忘れないで

「…ただいま」
その日忍人が家に帰ると、いつもの「お帰り」の二重唱の代わりに台所からなにやら騒が
しい声が聞こえてくる。
「だからさ、何も今からしるしをつけなくたって」
「いいじゃない、楽しみなんだもん」
「まさか、トイレのカレンダーにもしるしをつけるつもりじゃないだろうな?」
「あ、それはもうつけた」
「マジ!?」
「…どうかしたのか?」
のれんをあげて台所をのぞき込むと、壁に掛かったカレンダーの前で何か言い合いをして
いた那岐と千尋が振り返った。
「お帰り、忍人」
「お帰りお兄ちゃん。ごめん、気付かなかった」
「千尋が騒いでるからだろ」
「那岐だって騒いでたよー」
…忍人にただいまを言ういとまを与えない勢いでまた掛け合いをはじめる。思わず忍人は
額を押さえた。
「あ、あきれちゃった?」
千尋が言い合いをやめてとことことやってきた。
「…ごめん」
心配そうに顔をのぞき込まれては、それ以上呆れていることも出来ない。忍人は眉を少し
寄せて、それでも苦笑を見せた。
「…いったい、何なんだ?」
「これ」
那岐が仏頂面で指さしたのは来月のカレンダーだ。赤い丸印が三つ入ってる。
「…?」
「那岐と私、修学旅行に行くんだよ。九州!太宰府と、阿蘇山と、…ええと?」
「…吉野ヶ里遺跡。…まだ、旅行の保護者説明会のプリントもらってきただけなのにさ」
「でも日程はこれで決まりだもん」
「…はいはい」
もう家中のカレンダーに、この三日はしるしが入ることになるな。那岐がため息混じりに
言うと、もちろんだよ、と千尋が返す。
「旅行って初めて!」
満面の笑みで千尋がそう言ったので、ああ、とようやく忍人も得心がいった。
…千尋には、この世界へ来る前の記憶がない。
風早が操作したのか、別の理由でかはわからない。風早に問うたこともあるが、あいまい
に笑ってごまかされた。
記憶が少ない分、千尋はひどく思い出にこだわる。体育祭、文化祭、クリスマスや誕生日
のイベントごと。なんでも大喜びする。……そんな彼女の初めての旅行なのだ。…はしゃ
ぐのも無理はないと言えた。
「お兄ちゃんも、修学旅行は九州だった?」
「…や、沖縄だったが」
一昨年、高校2年生の時の旅行のことを思い返しながら言うと、ちがうよぉ、と千尋は少
し唇をとがらせた。
「それは高校の修学旅行でしょ。そんな遠いとこ、中学校じゃ行けないもん。中学の修学
旅行は?」
忍人は、一瞬言葉に詰まって曖昧に笑った。
…そうだ。…千尋は覚えていないのだ。忍人が千尋と同じ年だったときは、彼はまだあの
豊葦原の中つ国にいたのだということを。
「…九州じゃなかったな。…俺はこっちの中学校には通わなかったから」
「忍人は高校から下宿だもんな」
那岐がうーん、と猫のようにのびをしてさりげなく言った。
「千尋、夕食当番だろ。そろそろ支度してよ。僕は宿題やってるからさ」
「…俺も、鞄を置いてくる。…片付いたら、手伝う」
何気ない一言に、浮かれていた千尋がぴたりと固まった。
「…えっと」
「小さな親切大きなお世話だよ、忍人」
那岐が顔をしかめながら、言葉を濁した千尋の代わりにきっぱり言った。…他の家事はと
もかく、こと料理にかけては、忍人は家族全員から信用されていない。
「…」
「はいはい、部屋に帰った帰った」
那岐に押し出されるようにして、忍人は台所から出た。
ようし、今日は何にしようかな、と千尋が一人言を言っている。忍人がほほえましく振り
返ると、少し苦い笑みを浮かべた那岐が後ろにいた。
「…那岐」
呼びかけると、かすかに肩をすくめる。
「…君はあまり楽しみじゃなさそうだな」
「24時間他人とべったりだよ。…楽しいはずがない」
人と関わることを面倒くさがる彼らしい言い分に、忍人は少し頬をゆるめかけたが、また
顔を引き締める。
「…それだけじゃないだろう」
小声で指摘すると、那岐も小声でぷいと応じた。
「……別に」
「……」
「…ああもう、そんな目で見るなよ。…ほんとに、別にたいしたことじゃないんだ。…た
だ」
「…ただ?」
那岐はあごで階段の上の自室を指した。忍人と那岐は二人部屋だ。入って忍人が荷物を置
くと、那岐は二段ベッドの下の段にぽんとはずんで腰掛けて、…ぼそりと言った。
「こっちの世界と、僕らの豊葦原は違う。…それはわかってる」
忍人も勉強机の椅子に腰掛ける。
「それでも、…吉野ヶ里に行くからと、古代のことを勉強させられると、…いろいろ似通
ったところがある。想像される建物とか、装飾品とか」
それが机上の勉強である間は、たぶん大丈夫だ。だけど。
「実際に遺跡やなんかに足を運んで、復元された建物を見たら、……もしかしたら、千尋
は思い出してしまうんじゃないだろうか」
「…」
「……千尋が思い出したら、…どうなるのかな、僕ら」
忍人はじっと那岐を見た。…那岐も、忍人を見た。
確証はない。けれど、二人とも薄々思っている。
千尋が思い出したときが、自分たちが豊葦原に帰るときなのだ、と。
お互いに瞳の中を探り合って。…口を開いたのは忍人だった。
