海宮

そこは海の中だった。姫と遠夜が見つけた美しい遺跡。
柊も存在は知っていたが、今まで入ることは出来なかった場所だ。
どことなく千尋に似ている壁画の神子をぼんやりと眺めていると、背後から不意に気配が
影をさした。
「レヴァンタの軍師」
久しぶりに聞いた名だ。
「私には柊という名があるのですがね、エイカ殿」
土蜘蛛の青年はその柊の言葉には応じず、無言で柊の傍らに立った。
「…ここで何をしている」
「……あなたこそ」
「………」
エイカはむっとしたのか、少し黙り込んでしまった。柊はひょうひょうとした顔でそのエ
イカのいらだちを受け流し、また壁画を見上げる。
黙っていては聞き出せないと観念してか、エイカが口を開く。
「……ここは、我々土蜘蛛の過去を語る場所です。…私が立ち寄ることに何の不思議もあ
りますまい。…けれど、あなたはちがう」
「……そうですね」
柊は肩をすくめた。
「…私は、考えていたのです」
唇には微笑みを浮かべたまま。だが。
「…あなたという恐ろしい土蜘蛛の、言霊を破壊するすべを」
声には、蛾眉刺の切っ先にも似た、鋭い殺気がにじんでいる。
顔は決して見合わせないで、二人、ただ同じ壁画を見上げながら。行き交う気配だけが鋭
くとがっている。
「…玄武の磐座で私が申し上げたことを言っておられるなら」
エイカは静かな声を出した。
「あれは言霊ではありません。あれは事実。…私が見た、彼の命の糸です」
ご存じでしょう、あなたなら、とエイカは続ける。
「中つ国のもっとも古い一族のものは皆、目には見えないものが見えるのです。日向の一
族は風が、星の一族は未来が、…そして、我ら月読の末裔は、…人の命の糸の長さが」
「………」
柊は知っているとも知らないとも応じない。ただ黙って、壁画の姫の金糸の髪を眺めてい
る。
「あなたとて、未来を見たから、中つ国を出た後レヴァンタの元へ行ったのでしょう。…
あの男の元には、トオヤを差し向けてあった。…そばにいれば、運命の中に引きずり込み
やすい。……だからわざと、あの愚かな男の元についたのでしょう。あなたほどの軍師が」
エイカの声には、かすかな表情がにじんでいた。…それは怒りのような、あきらめのよう
な、憎しみのような。
「うがちすぎですよ、エイカ。…私はあの男の元についたのは、あの男が愚かだったから
です。…ナーサティヤ殿のように英明では、自由に操ることはできませんからね」
主の名を持ち出されると、エイカがまたかすかに反応した。
「……トオヤが二ノ姫のもとに至ったのは、玉の導きなのです。………あなたがトオヤを
レヴァンタの元に差し向けてしまったときから、…玉の運命は定まっていたのですよ」
私を責められても、私には何もできません。…未来は、私にどうこうできるようなもので
はないのです。
柊がそう言うと、ふ、とエイカが笑う気配がした。
「…では同じ言葉を返しましょう」
「……同じ言葉、とは」
「人の命の糸は、私ごときにどうこうできるものではない、とね。……あなたは私の言霊
を責めるのではなく、あの二人の仲を裂くべきだった。二ノ姫と将軍を、結びつけてはな
らなかった。……もはや遅いですがね」
「………!」
びくり、と柊は震えた。…エイカは、淡々と続ける。
「…あなたは怒りたいのでしょう。だから、その矛先を私に向ける。…けれど、その怒り
は筋違いだ。……あなたが怒るべきは、未来を知りながら二人の仲を裂き得なかったあな
た自身か、彼に恋をしてしまった姫か、…あるいは、姫のために命を削って、あなたを置
いていってしまう彼なのですよ」
エイカが言葉を切ると、ほつりと、…海宮に沈黙がわだかまった。
「………」
……エイカの首筋に、柊の蛾眉刺の切っ先が当てられている。
「………ここで私を殺しても、…将軍の命の糸は伸びませんよ」
「ええ。…ただ、あなたが黙ってくれれば、私の気が休まるというだけです」
「………」
「………」
互いに互いの気配を伺うような沈黙が続き、…やがて先に口を開いたのはエイカだった。
「…では、私がここから退散しましょう。…この宮に、また一人招かれざる客がやってき
たようだ。…あなたといるところを見せて、彼を混乱させるのもまた楽しいかもしれませ
んが、…これ以上あなたの恨みを買うのも面倒ですから」
言うだけ言って、ふつり、とエイカの気配は消えた。…まるで、最初からこの海宮にエイ
カは存在しなかったかのようだ。……だが、単に彼は土蜘蛛の力を使って、人には見えな
い道からこの宮を去っただけだということを柊は知っている。
「………」
柊は、蛾眉刺を手の内に戻した。そして再び壁画を見上げる。
……金の髪の神子をたたえる青年が、なぜか彼に見えてくる。…夜空色の髪、…夜の海の
色の瞳の。
……初めて出会ったときから、彼は柊の心の中に自分の居場所を作ってしまっていた。た
とえそばにいなくても、いつも彼への感情が柊の中にはあった。
それは哀れみであったろうか。憎しみであったろうか。……愛おしさであったろうか。
足音が近づいてきた。聞き慣れた足音だ。律動的で、揺るがない。
「…今度はここか」
あきれかえる、と言いたげな声で忍人が言った。
柊はゆったりと振り返って微笑んだ。
「…忍人」
「全く、何度言わせる。誰にも言わずにふらふらと姿を消すなとあれほど…」
「……すみません。…つい」
「つい、じゃないだろう」
むっとする忍人の瞳を柊はのぞき込む。7pの身長差を、かすかに彼が気にしていること
を知っていて、わざと。
「つい、ね。…君が迎えに来てくれるのがうれしくて」
「……!もう来てやらん!」
忍人は、ぐるり、とすごい勢いで背を向けた。…が、海宮を出て行ってしまわないのは、
柊がついてこなければ帰れないからだろう。
「本気で言っているのに」
のほほんと柊が言えば、また忍人の肩が怒る。だんだんだん!と足音高く、海宮の出口の
方へ歩いていく。
「待ってください、忍人。…一緒に帰りますから、置いていかないで」
言いながら、わざとらしくゆっくりと、柊は海宮を出口に向かって歩き始めた。
出口付近で忍人は足を止めている。柊に背を向けながらも、黙って彼を待っている。
その夜空色の髪を見ると、胸の奥がうずく。
……忍人。……君はいつか、私にも与えてくれるのでしょう。……喪失という名の、甘美
な苦しみを。
私は、その日が来ることを自分が恐れていると思っていた。……けれど。…もしかしたら
私は待っているのかもしれない。……君を失い、その代わりに、甘やかな痛みを得る日の
ことを。
大切な姫を嘆かせると知っているのに。……君がくれる美しい痛みを私は待ち望んでいる。
……おそらく私が怒っているのは、…そんな自分自身なのだろう。姫の嘆きを、君の死を、
待ち望む私。…恐ろしい、もう一人の私…。
「柊!」
じれて、背を向けたまま忍人が叫ぶ。
「今、行きますよ」
密やかにすごみのある笑顔を浮かべたまま、柊は忍人の背を追った。