うつつの宵


黒麒麟に乗っていてさえ長く感じる、狭く暗い道のりの果てに、光が見えた。
アシュヴィンはねぎらいに黒麒麟の首を撫でてやりながら、比良坂を抜けて畝傍山へと降
り立つ。
冬の短い日が、ちょうど西の山に落ちるところだった。アシュヴィンが降り立ったのは山
腹だから、まだぎりぎり残日が見えたのだろう。ふもとではもうすっかり日が暮れている
にちがいない。
「……」
アシュヴィンは静かに瞑目した。
知らせたのは、日没に比良坂の入口で。
彼はその知らせをどう聞いたか。
……だが、待つほどもなく、気配はすぐに訪れた。
「…アシュヴィン」
静かな声が彼の名を呼ぶ。
目を開けると、ふもとに続く山道にひそりと、藍色の衣装をまとった青年が佇んでいた。
髪も瞳も闇のようにしっとりと黒い。彼を見るたびにアシュヴィンは、まるで夜を人の形
にしたようだ、と思う。
「…忍人。来たか」
「……。呼んだのは、君だ」
眉間に寄せられたかすかなしわが、忍人の困惑を物語るようだ。
「……何故、こんなやりかたで、俺だけを呼び出した」
「…こんなやりかたで、とは?」
アシュヴィンは、忍人の困惑ぶりを心のどこかで心地よく思いながら静かに笑み、手袋を
はめた指先を己のあごに当てた。
「……。…俺個人に文書を寄越し、俺一人でここに来いと呼び出したことだ。…そんなこ
とをして、陛下や中つ国の他の臣が怪しむとは思わなかったか?」
「…俺が送った使者のリブが、お前だけに文を渡すところを誰かに見られていたり、お前
が受け取った文の内容を誰か他人に話したり、書かれている内容を勘ぐったりしていれば、
そうなっただろうな。……だが、リブはへまをしなかったし、お前は誰にも話さなかった
し、俺のことも疑わなかった。……そうだろう?」
忍人は眉間のしわを一本増やし、かすかに唇を噛んだ。…沈黙は肯定だ。
「俺のやり方に不満があるなら、お前は何故ここへ来た?」
アシュヴィンがかすかにからかいを含んで問いかけると、忍人は、まっすぐにアシュヴィ
ンを見返した。
「俺がこの誘いに応じなければ、君は黒麒麟で橿原宮に乗り付けただろう。……不要な諍
いのタネは摘むのが俺の仕事だ」
「……仕事、か」
アシュヴィンは片眉を上げて、…静かに嘆息した。
「……つれないことを言う」
「……」
「…確かに、もしお前がここに来なければ、俺は橿原宮に黒麒麟で乗り込んでいただろう。
だがそれは諍うためではない。……お前に会うためだ」
忍人は、その瞳をぱちりと見開いた。
いつもはひどく落ち着いている彼が、時折奇妙に幼く見えるのは何故だろう。…そうやっ
て瞳をまろく見開くと、まるで幼子のようだと、アシュヴィンは思った。…口が裂けても
本人には言えないが。
「……アシュヴィン」
己の名を呼ぶその声の、戸惑う色がたまらない。
アシュヴィンはそっと、忍人に手をさしのべた。
「今宵一夜、…俺につきあえ、忍人」
「……今宵?」
「今日は一年で一番日が短くなる日だ。…以前、天鳥船で共に過ごしたときお前は、自分
が生まれた日は一年で一番夜が長い日なのだと言った。…だから今日は、お前の生まれ日
だ」
忍人はゆっくりと一つまばたきした。
「…よく、覚えているな。……そうだ」
「…だから、今宵だ。…今宵一夜でいい。……俺のものになれ、忍人」
「……!?」
とっさに逃げ腰になる忍人を、アシュヴィンは許さなかった。さしのべていた手で忍人の
背をぐいと抱き込む。アシュヴィン、と、咎めるように名を呼ばれたが、意に介す気はな
かった。
「……愛している」
ひゅっ、と、忍人が息を吸うのが聞こえた。
「…愛している、忍人」
熱を帯びた目で忍人の瞳をのぞき込むと、いっぱいに見開かれた瞳は、困惑で揺れてはい
たが驚いてはいなかった。
「…本当は」
その耳元で囁くと、忍人の肩が大きくびくりと震えた。
「お前を常世で俺の傍らに置き、片時も側から離したくない、と思う。…だが、その思い
を遂げるには、俺たちの間には妨げが多すぎる」
妨げとは、たとえば拠る国の違い。信じ、守ろうとするものの違い。同じ性。……そして、
互いの心の中にある壁だ。
「性は変えられないし、守るべきものを捨てられない立場の俺たちだが、一つだけ、確か
め合えば取り除ける壁がある。…それが、俺たちの心にある戸惑いやためらいという壁だ」
忍人から逃げようとする気配が消えたことに気付いて、アシュヴィンはそっと束縛してい
た手を放した。
「お前の気持ちが知りたい」
率直に告げると、忍人もまっすぐにアシュヴィンを見返してきた。
「俺がこうしてお前を請うことが迷惑なら、このままきっぱり立ち去って、公的な場以外
では二度とお前の前に姿を現さないと誓う。……だが、もしも」
アシュヴィンは静かすぎる忍人の目に己の熱を移すかのように、じっとその眼をのぞき込
んだ。
「もしも、お前の気持ちが俺と同じところにあるなら」
片手を胸に当て、もう片方の手を差し出す。
「今宵一夜だ。今宵限りでいい。…俺のものになると言ってくれ、…忍人。……俺は、お
前を、何にも代え難く愛している」
愛している、とアシュヴィンは無意識にもう一度繰り返して念を押した。
「俺に、答えをくれ。このまま俺の手を取り、一夜、お前の全てを俺に預けてくれるか。
…それとも、この手を振り払うか」
鼓動が早鐘のようにアシュヴィンの胸を打ち付けた。目の前に佇む忍人はとても静かで、
…静かすぎて。
………けれど、唐突に。
「……アシュ…」
わななく唇がアシュヴィンの名を呼んだ。
「……今宵一夜、限りだ」
「……っ」
すっ、と、アシュヴィンは息を呑み、
「…ああ。……それでいい。十分だ」
さしのべた手に忍人が奥ゆかしくそっと手を預けてくるのがまどろっこしくて、アシュヴ
ィンはぐいとその身体を引き寄せ、外衣の中に抱き込んだ。
きつく抱きしめると、忍人は目を閉じて身体の力を抜き、甘えるようにアシュヴィンに全
てを預けてきた。愛おしくて、愛おしくて、腹の底がじわじわとむずがゆい。
抱きしめられている忍人のかすれる声が、ひっそりと何かをつぶやいたので、そっと耳を
寄せると、夢のようだ、と、彼は言っているのだった。そのひそやかな声を抱きしめて、
アシュヴィンは黒麒麟にまたがり、空を駆けた。

「……夢ではない、忍人。……許すのが、許されるのが、たった一夜限りでも、この宵は
うつつだ。俺もお前も確かにうつつだ」
…愛しい恋人に繰り返し、繰り返し、そっと言い聞かせながら。