わがままと身勝手と恋


「八月後半に神戸に行こうと思ってるんだ。…時間があれば一日くらい、暇をつぶしても
らえると助かるんだけど」
いつも通り、素直ではない言い方で電話がかかってくる。蓬生は携帯を耳に押し当てて、
その声の色を探る。
「日は、決めてるん?」
電話の向こうの反応を、息をひそめて確かめている。けれど声だけは平然と、蓬生は問う
た。…その返事が、自分が望んでいる日であることを願って。


大地はあの夏以来、毎年八月に神戸を訪れる。…けれどいつも蓬生の誕生日には来なかっ
た。
蓬生は、避けられていることに気付いてはいたが、あえてそのことについて考えないよう
にしていた。大地にもいろいろ用事があるんや。…そう、自分に言い聞かせて。
…そんな蓬生に、大地の行動について考えることを促したのは、皮肉にも幼なじみの千秋
だった。
「なあ。…21日、どうするんだ?」
それは二人が大学二年生の、もうすぐお盆、という時期だった。
「21日?」
アーケードが多い神戸の街だが、それでも、八月に長く外を歩いていると体力を使う。ち
ょっと休憩、と、入ったカフェで、コーヒーを前に蓬生は首をかしげた。
「誕生日だろ」
同じコーヒーを前に置いて、千秋は強引な、それでいて優しい眼差しで蓬生を見ている。
「どうするも何も、…別に。…この年で、親とケーキもないしな。よかったら千秋、遊ん
でくれへん?」
「そりゃ、かまわんが」
千秋は推し量るように少し目を細めた。
「…榊は」
二人でいるときには敢えてあまり話題に上せない名前を挙げられて、蓬生は曖昧な笑みを
浮かべる。
「榊くんが、何」
「来ないのか?神戸に」
「来やるで」
今度は千秋が曖昧な顔になった。
「…じゃあ、…21日は榊と遊ぶんだろう」
「何で」
「……」
「…榊くんが来るん、21日とちゃうで。23日や。…一泊して帰る、とは聞いてるから、
24日も相手するけど、21日はヒマやで」
蓬生としては、なるべくさりげなく説明して、そのまま聞き流してもらいたかったのだが、
千秋は眉を寄せて考え込んだ。
「…去年も、お前、俺と遊んだよな、誕生日。…二十歳のお祝いやからってかなりいろい
ろやらかした気がする」
「せやねえ。いろいろやってもろた記憶あるわ」
「去年、榊は?」
「ん」
問わないでくれ。…そう言いたかった。だがごまかしを許さないような千秋の目に、話を
流すことも出来ず、しらばっくれることも出来ず、しぶしぶと蓬生は天井を見上げた。
「…いつ、やったかな。……21日の前やったんは確かや。…まだ二十歳になってへんの
に、て言われながら、一緒にバーで酒飲んだわ。…榊くんはジンジャーエールやったけど
な。バーに入って、しかもあの見た目で、ジンジャーエールはないやろって散々笑たわ。
似合わんやろ?」
誘う話に、しかし千秋はのってくれなかった。じっと蓬生を見ている。
「…千秋?」
「わざとか?」
「……」
「榊は、わざとお前の誕生日を外してるのか」
「……」
蓬生は目を伏せた。
…元より、気付いてはいた。一回ならともかく、二回続けばそれは偶然ではなく必然の可
能性が高くなる。だが、人から指摘されるのと自分で自覚するのとでは話が違う。つきり
と、心の深いところが少しだけ痛んだ。
「…近い日に神戸に来られるんだ。21日に照準を合わせばいいのにずらすことに何の意
味がある。しかも、去年は前にずれて、今年は後。間違えて誕生日を覚えてるってわけで
もなさそうだ。……榊は、何のためにそんなことしてるんだ」
「……別に、……わざとやないやろ」
蓬生は目を伏せたまま応じた。
「意識してへんか、…だいたいこの辺り、としか覚えてへんのちゃうか。…たぶん」
「……」
千秋は少し蓬生から目をそらした。
「…榊がそういう奴だと、お前が信じるならそうなんだろう」
それは、蓬生の言葉がごまかしや方便に過ぎないと、明らかに知っている口ぶりだった。
そして、千秋が暗に指摘しているとおり、蓬生は今口にした自分の言葉を信じてはいなか
った。
大地は基本的に数字に強いし、物覚えもいい。あの横浜で過ごした夏に、蓬生の誕生日の
日付はしっかりとインプットしたはずだ。それが出来ないようなタイプの人間ではないと
思う。
かすかに蓬生がうなだれた。顔をそらしていてもその様子は目に入ったのか、千秋は苦い
顔で蓬生に向き直る。
「……悪い。…余計なことを言ったな」
「別にええよ」
蓬生は作り笑顔で顔を上げたが、その笑顔を見た千秋はますます苦い顔になった。
「…蓬生」
「何?」
「…そんな顔、せんならんのやったら、……もう」
そこで言い淀むのは千秋らしくないことで、蓬生ははっきりと嗤った。
「……千秋。…やめとけ、て、人から言われてやめられる気持ちやったら、俺かってとっ
くにやめとうよ」
一瞬はっとした顔になった幼なじみは、…すぐに、自分への悔いのような色を頬の隅で噛
みしめた。千秋のそんな顔は見たくなくて、…蓬生は、作ってもひねてもいない優しい笑
みをそっと浮かべる。
「ごめんな。心配してくれとんのに」
「……いや」
「……俺は元々、人とつながるんは得意やないし、面倒くさい。せやから、切り捨てられ
るもんはなんぼでも切り捨ててきた。……けど、榊くんは」

