虚ろ

「桃の里の話を知っているか?」
その晩、ふらりと僕の部屋を訪れた忍人は、少し疲れた顔でそう言った。
「桃の里?地名?」
「いや、…昔話というか」
なぜだか忍人に覇気が薄い。少し気にしながらも、僕はとりあえず思いついたことを口に
した。
「桃源郷のことかな」
「桃源郷?」
「山の中に理想の村があるっていう話じゃなかったっけ。争いもなくて、いつも豊かに作
物が実り、老いや病気もなく、人々がみんな幸せに暮らしている」
忍人は少し瞳をすがめて、ゆるゆると首を横に振った。
「似ているが、少し違うな」
寝台にだらしなく腰掛けていた僕の傍らに、彼もそっと腰を下ろす。
「俺が知っているのはこうだ。…鹿を追う猟師がある日、山の奥に迷い込んだ。こんな道
があっただろうかとたどっていくと、ぽかりと桃の花が咲く村に出る。…そんな季節では
ないのにだ」
忍人はふと言葉を切り、窓の外に目をやった。…もちろん、もう桃は咲いていない。宮に
ある桃の木は、小さな青い実を実らせている。
「……その村に暮らす人々は、里では見かけない人間ばかりなんだが、なぜかみなどこか
で見覚えがある顔をしていて、不思議と老人が多い。猟師を見て驚いた顔をするので、道
に迷ったことを話すと、長老らしき老人が出てきて丁寧に帰り道を教えてくれた。教えら
れたとおり山を下っていくと無事村に出たが、なぜか皆猟師の顔を見て大騒ぎする。彼は
一週間ほども戻らなかったと言うんだ」
浦島太郎みたいだ、とふと思ったが、口に出すのは止めた。中つ国にはまだ存在しない話
だ。
「どこへ行っていたと口々に言う顔を見ている内、猟師は不思議な気がしてくる。どの顔
も皆、あの村で見た顔のような気がしてくるんだ。…最後に村長が、無事で何よりと姿を
現して猟師はあっと声を上げる。……猟師に道を教えた老人。…あの老人は、先の村長、
…つまり、今目の前にいる長の父親だったと。彼だけではなく、村で見かけたのは全て、
もう亡くなったはずの人間だったということに」
さわりだけにしては長い話だった。…ふう、と吐息をもらす忍人を気遣いながら、僕はか
すかに首をひねった。
「細部は違うけど、似たような話は聞いたことがある。桃が絡んでいたかどうかは覚えて
ないけどね。…でも、どうして急にそんな話を」
うつむきがちだった忍人が、ようやく僕を見た。
「今日、陛下の依頼で耳成山の神に供物を捧げに行った。近いし、たいした量ではなかっ
たから、供は連れなかった」
ゆるゆると視線がまた僕から離れていく。
「耳成山は、小さな山だ。迷うような道はない。それに昔から何度も行って、よく知って
いる。…それなのに、供物を捧げた帰りに俺は気付けば知らない道を歩いていた。こんな
道があったかと思いながらもとりあえずふもとには降りられたから、宮に戻ったら、…玉
座に、一ノ姫が座っていた」
忍人はそこで言葉を切った。…僕は一瞬意味がわからず、は?と声を裏返した。それをど
うとったか、忍人はかすかに笑んだ。
「…那岐は、一ノ姫を知らないか?…陛下の、姉上だ」
知っている。いや、直接は知らないが、存在と名前くらいは。…だが、その人は確か…。
「二ノ姫の姿は玉座になかった。その代わり、傍らには羽張彦…布都彦の兄だ…がいて、
姫を守り補佐している。もう片側には柊がいて、竹簡に何かを書き付けていた手を止めて
俺を見て笑う」
俺は呆気にとられていた。
そうつぶやく忍人を前にして、僕は今呆気にとられている。
…なぜなら、羽張彦、…布都彦の兄も、一ノ姫と共に命を落としたはずだからだ。少なく
とも僕はそう聞いていた。
「姫は、だが、呆気にとられている俺に微笑んで、『ああ忍人、いいところにきてくれた
わ。…耳成山の神に供物を捧げてきてほしいの、お願いできる?』とおっしゃった」
言われるがままふらふらと忍人はまた耳成山に向かった。供物を捧げ、道を下る。今度は
