柳の守り


前日の夕方から降っていた雨は夜半過ぎに上がったようだ。

早朝に橿原宮内を見回るのが忍人の日課だ。正殿から後宮へと歩を進め、しっとりと雨に
濡れた庭の風情に思わず目を細めたとき、庭の奥で木の下に佇む人影に気がついた。
「……夕霧?」
呼びかけられて振り返った人影は、たおやかな笑みを浮かべていた。
「忍人はん。…相変わらず、朝が早いんやね。…おはようございます」
「朝が早いは俺の言葉だ。…ずいぶん早起きだな。どうかしたのか?」
夕霧は笑って、ゆるゆると首を振った。
「別にどうもせえへんよ。…早よ、目がさめてしもてね。…そういうたらずいぶん柳も若
芽が出たようやし、千尋ちゃんに贈り物でもしよかと思て」
「……?」
柳で、…贈り物?
…怪訝な顔で首をひねる忍人に、夕霧は説明を付け加えた。
「柳の枝を編んで作った首飾りは、うちのいたとこでは、子供が健やかに成長しますよう
にっておまじないになるんよ」
せやから千尋ちゃんに。夕霧はそう言うのだ。
「……子供はないだろう」
忍人が思わず苦笑に目を細めて言うと、夕霧も小さくふふっと笑って、そうやね、と応じ
た。
「もう女王陛下になろうか、てお人に、子供扱いはないわなあ。…せやけど、今のうちに
出来ることはそれくらいのものやよって」
その言葉が含む何かが、忍人を黙らせた。…それを知って、夕霧は静かに言葉を重ねる。
「…もうちょっとしたら、…うち、前おったところへ戻ろか、思てるんよ」
「…高千穂か?」
「ううん。…もっと遠いとこ」
「……」
「……その前に、千尋ちゃんに何かしたげたいんよ。…一緒におらせてもらって、毎日楽
しかった。…そのお礼」
目を伏せる夕霧の前で忍人はゆっくりと腕を組んだ。…その冷静な顔に、穏やかな微笑み
を浮かべている。あの戦いの中では決して見せなかった表情だ。
「…陛下は幸せ者だ。……誰からもそうして愛される」
夕霧は顔を上げた。そしてかすかに片目をすがめた顔で、
「…それ、間違うてはる」
まっすぐに指摘する。
「千尋ちゃんが幸せ者なんやない。あの子は、皆の思いに見合うことをいっぱいしてるだ
けや。……幸せなんは、うちらの方や。…あれだけまっすぐな子が、まっすぐに伸びてい
く姿を間近で見られて、…優しい気持ちをいっぱいもろて」
「……」
「なあ、忍人はん。……守ったげて。……幸せに、したげてな?」
ひどく真摯なその瞳に彼女の、……否、…彼の本気を見て、忍人も真摯な眼差しでそれに
応える。
「……ああ」
夕霧はにこりと笑った。そしてひらりと袖を振り、忍人に背を向けて若芽が美しい柳の木
に向き直る。
「……どの枝が、ええやろか…」
見上げる眼差しの優しさは、柳の枝ではなくそれを編んで首にかけた未来の千尋に向けら
れているのだろう。…忍人はそっとその場を離れた。彼の人が戻る場所に、ひそりと思い
を馳せながら。