薄月夜


月は満月だが、薄く雲がかかって朧にかすんでいる。
男はその薄月を楽しむように、傍らの獣の首を撫でながら、山の頂でぼんやりと空を眺め
ている。
獣はおとなしく草の上に足を折り、男に撫でられるがまま首を差し出していたが、ふと、
その耳がぷるりと震え、背後へと首をめぐらせた。
つられるように男も振り返る。
さくさくと草を踏んで、誰かが近づいてきていた。男は唇を引いて薄く笑い、ゆっくりと
立ち上がってわざとらしく一礼した。
「…これはこれは、虎狼将軍。……将軍自らお出ましとは痛み入るな」
「…常世の国の皇の元へ、見張りの新兵を遣るわけにもいくまい。…アシュヴィン陛下」
苦虫を噛み潰したような忍人の顔を見て、アシュヴィンは顔をのけぞらせてはははと笑っ
た。反対に忍人は、仁王立ちして尊大に腕を組んではいるものの、その表情は困惑露わで
伏し目がちだ。
「…頼むから、こちらへ来るときは一言先触れを寄越してくれないか」
「先触れなど出したら、大事になるじゃないか」
「君の場合、出さなければもっと大事になる。だから言っているんだ。…空を、見たこと
もない騎獣が駆けていった、その上に人影も見えたと、泡を食って宮に知らせに来た里人
が何人いたと思う。…基本的に、中つ国の民は空駆ける獣も麒麟も見慣れていないんだ。
純朴な里人を驚かすな」
アシュヴィンはあからさまに挑発的な笑みを浮かべる。
「あの頃お前達が乗っていた船の方が、よほど人心を騒がす代物だと思うがな」
「アシュヴィン」
たしなめる声に、わかったわかったとアシュヴィンは首をすくめた。
「次からはふれを出す。…それでいいんだろう」
「……」
ふう、とため息をついて、忍人は、で、と言った。
「…何だ」
何を促されているのかという顔で、アシュヴィンは眉を上げる。
「何用で、ここへ」
「…ずいぶん、詰問口調だな」
「そんなつもりはない。そう聞こえたのなら悪かった。…君も彼の国の皇帝として日々忙
しいだろうに、何故急にと思っただけだ」
「忙しいからこそ、気分転換したくなる」
アシュヴィンは、手袋をした手で自分の唇を少し弄んだ。
「それと、この時期中つ国で咲く花を、一輪二輪、手折らせてもらおうかと思ってな」
忍人はけげんそうに声を高くする。
「…花?」
「ああ」
アシュヴィンはうなずいた。
「耳成山にあればよかったが、残念ながら見かけなかった。仕方がないからこの畝傍まで
足を伸ばしたが、ここにもやはりないようだ。……里でなら見つけられるのかもしれない
が、人里に俺が黒麒麟に乗って近づけば、それこそ人心を騒がすことになるだろう」
言って、アシュヴィンはじろじろと忍人を見る。
「…およそ、お前が花鳥風月の風流を解するとも思えないが、試みに聞いてみよう。…ど
こか、梔子の咲いているところを知っているか」
「……くちなし?」
「ああ。…知らないか?…白くて、良い香りがする。…まさか、高千穂や出雲にしか咲か
ぬ花というわけではあるまい。俺が見かけたのはその二ヶ所だが、どこにでも咲く花だろ
うと思って眺めたが」
「…いや、…梔子なら知っている。宮に咲いているから、橿原宮でならすぐに手折っても
らえるが」
「…それはやめておこう。今夜は、中つ国の女王陛下への土産を何も持ってきていない」
「そんなことを気になさる陛下ではないが」
「ああ、彼女はそうだろう。…だが、俺は気にする」
忍人は苦笑した。
「わかった。…ならば俺が」
取ってこようときびすを返そうとした身体を、アシュヴィンは腕をそっと押さえることで
止めた。
「手折ってきてもらおうとは思わない。…自分の手で手折ることに妙味がある」
アシュヴィンは、じっと忍人の瞳をのぞき込んだ。どこかしら蒼みがかって、深い黒の色。
忍人の瞳はなめらかにアシュヴィンを見つめ返す。…その中に切なさを捜そうとしている
