闇に堕ちる。


まだ夜が明ける前なのに目が覚めた。冬とはいえ、この暗さならまだ早暁だろう。どちら
かといえば夜更かしの体質で、朝に強い方ではないのに、何故、…と思ってから、肩に触
れるか触れないかの距離で身じろぐもう一つの身体に気付く。

−……ああ…。……せやった。

彼はとうに起きていたらしい。気配に気付いて、
「目が覚めたかい、蓬生」
確かめるように静かに問う。いつもは蓬生を『土岐』と堅苦しく名字で呼ぶ大地だが、身
体をかわす時だけは、やわらかな親しみをこめて、そっと名前で呼んでくる。床の中でま
で他人行儀に名字で呼ばれたくないと、蓬生が自らそれを請うたのだが、おかげで大地か
ら名前で呼ばれると、じわりと身体が熱くなる妙な癖がついてしまった。
今もそうだ。…昨夜さんざんやった後やろ、と、自分で自分を叱咤して、ごまかすように
ごくりと一つ唾を呑む。
「…喉が渇いた?」
気遣うような声に、蓬生は素っ気なく答えた。
「いや、別に」
喉は渇いていないし、気分も身体もさっぱりしている。自分が気を失ってしまった後で、
大地があれこれと手当てしてくれたからなのだろう。少しだるいが、もう少しこうして横
になっていれば、いつも通りに起きられるだろう。
「…大地は、いつから起きてたん」
「つい先刻ね。…まだ五時半だよ、もう一眠りするといい」
「…大地は」
「……眠くなったら寝るよ」
「…」
蓬生はようやく、顔を大地の方へ向けた。
「…そんなん言うて、どうせ寝えへんのやろ」
「…まあね」
大地はけろりと言って悪びれない。
「眼鏡を外している蓬生の顔は珍しいからね。ゆっくり鑑賞するよ」
は、と蓬生は短く息をついた。
「別に珍しないやろ」
「そんなことないさ。ほとんど外さないじゃないか。ラーメン食べててレンズが曇っても
外さないからびっくりしたよ」
…。……大地は、つまらないことをよく覚えている、と蓬生は思う。
「…そこ、びっくりするとことちゃうし」
「普通、湯気でレンズが曇ったら拭くだろう?」
「そんなんしてたらラーメンのびるやんか。…俺、食べるの遅いし」
「……そんな理由で外さないのか……?」
大地は呆れたような声でつぶやいて、く、と喉で笑った。
「何」
「いや、蓬生らしからぬというか、らしいというか」
「…。何がらしくなくて、何がらしいん」
頬杖で蓬生を見る大地の目は穏やかだが、常に油断なく全てを観察していることを蓬生は
知っている。彼は生まれながらに観察者なのだ。
「およそ食に執着するタイプには見えないからね。ラーメンがのびるからって理由は新鮮
だったよ。…でも確かに食事は遅い方だし、眼鏡を外していたらよけいに時間がかかると
いう理由は合理的だ。そこは蓬生らしい」
よどみもせずにすらすらと語る。穏やかな目で。…いや、…なんだかずいぶん…。
「……」
蓬生は、暗い部屋かつ眼鏡がないせいで、焦点が合いにくい大地の顔をじっと見つめた。
「…なあ。……先刻からなんでそんなにうれしそうなん?」
「…言っただろう。眼鏡のない蓬生の顔を楽しんでるんだよ」
「せやけど、そんなん別に珍しないって」
「でも、寝るときと風呂以外は外さないだろ?…見られる人間は限られてる。ご家族と、
あとは…」
ふっと、大地の目が暗くなった。呑み込んだ言葉はきっと、蓬生が誰よりも大切に思う、
その間には大地ですら踏み込んでこない、幼なじみの名前。
眉間にかすかに入ったしわが、言葉よりも遙かに雄弁に、大地が心の中に押し殺す感情を
語る。
蓬生は片目をすがめてそれを見定めてから、ゆるゆると髪をかき上げて、さらりと言い放
った。
「そうでもないで」
「……ん?」
「体育の授業のプールの時も、眼鏡は外しとった。…せやから、高校の時のクラスメート
はみんな、俺の眼鏡のない顔、知っとうで?」
「……は」
なるほど、と、なあんだ、がまじりあって、がっかりしたような大地の顔。眉間にまだ小
さく残るしわを、蓬生はくすりと笑ってちょんちょんつついた。つつかれた大地は困った
ように笑って、ようやく愁眉を開いた。
「あんまり他の奴が知らない顔を、俺は知ってるって感じが好きだったんだけどな」
ちぇ、と、子供のような舌打ちと、本気で拗ねた声に、蓬生は思わずおいおいと言いそう
になった。

