歌

「……しかし、…本当にあっちもこっちも荒れ果ててるなあ」
サザキがぽつりとつぶやいた。
「…比良坂から幽宮へ向かったときは、比較的山沿いに進んだだろう。…だから荒れがち
なのかとも思ってたんだが、…こんな平地の、川や森のそばでも、植物が育ってねえって、
…どうなんだよ」
長い指を伸ばして、傍らの灌木に触れる。……かさかさと、乾いた音がして、ぽきりと小
さく枝が折れた。
「…あ、折っちまった。…そんなつもりなかったのに。…わりいな」
木に謝ってやってから、サザキはため息をついた。
「日向の一族は口伝がさかんでな。…俺は聞き始めるとすぐ眠っちまうほうだったが、そ
れでも覚えてる言葉はある。…とこしえに、みどりしたたるとこよのくに、しろいはなが
はるをよび、おうのゆびにてわかくさいずる」
「……その歌、知っている」
そう言って、不意に遠夜が歌い出した。澄んだ、きれいな声だ。
「…きれいな声だが、…なんて歌ってんのかわかんねえ」
ぼそりとサザキが言うと、常世の言葉だね、と那岐が言った。
「わかるのか、那岐」
「少しならね。ここに来る前に、わかってたほうが便利かと思って勉強したから」
「えらいなあ、お前」
サザキにがしがし頭をなでられて、やめてよ、と那岐は迷惑そうにその大きな手を押しの
けた。二人のじゃれあいを横で見ながら忍人がぽつりと言う。
「…エイカが、同じ歌を歌ったことがある」
ふと、遠夜が歌いおさめた。
「……エイカは、…この歌が一番好きだ」
忍人は遠夜から目をそらして、…そうか、と短く返事した。
「…常世がこうなったのは、…そんなに昔のことじゃない。……常世が中つ国に攻め込む、
少し前、くらい。…俺が小さいときは、本当に、緑でいっぱいで、妖しもいっぱい生きて
いた」
今は、小さき神々はみんな、中つ国の方に逃げてきている。ここでは生きられない。
「そりゃそうだろう。…人だって生きられないぜ。……そうか。…常世がしたことを正当
化するつもりはないが、…この状況じゃ、他国がほしくもなるな」
言ってからサザキは、怒るなよ、忍人、と言った。逃げる気満々で翼を広げている。…が、
忍人は無言で、肩をすくめただけだった。
ふい、と遠夜が視線を他方へ投げた。忍人も那岐もサザキも、そちらを見る。風早と柊、
布都彦が戻ってきた。
「…どうだった」
「水はありましたよ」
革袋をちゃぽちゃぽ言わせて風早が微笑んだ。
「ですが、食料らしきものはやはり見あたりませんでした。…糧食を減らすのは気が進み
ませんが…」
布都彦が肩を落とす。
「…やむを得ないでしょう」
柊がかぶせるように言って、肩をすくめた。
「遠夜の歌が聞こえてましたよ」
風早が何気なく言うと、びくっと遠夜が肩をふるわせた。
「…ごめんなさい」
風早が目をぱちくりと見開く。
「どうして謝るんです?…きれいな歌でしたよ」
「…でも、あの…ここにいることが知られてはいけないのだろう」
「歌が聞こえたくらいで、軍がいると思う者はいませんよ」
風早は苦笑しながら、遠夜の肩をぽんぽんとたたいた。ほ、と遠夜が少し肩の力を抜く。
…その横で、ぽん、と那岐が手をたたいた。
「…いいこと思いついた」
「…なんだ?」
サザキが風早の革袋からそれぞれの杯に均等に水を注ぎながら、聞いてきた。こういうと
ころ、意外とサザキはマメである。
「中つ国の歌を歌おうよ。…ずっと考えてたんだ。なんとかして、千尋に連絡が取れない
かって。火をともしたらここに僕たちがいると気付くかもしれないけど、それじゃあ常世
