器 自分が、いつ何からどうやって生まれてきたのか俺は知らない。ただ確かなのは、身体と いう器に入るよりも先に、俺の意識は存在していたこと、そして何かぼんやりとしたもの の中でたゆたっているときから既に、誰か何かに呼ばれ続けていたことだ。 呼ぶものは様々だった。 あるものは、古く高い木々の梢の葉擦れの光、またあるものは、大地の下に深く眠る石の 記憶。そしてまたあるものは、いとけない少女の意味のないささやき声。 それらはすべて、たゆたう俺を呼ぶように、待つように、俺を取り巻いていた。俺はずっ とそのものたちに包まれて幸せだった。このままずっとこうしていていい。…そう思って いた。 けれどある日、その優しい安息は破られた。 古い木々は音を立てて切り倒され、梢の光は一瞬の閃光を残して闇に消えた。大地は荒々 しく掘り起こされて石は砕かれ、暖かな記憶はかけらになって飛び散った。そしてやわら かな少女のささやき声は、悲鳴のような泣き声に変わる。 …その声が、俺を揺り起こした。 ……声が消えてしまう……! そう思うとたまらなくて、俺は手を伸ばした。 ………手? 俺は我に返る。 手とは何だ。俺にそんなものがあっただろうか。 首をかしげて、両足を踏ん張って立ち上がり…またはっとした。 首。頭。足。…歩ける。動ける。つかめる。………つかめる………! 俺は少女の泣き声をつかもうとしてつかめず、絶望に震えながら己が器を得たことを悟っ た。 白く輝く獣の姿で立つ俺の回りにはもはや、木々の光も石の夢も少女の声もない。だが俺 は知っていた。この身体を得た俺は、失った物を手に入れに行くことが出来るのだと。手 に入れて、今度こそ、守ることが出来るのだと。 「……や。……ざはや」 ……声が聞こえる。 「…風早ってば!」 焦れた声に呼ばれて、風早ははっと目を覚ました。腰に手を当てて、千尋は唇をとがらせ ている。 「もう。ソファなんかで寝たら風邪ひくよ?いつも私に注意するの風早なのに、どうした の、今日は」 「昨夜遅かったのか?」 朝食を並べながら忍人が問う。 「夜中に部屋から灯りがもれていたようだが、いつのまにここに」 「…ああ…。授業の準備をしてたんだよね…。生徒に授業で見せるビデオを確認しようと 思って下に降りたまでは覚えてるんだけど。…見ている間に寝ちゃったんだな」 「まあいいんじゃない?あんた無駄に丈夫だし」 ごはんを茶碗につぎながら言ったのは那岐だ。 「夏風邪はバカしかひかないそうだし、あんたは大丈夫だろ。…千尋はともかく」 「那岐。…それどういう意味」 千尋が鼻の頭にしわを寄せる。 「千尋は身体が弱いってことさ」 「そうは聞こえなーい!」 がるるとうなる千尋の背を、ぽんぽんとなだめるように忍人が叩く。那岐がくすくす笑っ ている。ソファにだらしなくもたれたまま、風早はほにゃりと笑った。 「…なんだか風早、楽しそう」 拗ねていた千尋が笑う風早を振り返って、少し機嫌を直した。 「どうしたの?」 「いい夢を見てたんだ」 ほにゃほにゃと笑いながら風早は応じた。 「どんな夢?」 「生まれる前から、僕らが家族だった夢」 「「「…は?」」」 三人は声を揃えてけげんそうな顔をした。その三つ並んだ愛おしい顔を見て、風早の笑み が深くなる。 大丈夫、今度は守る。絶対に守る。…たとえ俺の全てと引き換えても、君たちだけは守っ てみせる。 そのために、俺は器を得たのだから。