ヴィオラの雨 大地がゆっくりと手帳を繰って、告げられた日にちを確認している。その姿を、律は大地 のベッドに腰を下ろして見上げていた。 大学に入って道が別れてしまえば、おいそれと会うことはかなわなくなる。…わかってい たことだけれど、想像していた以上に、大学に入ってからの大地と律は時間がかみ合わな くなっていた。 会えるのはせいぜい週に一回がいいところで、下手をすれば二週間近くも会えないことも ある。その、せっかくの週に一回でさえ、互いに無理矢理時間を合わせて、こうして夜に どちらかの部屋へ押しかけて、つもる話を交わすのが精一杯だ。 −…もうどのくらい、大地のヴィオラを聞いていないんだろう。 ぼんやりとそんなことを考える。 そもそも、大地にヴィオラをさわる時間があるとは思えない。もし弾いてほしいとねだっ たとしても、急には無理だよと困った顔をされそうで言い出せない。 だから、律からねだりはしないのだけれど、……思い出したら無性に恋しさがつのった。 −大地のヴィオラが、聞きたい。 ヴィオラ特有の落ち着いて深い響きと、奏者の性格を表すかのように暖かみのある優しい 音色。深みの中にどこか軽快さもあって明朗で、…その不思議なギャップが、律は本当に 好きだった。 「……だよ」 自身の考えに沈んでいた律は、大地が話しかけてきていることに一瞬気付かなかった。 「律。大丈夫、だよ」 聞こえていないと気付いたか、改めてゆっくりと、はっきりと発音されて、はっと我に返 る。 「……え、……あ」 「ぼうっとしてた?」 大地が目の前でひらひらと手を振って、苦笑している。 「さっき、律から言われた日程、大丈夫だ。…空けておくよ。律とコンサートを聴きに行 くなんて久しぶりだな、楽しみだ」 優しく瞳を細めてから、そういえば、と大地は思い出したようにぽんと手を打った。 「また夏が来ればコンクールがあるね。今年はどんな選抜をするのかな。律はハルから何 か聞いているかい?」 律は笑って首を横に振った。 「いや。…俺はもう、二代前の部長だ。…水嶋も、わざわざ俺に相談を持ちかけてきたり はしない」 「そうか。…ハルはずいぶん律をリスペクトしてたから、もしかしたらと思ったんだけど」 「大地こそ、水嶋とは幼なじみだろう。…何か聞いていないのか?」 「ハルが音楽のことで俺に相談なんかするはずないだろ。……まあ、まだずいぶん先の話 だしね。そのうち相談がくるかもしれないよ」 穏やかな大地の笑顔が、そこでふと、ためらいを浮かべる。 「…ところで」 こほん、と一つ咳払いして。 「律から申し出てもらったついで、ってわけでもないんだけど、…俺も、律に予定を確認 してほしい日があるんだ」 「…?」 律がゆっくり首をかしげると、大地は珍しくどこかおずおずした様子で申し出た。 「……今年の六月六日は、…律を独占したいんだけど。……いいかな」 「……。……!」 六月六日が何の日か、ということよりもまず、独占するという単語に耳がかあっと熱くな った。 「もちろん、響也やひなちゃんもこっちにいるわけだし、去年みたいにみんなでバースデ ィパーティをってことなら、俺も大人げなく我を張ったりする気はないけど。……でも、 もし」 ふっ、と、大地の声がかすれた。ささやくように、甘く。 「もし律が、…俺と二人きりでいてもいいと、思ってくれるなら。……六月六日の律を、 俺にくれないか」 ……ずるい、と、律はふと思った。…その直前まで普通の声で話していたのに、急にそん な甘い声で、ねだるように、せつせつと。 ずきん、と、…身体の芯か心の芯か、……深い深いところが熱くなった。とても大地の顔 は見られない。うつむいて、目を伏せて、…そしてようやく、律はそっとうなずいた。 ほっとしたのだろうか、大地のまとう気配がゆるむ。部屋の空気も弛緩する。…その和ら いだ空気に、律は力を得た。 −…今なら。……今なら、言える。 「…その、かわり」 急いた声は少しかすれた。 「…?」 「そのかわり、…俺にも頼みがある」 なんとか顔を上げて、まっすぐに大地を見ると、彼は優しく微笑んで律を見ていた。 「もちろん。…俺に出来ることなら何でもするよ。…プレゼントだって、何だって」 「プレゼントはいらない」 大地の言葉を遮るように律は言った。が、その言葉に大地が、え、と意表をつかれた顔に なったので、慌てて言い添える。 「少なくとも、ものはいらない。……ものじゃなくて、…俺の誕生日に、大地のヴィオラ を聞かせてほしい」 ふっ、と、大地が真剣な顔になった。 「…律」 「六月六日の俺の全部を、大地の好きにしていい。だから、そのかわり、…俺に大地の音 をくれ。もういいって俺が思うまで、…もう充分、大地の音が俺の体にしみこんだって思 えるまで、俺のためにヴィオラを弾いてくれ、大地。……頼む」 「……」 大地はしばらく沈黙していたが、やがてぽつりと、参ったな、と言った。 律ははっと身を固くする。 「…困る、……か?」 おずおずと問うと、ちがうよ、と、大地は笑った。 「困ってるわけじゃない。…でも、俺なんかでいいのかって思う。…律は、もっとすばら しい音楽に、いつもいつも触れているのに」 律も小さく笑う。 「大地の音がいいんだ。……大地の音は、俺にとって水と同じだから」 「…律」 「それがないと、渇いて死んでしまいそうになる。……だから」 「…律」 律は、両の腕を投げ出した。それは、異国の神への祈りの姿に似ている。…祈るように、 ねだるように、…大地へと伸びる腕。 「浴びるようにお前の音を受け止めたいんだ。……大地」 大地はかしづくように膝をついて、律の手を両の掌で受け止めた。…そのまま、額に押し 当てる。 「それが君の望みなら、…喜んで、いくらでも」 律はゆっくりと微笑んで、大地の手に己の手を預けたまま目を閉じた。 脳裏に、幻のヴィオラの雨が降る。トレモロの飛沫、ピッツイカートの雫。 ……せつない渇きが癒されるのは、きっともうすぐ。