の兵にもばれるだろう。でも歌なら。中つ国の言葉で歌えば、常世の兵にはただの聞き取
れない歌だけど、千尋にはわかるはずだ」
ぽん。
柊と風早と忍人が、同じタイミングで拳で手を打った。
「それはなかなか」
「名案ですね」
「なるほど」
はもる。……この同門の兄弟弟子は、変なところでそろう。
「順番に歌うなら疲れませんしね」
布都彦がうなずけば、
「どうせ誰かが寝ずの番をするんだろ。…歌ってれば、気が紛れていいかもしれないな」
サザキも首をすくめながら言う。遠夜はもとより異論はないらしい。
「じゃあ、那岐。…一曲どうぞ」
にっこり笑ったのは風早だった。
「ええ?…何で僕?」
「言い出したのは君でしょう」
「僕、中つ国の歌なんて覚えてないよ」
「君ならあちらの世界の歌でいいですよ。それならなおのこと、千尋にはわかりやすい」
「遠夜の方が歌が上手いのに」
「遠夜は、中つ国の歌の持ち歌は、少ないと思いますよ」
柊が参戦してきて、ねえ、と遠夜に話を振る。常世の歌や、土蜘蛛の歌ならいくらでもわ
かるけれど、と遠夜もうなずいた。
「歌ってもらえれば、覚える。…そうしたら、歌える」
と、花がほころぶように微笑まれては、…那岐に否やが言えようはずもない。
「あーもう!」
歌、歌、歌ねえ、と考えて、さいたさいたのチューリップでも歌うか、と思ったのに。
なぜか口をついて出てきたのは、
「みどりーにかーおーる、まなーびーやーはー」
……高校の、校歌だった。
みんなが目をぱちくりしている。…いわゆる西洋音楽には縁がないだろうから、さもあろ
う。風早だけが目を細めて、なつかしいですね、と小声でつぶやく。
入学式だ、始業式だ、終業式だ、と、やたら歌うことを強制されたせいか、三番までしっ
かり歌詞を覚えている。…あちらにいたときは、型にはまったつまらない歌だと思ってい
たのに、今ここで歌ってみると、なんだかなつかしいだけじゃなくていい歌に聞こえるの
が不思議だ。
……僕も少し感傷的になっているのかな、と、ちらりと思う。…らしくない自分が嫌で、
那岐は歌い終えてふるふると首を横に振った。
「……次、風早だよ」
「俺ですか?」
「僕に歌わせといて。……歌った人は次の人を指名する権利があるんだよ」
「ああ、それいいですね」
柊がのっかる。やれやれ、と肩をすくめた風早が歌い出したのは、
「あったーらしーい、あーさがっきった、きっぼーおの、あっさーだっ」
……ラジオ体操のテーマソングで、那岐は脱力してころりと横に転げた。
……もちろん、他のメンバーはもれなくあっけにとられている。
「………那岐」
忍人が転げた那岐を助け起こしてこっそり耳打ちした。
「…なんだ、これは。…異世界の歌なのだろう」
……そこは正しい。
「あのね、ラジオ体操っていうのがあってね」
「…?」
「夏になると、毎朝この曲が流れてきてね、公園で子供とかご老人とかみんなでてきて体
操するわけ。毎日通うとごほうびに鉛筆がもらえたりして」
「…えんぴつ?」
……ああ、こっちの世界には鉛筆すらないんだった、と那岐は頭を抱える。
「……いいよ、とにかく、体操しますよー、出てきてくださーい、っていう歌なんだ、こ
れは。……そういえば、風早、自治会のお手伝いとかいって、毎年真面目にラジオ体操に
通ってたなあ」
「君は出てきた試しがありませんでしたけどね」
歌い終えた風早が言う。
「高校生にもなって、出てるやつなんかいないよ!」