「…千尋だって、いつまでもここにいられるわけじゃない」
かすかに那岐から顔を背けるようにして、目をそらす。その姿勢とは裏腹に、忍人の表情
は落ち着いている。静かな闇夜の湖のように。
「彼女には中つ国の姫としての責任がある」
「!…それはそうだけど!」
那岐は高くなりそうになった声をはっと飲み込んだ。…千尋は階下で料理をしているとは
いえ、大声を出せば聞こえるだろう。
「…いつかは帰る。それはわかってる。…だけど、それが今でなくたって」
あと少し。あともう少し。
新聞を読みながら、のんびり風早が笑っている。朝から一走りしてきた忍人が、牛乳パッ
クを口飲みしようとして千尋に怒られる。半分眠った顔のまま、那岐はトーストをくわえ
てそんなみんなをぼーっと見ている。
これがただの家族ごっこだということは、那岐にもわかっている。
……それでも、この家族ごっこをもう少しだけ続けていたいと思うのは、僕だけだろうか。
「あ、しまった!」
階下で何か千尋が叫んだ。
「…」
忍人は那岐から顔を少し背けたまま、部屋を出て階下をのぞき込んだ。
「…どうした」
「え、あ、ううん、ごめん、叫んで。コーンスープ作ろうと思ったら、牛乳使い切っちゃ
った。明日の朝の分がいるから、買ってくる」
「…いい、俺が行く」
忍人が身軽に階段を下りていった。那岐は顔も出さず、ただ開いた扉から聞こえてくる会
話に耳を澄ます。
「いいよ、私が」
「…どうせ一番消費するのは俺だ」
理に適っているのか適っていないのか、よくわからない理屈で忍人が押し切ったようだ。
玄関へ向かう足音がする。
「えと、じゃあ二本。まとめ買いするの、土曜日だから、明後日の分もいるだろうし。…
これ、家計のお財布」
「ああ」
那岐はふと思いついてベッドから立ち上がった。階段の上から、そっと階下をのぞく。
上がりかまちに千尋が、三和土に忍人がいた。忍人はスニーカーの紐を結んでいる。
「…ごめんね」
「千尋が謝ることはないだろう。…いるから使っただけだし、いるから買いに行くだけだ」
千尋は那岐に背を向けていて、表情は見えない。けれどきっと、あのどこか心許ないよう
な、困ったような顔をしているのだと思う。
なぜなら。…忍人が、めったにみせない優しい柔らかい顔をして肩越しに振り返り、指の
甲でこつんと一つ、千尋の額をこづいたから。
…愛おしそうに。慈しむように。…頑是ない妹をなだめるように。
………意地っ張り、と、こっそり那岐は思った。
忍人だって本当は、もう少しだけこの時間が続けばいいと思っているくせに。
千尋にお兄ちゃんと呼ばれて慕われて、那岐と他愛ない話をして笑って、風早をからかっ
たり、冗談でつっかかってみたりして。
この時間が愛おしくないわけがない。
彼が、残してきた人々や世界に後ろめたさと申し訳なさを感じていることは知っている。
だから、この時間を楽しむことに少しだけ後ろ向きなことも。
……それでも、忍人だって、笑うようになったじゃないか。
連れてこられてすぐのころ浮かべていた、どこか放心したような無表情や、無理して作っ
た作り笑いだけじゃなくて、本当の笑顔だって時々こぼすようになったじゃないか。
そのことで、風早がひどく安心したことを那岐は知ってる。千尋がいっそうに忍人になつ
くようになった理由であることも。…その笑顔は、那岐が、忍人を大切に思うようになっ
た理由でもあるから。
靴を履きおえた忍人が立ち上がった。
「行ってくる」
そう言って見上げた忍人の目と、那岐の目が合う。
とたん、彼はかすかに顔をしかめて頬に朱を走らせた。
那岐はわざとにやにや笑ってみせる。
「…お兄ちゃん?」
千尋が不思議そうに首をかしげる。背後を振り返って、あれ、那岐?と目をくるりと丸く
する。那岐はいっそうににやにやして見せた。アリスとかいう童話に出てくるチェシャ猫
ってこんなじゃないか、と自分でも思いながら。
「…寄り道するなよ、忍人」
那岐は片手をメガホンのようにして言った。
「遅くなったら、僕と千尋だけで夕ご飯食べちゃうよ」
「そんなことしなーい」
千尋が両手で拳を作って抗議する。
「したくないよ、僕だって。食事の人数は多い方が楽しい。…だから、早く帰ってこいっ
て言ってるんじゃないか」
忍人は肩をすくめた。一瞬の動揺は表情から消えている。
「…わかった、急いで行ってくる」
するりと忍人は玄関を出て行った。慌てて千尋がいってらっしゃいと声をかける。届いた
か届いていないか、というタイミングでぱたりと扉が閉まった。
那岐は、ふん、と鼻を鳴らして、また部屋に戻った。

……忍人。…この時間が限られていることは、僕も知っている。
だけど、だからこそ。…少しでもこの時間を大切に過ごそうよ。
いつか豊葦原に戻って、僕らは戦いの中にきっと巻き込まれる。その日々の中で、この家
族ごっこが思い出せれば、きっと気持ちが凪ぐ日があるから。

……どうか忘れないで。…覚えていて。僕たちが君を、愛しているということを。