一度も知らない道に迷い込むことなく、宮まで戻ってきた。
その忍人を出迎えたのは、いつもの二ノ姫、…否、現女王陛下だった。
お疲れ様と微笑んだ顔がすぐにくもる。
「ひどい顔色。…ごめんなさい、疲れていたのに使者を引き受けてくれたのね。…今日は
もう、下がって休んで。…女王命令よ、葛城将軍」
いつもは忍人さんと呼びかける彼女が、役職名で呼ぶのはよほどのことだ。忍人は言われ
るがまま、玉座の前を辞してきたのだという。
「…俺が見たものは、白昼夢だったんだろうか」
忍人はついに両手で顔を覆ってしまった。
「一ノ姫は俺と同い年だから、もう二十歳を超えているはずだ。だがまだ十代の少女のま
まだった。羽張彦も、あの時別れたままの見た目だった。柊だけが、相応に年を重ねてい
て」
……。
「それとも俺は、桃の里へ行ってきたんだろうか。死者が幸せに暮らす、この世のもので
はない国へ。……だとしたら、柊は、…柊も、」
その先を言いかねてか、忍人は不意に押し黙った。
僕の中に、何かどろどろしたものがじんわりと満ちてくる。
…気付いていたことだった。
忍人の中には大きな虚ろがある。あの男が空けた虚ろ。忍人の前から消え去ることで、彼
の中に癒えない傷をつけていった。
ひどい男のことなど忘れてしまえばいい。僕のことだけ考えてくれればいい。
けれど、僕がどんなに愛しても、柊が空けた虚ろは埋まらない。
僕は忍人から顔を背けて憂鬱な吐息を呑み込んだ。
僕の思いが、忍人に通じていないとは思わない。僕は忍人を愛し、忍人も僕を愛してくれ
ている。彼の目が僕を見つけて、その眼差しにじわりと熱が宿る、その瞬間がたまらない。
清らな君に、そんな顔をさせているのは僕だ。だから、君の愛を疑いはしない。
でも、忍人の心に宿るのが僕だけでないこともまた事実。だから僕はいつも恐れている。
君の心に空いた虚ろに、いつか熱がともる日のこと。
失った寂しさよりも、なくしたものを見つけ出して取り戻そうとする欲の方が大きくなる
こと。
僕への思いよりも、柊が空けていった虚ろの方が、君の心の中で大きな場所を占めてしま
うこと。
……君がいつか、僕でない人を好きになること。
「…っ」
気付けば僕は、忍人を抱きすくめていた。
「…那岐?」
忍人は唐突な僕の行動に驚いた様子で声を上げる。
君を手放さない。君に他のことを考えさせない。君は僕を見て、僕のことだけ考えていれ
ばいい。ずっと、ずっと、ずっと。
「夢だよ、忍人。夢を見たんだよ。…だって、宮を治めているのは二ノ姫の千尋だ。一ノ
姫じゃない。…そうだろ?」
君が見たのは夢だ。忘れてしまうんだ。……お願いだから。
「…だが…」
忍人が何かを言いかけた。…その唇が再び彼の名を呼ぶのが怖くて、僕はがむしゃらに唇
を重ねた。
「…っ」
一瞬抵抗しようとした忍人だったが、すぐに力を抜いた。
嫉妬と欲望のおもむくままに、僕はめちゃくちゃなキスをした。
僕の無体を、けれど忍人は拒まない。
受け止めて、受け入れる。
…だけでなく、力なくたらされていた腕で、僕の胸元にすがりついてくる。白い指の先が
桜色に染まる。君の熱が僕にだけ向かう。
満足した僕がぺろりと忍人の唇をなめてから離れると、忍人はのろのろと瞳を開けた。中
途半端に放り出された欲望をもてあますかのような光をその目の中に見つけて、僕はうっ
すら笑った。
この恋が狂気に変わり始めていることを、僕は知ってる。
きっと、こんな風にしか君を愛せない僕の心の方が虚ろなのだ。大切な何かがいつの間に
か欠け落ちている。たぶん僕の心は、このままいつか壊れてしまうのだ。…いやもしかし
たら、その前に君を壊してしまうかも。
……だけど、それでも。
「…那岐?」
身体に帯びた熱のせいか、激しかった口づけの余韻か、忍人の声がかすれている。
僕は笑って、…優しく笑って、忍人を静かにかき抱いた。

…愛しているよ、忍人。