「おや、千尋は毎年ちゃんと鉛筆をもらっていましたよ」
「……千尋が特別なんだよ…」
自分が起きられなかったことを棚に上げて、那岐はぶつくさつぶやいた。
「まあ、今追求しても仕方ありませんしね。…次は、そうだな、サザキにお願いしましょ
うか」
「……俺か?」
「日向の歌は、どんな歌です?」
「日向の歌っつーか、…あー、…こんなんでもよければ」
そういってサザキが歌い出したのは、勇壮なかけ声が入る歌だった。力強く、拍子が取り
やすい。聞いていると一緒になって同じテンポで体が揺れる。
歌い終えたサザキに、これは?と柊が問うと、舟歌だよ、と彼は首をすくめた。
「風がないときなんか、みんなでこれを歌いながら速さを揃えて艪をこぐんだ。これは俺
たち日向の歌だが、中つ国の船乗りたちも、たぶん似たような歌を歌うだろ」
なるほど、どおりで、と那岐がうなずくと、隣で遠夜もうなずいている。土蜘蛛にも、似
たような歌が存在するのかもしれない。
「じゃあ、次は布都彦だ!歌え!」
…えらそうに命令して、嫌みでないところがサザキのサザキたる所以だ。布都彦も、は、
私ですか、と少し照れながらも、素直に歌い出した。
布都彦らしい、素直な、きれいな歌だ。と、
「「「おやおや」」」
風早と柊、忍人が見事に声を揃えたので、那岐は吹き出してしまった。
普段、柊とは気が合わないと宣言している割に、兄弟弟子の恐ろしさか、妙なところで忍
人も彼らと感性が似ている。
「お安くありませんねえ」
柊がにやにやしている。風早もにこにこしている。…わけがわからなくて、隣にいる忍人
の脇腹をそっとつつくと、
「歌垣でよく歌われるたぐいの歌だ」
と教えてくれた。
「…歌垣?」
…なんだか聞き覚えはあるけどな、と那岐が首をひねると、忍人はかすかに笑って、
「ひらたくいえば、妻問いの歌だな」
言葉を足す。
妻問い?…って、…求婚のことか。…ああ、なるほど、それは。
「…確かに、お安くない…」
この中で最年少の布都彦が歌うのがそれって。どうなんだよと目線で布都彦に問うと、布
都彦は真っ赤になって歌い終えた。
「…不調法で、歌と言えばこれくらいしかわかりません」
「不調法だなんてとんでもない。…いい歌でしたよ」
柊がなだめるように言ったが、…どうにも彼が言うとからかわれているように感じるよう
で、布都彦はなおのこと身を縮めた。
「おやおや、次の指名もままならぬようだ。……では、…こういう歌はどうでしょう?」
指名を受ける前に、柊が歌い出した。
……それは不思議な歌だった。歌詞は確かに中つ国の言葉なのだが、何を言っているのか
意味が取りづらい。そして旋律は、中つ国や、異世界の日本でもあまり聞いたことのない
ような曲だった。あえて言うなら、異世界の日本のエスニック音楽、インドやアジアの曲
に近いような気がした。
ふと見ると、那岐の真正面に座っている風早が、ひどく厳しい顔をしていた。…まるで、
柊を責めるような。
……なんだ、…風早?
気付けば、隣の空気もぴりぴりしている。…忍人だ。…彼は元々、柊のやることに批判的
だが、どうやらそれだけではないように思える。
柊が歌い終えると、忍人が口を開くよりも先に、風早がつぶやいた。
「…アカシヤに節があるとは知りませんでした」
低い声だった。口調は柔らかいが、やはりどこか、責める響きがある。
柊はその雰囲気に気付いているのかいないのか、のほほんと応じる。
「…終わったアカシヤに、一族の中の数寄者が節をつけるのですよ」
あかしや?
