後ろで手を組んで仰向けに
寝転がり、ベッドの天井を……つまり、上段ベッドの底板を、眺めている。
「その真面目な顔でさ。…なんでそうつらつらと嘘がつけるわけ。……風早もずいぶんな
嘘つきだけど、風早はちゃんと、俺は嘘がつけますよって顔してる。でも忍人は、…俺は
嘘なんかついたことがないって顔してるのに」
「……」
忍人は右手でくるんとシャーペンを回した。
「…そうだな。……嘘なんか、ついたことはなかった。嘘つきは大嫌いだった。……実戦
に出るまでは」
「……」
忍人の言葉の色の重さに、那岐は言いかけた言葉を呑み込む。
「実戦は、命のやりとりの場だ。どうしようもないことで、失われる命もある。奸計も嘘
も、…避けているだけでは生き残れない」
「……忍人」
「…自分の命一つのためなら、嘘をついてまで生き残ろうとは思わない。だが、それが大
切な人の命につながるなら、……命とは限らない、大切な人の心を、笑顔を、…今を、守
るため、ならば」
机を見つめて少しうつむく、忍人の横顔は静謐だった。
「どんな嘘でも、俺は迷わずつくだろう」
「……」
「…きっと、風早も同じだ。…彼は俺たちよりも抱え込むものが多いから、俺よりもっと
たくさんの嘘をつかねばならないし、そのことに慣れてしまっている。それが君には気負
いのなさに見えるのだろうが、風早だって、おそらく、平気で嘘をついているわけじゃな
い」
「…風早が、平気で嘘をついていると言っているわけじゃないよ」
ぼそりと那岐は抗弁した。忍人は那岐を見て、少し笑う。
「そうだな。…すまない、曲解した」
「……」
「…三年前、…いや、二年前の俺なら絶対に、風早の嘘に辟易して嫌悪していただろう。
…君は大人だ」
「……」
那岐はぎゅっと目をつぶって、ごろりと忍人に背を向けた。
「……嘘をつかなきゃならないなんて、…そんな心境、わかりたくもないのに、…どうし
て忍人がそう言うと、うわ、わかる、って思っちゃうのかな」
「……それは君が、…君も、千尋のために、今のこの暮らしを守らなければならないと必
死に思うからだろう」
忍人の声は静かで、それでいてどこか熱を帯びていた。
「……」
那岐は背を向けたままその声をじわりと心の中で復唱する。
「……うん」
小さく一つ、うなずいて。
「…うん。…そうかもね」


嘘ばかりが降り積もり、嘘で固められていく嘘の家に、たった一つだけ真実が眠っている。
千尋を思うこの気持ちは、ぐらつかない、ぶれない、ただ一つの真実。