−…って、今のこの状況を、なんやと思とんねん。

考えるよりも先に言葉が出る。
「そんなん言うたら、確実に大地しか見たことのない顔があるやんか」
「…え?……何?」
「……何……って、俺らさっきまで…」
言いかけて、蓬生ははっとした。大地の瞳がほんの一瞬、ごくうれしそうに笑みを含んだ
のだ。
「……さては、それを言わせたかったんやな?」

−……そんなんのために、えっらいなっがい前振りを……。

はあ、とため息ついて、蓬生はぷいと大地に背を向けた。
「蓬生?」
「……絶対、言うたらん」

−言わんでもどうせ気付いとうやろ。…千秋は、友情のハグとキス以上のことは絶対俺に
せえへん。……俺がイくときの顔、見たことあるんは大地だけや。

そむけたままの背中に、そっと掌が当てられた。欲情をかき立てるのではなく、慈しむよ
うにいたわるように優しく撫でられて、肩口に触れるだけのキスを一つ。
…そのキスの跡に額を押し当てて、大地は苦しそうにつぶやいた。
「……俺、本当は、すごいやきもちやきなんだよ」
「……嘘や」
ぼそりと蓬生は言った。
確かに妬心はあるだろう。けれど本当に嫉妬深ければ、何年もこの恋に耐えられたはずは
ない。千秋からの連絡があれば、どんな時でも浮き足立ってしまう自分を、大地はいつも
静かに送り出した。…いつも笑って、いいよ、と。
…そう、笑って。
「…」
思い出した笑顔に、蓬生は苦く嗤った。あの静けさの下にあるものを、自分は見ようとし
なかった。…いや、見るまいと目をつぶってきた。なのになぜ、大地の妬心を嘘だと決め
つけられるのか。
「…ほんまにそうなら、俺の相手はしんどいやろ」
言えるのはただこの一言だけで。…聞いた大地も、そうだね、と少し笑ったが。
「……でも、君をあきらめられるようなら、俺は今ここにいない」
続く言葉は、さらりとしていたが深い苦しみに満ちていた。言葉の最後に、ふ、ともらし
た息は、ため息なのか嗤いなのか。
「……独占できなくていい。好きだ。嫉妬も焦燥も呑み込んでしまえるくらい、君が好き
だ」
直後、抱擁というよりは拘束に近い力で抱きすくめられた。うなじと肩に降るようなキス。
いつもは痕をつけまいと気遣う彼が、まるでそれを忘れたかのように吸い上げ、舐めて、
かじりつく。…暗い喜びにじわりじわりと灼かれる蓬生を、一層に駆り立てるように。

−…しんどいなら、俺のこと捨てて、て言われへん俺も大概や。

うっすら、蓬生は笑う。

−…俺は確かに、千秋が好きや。でも、大地のことも遊びやない。……失いたくない。

大晦日のあの電話。ふっ、と大地が黙り込んだ瞬間、稲妻のように背筋を走り抜けた恐怖
を、蓬生はまだ忘れない。
次に大地が口を開けば自分は彼を失うのだと、何の根拠もなく確信した、あの一瞬の沈黙
とその恐怖を。
「……ふ…っ」
背骨を、科学者的執拗さで一つ一つ確かめるように口づけられて、蓬生はこらえきれず小
さく声を上げる。

−なあ、知っとう?……俺は、君みたいに優しないねんで。目の前で如月くんが君を呼ん
どっても、君とつないだ手を離す気はない。それでもええん?如月くんに背を向けて俺を
選ぶ覚悟が、君にあるん?
−もし、あるんやったら。…一緒に堕ちたげてもええわ。千秋に二度と会われへんなって
も、地獄の底まで一緒に行ったげる。……それくらい、好き。

「……大地」
上がる息を必死で整えながら、蓬生は恋人の名を呼んだ。
「…?」
「……背中ばっかりなん、…いやや」
言うが早いか、ぐるりと身体を返された。目が合って、あまりに露骨に欲情しているお互
いの顔に、同時に吹き出しそうになる。
「エロい顔」
「お互い様」
「俺は、大地があちこち触るからや。そっちは何もされてへんのに、何なん、その顔」
「蓬生の身体に触ってるだけで、気持ちよくなるんだよ」
理由になってへん、と言おうとした唇を、黙ってとばかりに口づけでふさがれる。吐息も
舌も絡むキス。…せいているのか、いつになく荒々しくて乱暴で、彼らしいいたわりが見
えないキス。
…けれど、ほしかったものはこれだ、と思う。
優しくされるよりもひどくされたい。本当に好きなら、許さないで、離さないで。
一緒に堕ちて。……深い深い闇の底まで、手を離さず、ずっと一緒に。