「忍人、あかしやって何」
もう一度隣の忍人に問いかけると、彼は無言で首を横に振った。
忍人がアカシヤのことを知らないのかとも思ったが、なぜか、そうではない気がした。忍
人は自分に教えたくないのだと、なんとなく那岐は思った。
「雰囲気が少し暗くなってしまいましたか?…私が歌の選択を誤ったようですね。…では、
忍人、お願いできますか?…遠夜はやはり、最後にお願いしたいですから」
忍人はむっつりしたまま、…とはいえ、順番的には自分だとわかっていただろう、すう、
と軽く息を吸ってから、歌い出した。
…忍人の歌声は、普段の厳しい声に似合わず、不思議と柔らかく甘いテノールだった。
ああ、言祝ぎの歌だ。
歌の歌詞を追いながら、那岐は思う。
彼の声は、山々の峻険さを尊び、海の深遠さを敬い、木々の長寿を喜び、風のさわやかさ
を楽しむ。龍神や獣の神がこの豊葦原に住まう前から、この国には八百万の神々がいまし
た。草の一本、石の一つにも神が宿る豊葦原。その神々すべて、自然の全てを言祝ぐ歌だ。
風早はうっとりと目を閉じて聞いている。……まるで、自分のために歌われている、とで
もいうかのように。
「…初めて聞きます」
小さな声で布都彦が言った。…その隣に座る柊が同じく小声で、
「彼も古い血筋ですからね。…一族に伝わる古い歌でしょう」
とつぶやく。
最後に日と月、星の神をたたえて、忍人は歌い収めた。
まるでそれを待ちかねたかのように、遠夜が歌い出した。
澄んで甘く、高く伸びる声。美しい声。…その声が歌っているのは。
「……勘弁してよ。…うちの校歌じゃないか」
那岐は頭を抱えた。傍らで忍人が微笑む。
「君の歌もうまかったが、また遠夜が歌うとちがうな」
「…僕が歌うと、こんなにきれいに聞こえないよ」
「そんなことはなかった。…いい歌だと思った。素直で、のびやかで」
「どうも。…同じことを言わせてもらうよ。…意外と歌が上手いね、忍人」
「…やめてくれ」
那岐が言うと、忍人は耳を赤くして頭を抱えてしまった。…ほーら、言われた方の気持ち
がわかったろう、と、肩をつつく。わかった、悪かった、と忍人が応じて、吐息をついた。
たった一度聞いただけのはずなのに、遠夜の記憶は正確だった。二番も三番も、間違えず
に歌う。
…遠夜が歌うと、うちの校歌、すごくいい歌に聞こえるなあ。
那岐がぼんやり思っていると、遠夜の歌が間を開けることなくラジオ体操のテーマソング
に移った。がっくりと那岐は突っ伏したが、…黙って聞いていると、この歌もなんだかと
てもきれいだ。毎夏、朝から町内に鳴り響いていたときは、ああまた夏の風物詩かと思い
はしたが、きれいな歌だと思ったことはついぞなかったのに。
肩の力が抜けている自分に、ふと気付く。
「……不思議だなあ」
思わずつぶやくと、傍らの忍人が何のことだ、と反応した。
「敵地のまっただ中にいるようなものなのに、どうしてこんなに落ち着いているんだろう」
忍人は、ふ、と笑って、
「…君がどうかは知らないが、少なくとも俺は、風早が落ち着いているから自分も落ち着
いているのだと思う」
と言った。
「……風早?」
「そう。…もし、二ノ姫の身に何かあれば、何をおいても風早は必ず飛び出していく。…
それがないということは、少なくとも今は、二ノ姫の身が安全ということだ」
「……ああ、…そうか」
確かに。風早は不思議なセンサーみたいなものがあって、千尋に何かあれば必ず助けに行
く。今彼がここにいるのなら、確かに千尋はどこかで無事でいるのだ。
千尋が無事だから、…自分もリラックスしていられる。
「…そうだね、…確かに」
そのとき、風早が近寄ってきて二人に声をかけた。
「今のうちに少し休んでください。遠夜が今歌ってくれているので、俺と遠夜で番をしま
す。順番に起こしますから」
忍人と那岐は顔を見合わせた。サザキは、じゃあありがたく、とごろりと横になる。布都
彦も肩の力を抜いた。柊は寝ているのか寝ていないのか、片膝を抱えた姿勢でうつむいて
いる。忍人がため息を一つついて横になったので、その横で那岐もころんと転がって膝を
抱いた。
遠夜の声が、舟歌を歌い出す。…ゆらゆら、テンポに合わせて体が揺れる。……どんどん、
眠くなっていく。
そのまま那岐は眠り込んでしまって、…風早の気配が消えた瞬間に、気付かなかった。

闇夜を、麒麟が駆けていく。……歌にのって、姫の元へ。
ここにいるよ、僕たちはここにいるよ。……君のために、歌っているよ。
たった一人の、君のために。