−…大地、だけは。

「遠かっても、面倒でも、…どないにままならんことになっても、……まだ、切りたない
んよ」
千秋に向ける「好き」とは、また違う「好き」の形。どちらかより強く欲した方が負けの
ような気がして、苦しくても絶対に、焦がれる気持ちを外には出せない。意地を張って、
隠し合って、いつまでたっても素直になれないのに、彼から離れることも出来ない。自分
の中の「好き」が、彼へのつながりを握りしめて放さないから。
「……果報者だな、榊は」
千秋はようやく愁眉を開いた。
「……もっとも、あいつは自分がどれだけ果報者なのか、絶対気付いてないんだろうがな」
「ええねん。…俺も、教える気、ないし」
蓬生はそう言って、そっと嗤った。


千秋とそんな会話を交わした翌年も、大地は八月の約束を取り付けに来て、…やはり21
日を避けた。試みに蓬生が21日を提案したら、その日はやめておくよと言って、とって
つけたように用事があると付け加えた。
珍しい大地の失態に、電話を耳に押し当てながら、蓬生は嗤い出しそうになった。
…元々の用事があるなら、「その日はやめておく」とは言わない。「その日は用事がある
から駄目だ」と言うはずだ。…蓬生からの提案は、大地にとって思いがけないものだった
のだろう。だからとっさに、正直に、「その日はやめておく」と答えてしまったのだ。
「俺の誕生日やのに」
「当日に行けなくて、すまない」
言葉だけではなく、声もひどくすまなそうだった。
「埋め合わせは、精一杯するよ」
蓬生だって、気付いてはいた。
…大地は、怖いのだ。大切な記念日を自分と、と望んで、その日はあかんと断られるのが。
……いや、どちらかといえば、約束を取り付けた後で、その日、他の誰かに自分をさらわ
れてしまうことの方が怖いのかもしれない。
自分は蓬生の中で一番ではない。…それを突きつけられるのが怖いから、突きつけられる
前に初手から逃げを打つ。……そういうことなのだ。

−…阿呆やなあ。……へたれやなあ。

自分を一番に望んでくれ、とは決して言わない、臆病で優しすぎる恋人を思うたび、苦い
思いが喉を灼く。
…けれど、やめておくと言われたら拗ねて応じるだけでそれ以上は言いつのれず、その上
彼を切り捨てない自分も、十分に臆病なのだ。

−…ほんまに、…好きっていうのはままならん。…なんで、切り捨てられへんのやろ。…
なんで、逃げ出されへんのやろ。

堂々めぐりの何故何故に、ようやく答えを出すことが出来た去年の大晦日。……そして、
初めての八月がやってくる。


今年も、彼からの電話が鳴った。
……やあ、久しぶり、と、落ち着いた低い声。八月後半の予定を確かめる言葉は、いつも
通り素直ではない。21日、空いてるで、と、…以前のように言おうかどうしようか迷っ
て、結局、「日は決めてるん?」と相手に決定を委ねてしまった自分の臆病さにほぞをか
みつつ、蓬生は電話の返事を待つ。…不安と期待とに揺れながら。
「……」
と、電話の向こうで大地が、息を整えるような間を取った。…そして恐る恐る、…少しだ
けかさかさとひっかかる声で、
「20日の昼頃、神戸に着くつもりだよ。……21日の夕方くらいまで、一緒に、…」
一瞬喉を詰まらせてから。
「…俺に時間をくれるかな。……一緒にいたいんだ」
まっすぐに、そう告げた。
じわりと蓬生の頬にわいてきたのは、満願の笑みだ。…互いに臆病で、踏み出しはしても
踏み込めなかった、心の一番真ん中のところにやっとたどりつけた。…そんな気がした。
「……ええよ」
答える蓬生の声も、思いがけずかすれていた。
「空けとったし、……空けとく。……大地のために」
「……ありがとう」
ふしゅう、というようなため息が聞こえた。…息を詰めていたのだなとおかしくなった。
笑おうとして、蓬生がその笑いを呑み込んだのは、大地が言葉を続けたからだ。
「ついでにもう一つ」
「…何?」
「……21日の午前0時に電話がかかっても、とらせないから、そのつもりで」
一番に、君におめでとうを言うのは、俺だよ。
真面目に言われて思わず、
「子供か!」
蓬生は声を上げて笑った。
「どんなせせこましい希望やねん!」
「子供だよ。……というか、子供だった俺が、わかった顔して大人ぶってしてこなかった
こと、これから全部やろうと思ってるよ」
本気の声に、笑いが止まらなくなる。
「そんなん、千秋と楽しんでや。…俺のこと巻き込んだら、承知せえへんで」
「主役なのに?」
「そんなんの主役になりたないわ!」
すれ違って、悩んで。けんかして、和解して。笑って、笑い転げて。
「……じゃあ、20日」
「………うん」
約束できる幸せに、知らず、蓬生は口元を手で押さえていた。……押さえていなければ、
幸せが身のうちからこぼれ出てくると言わんばかりに。
好きという気持ちはわがままと身勝手。そう思うから、ぶつけるのが怖かった。
けれど、ぶつけなければ、混じり合うことはない。溶け合うこともない。…溶け合わなけ
れば、いつまでたっても「好き」は「恋」にならないのだ。
「大地」
「うん?」
「好きや」
愛してる、とはまだ言えない。けれど。…もう「好き」をぶつけることは怖がらない。
電話の向こうで絶句している大地を、蓬生はくすくすと笑い続けた。