自分を、アシュヴィンは内心で嗤う。…我ながら自惚れもはなはだしいと、自嘲して。
「…仕方がない。では、共に探そう」
「……」
忍人の提案に、アシュヴィンはやや目を見開いた。
「…いいのか」
「宮や里は駄目、俺が手折ってくるのも駄目、となれば、共に山野を探すしかあるまい。
君を一人で行かせては、どうせまた騒ぎが起きるだけだ。…それに、心当たりがないわけ
ではない」
「…心当たり、とは?」
「……。…俺の生まれた里の、一族が所領する山に、確か群生があったと。……だが、こ
こからは少し」
遠いのだろう。言葉を濁す忍人に、かまわん、とアシュヴィンは鷹揚に笑った。
「黒麒麟を走らせればすぐだ。…乗れ」
と、忍人はやや躊躇するそぶりを見せた。
「どうした。怖いか」
「いや、そうではない。…だが、君も俺もでは、黒麒麟が重さを厭うかと」
「黒麒麟がそうもやわなものか」
は、とアシュヴィンは笑った。
「お前一人くらい、どうということもない。…それに、案内人なしではたどりつけん」
「…ああ、なるべく里を迂回していく。……遠回りになるが」
「構わないと言っている」
アシュヴィンが先に黒麒麟にまたがった。
手をさしのべると忍人は片手でそれを制し、アシュヴィンの後ろにまたがる。
「では、…南へ」
黒麒麟は、増えた重さなどものともしないという軽やかな足取りで空を駆けた。


忍人の心当たりはすぐに見つかった。上空からでも明らかな、華やかな甘い香りが二人を
呼んでいたからだ。
白い花は、ちょうど盛りだった。
アシュヴィンは群生の前に立って、陶然と目を閉じた。
「…ああ、この香りだ。…なつかしい。…時期が来ると、シャニの様子を見がてら、出雲
に立ち寄ったものだ」
「…そんなに好きなのか」
忍人は少し驚いて首をすくめた。
「匂いの良い花は好きだ。百合も、沈丁花も」
「……意外だ」
「そうか?」
アシュヴィンは笑う。
「姿形の良い花よりも?」
「匂いの良い花の方が好きだな。…まあ、見目も香りも共に良いにこしたことはないが。
…お前のように」
「…っ」
忍人は鋭く息を呑み、ふいと顔を背けた。
「…今日は、俺が余り戯れ言を言わないと油断しただろう?」
アシュヴィンに笑われ、表情は一層硬くなる。
「…ああしてあからさまに黒麒麟で空を駆ければ、恐らくお前が現れるだろうと思った。
…一目会えれば十分だと思ったが、言葉を交わす内、欲は深くなった。…もっと傍にいた
い、もう少し長くと」
「…梔子を摘みに来たというのは、嘘か」
「いや。…嘘ではない。目的の一つ、というところか。…一番ではないが」
アシュヴィンはそう言って、一枝を手折った。
「…この花は、お前によく似合う。凛としてきっぱりと白く、実があり、…おまけに」
忍び笑い。
「…くちなし。……無口なお前に相応しい、花の名だ」
「アシュ…」
顔を上げ、名を呼ぼうとした唇に、ふっと梔子の花があてられた。
甘い香りが鼻をくすぐる。虚を突かれたところを、花びら越しに口づけられた。
…甘いのは口づけか、それとも花の香りか。
「…月がずいぶん傾いた」
唇を離し、空を見上げて、何もなかったかのようにアシュヴィンは言った。
「耳成山まで共に行こう。俺はそのまま国へ帰る。お前も、そこからなら橿原宮はそう遠
くないだろう」
行くぞと今度こそ手を取られ、黒麒麟に乗せられる。
忍人はきつく目を閉じた。
風切る音と、花の香りと、アシュヴィンの熱だけを感じる。他のことはもう何もわからな
い。
地面に降りたことさえ夢うつつだった。よすがにとアシュヴィンに梔子を一枝渡されたこ
とも、彼がもう一枝を手に、別れの挨拶のように片手を上げて、洞穴の中に消えていった
ことも。
…薄月夜の下、……残されたのはただ、点され消えぬ心の灯と、花一輪。