夜来香

禍日神との戦いを終えて、取り戻された橿原宮に戻った忍人は、問答無用で宮の一室を与
えられ、そこの寝台に閉じこめられた。もっとも、閉じこめられた、と思っているのは本
人だけで、忍人のかかりつけ医を以て任じる遠夜以下、仲間はもれなく当然の処置だと考
えている。
忍人もだまって閉じこめられている人間ではない。一度は寝台から抜け出したのだが、遠
夜に有無を言わさず引き戻されて、忍人自身あっけにとられた。上背こそ遠夜のほうが少
しあるが、腕力や膂力で自分が彼に負けるとは思ってもみなかった。
それだけ、今自分の体は弱っているのだ。…体に納得させられて、忍人はやむなく、寝台
に身を横たえて日々を過ごすことにした。
身を横たえてみると、確かに、自分の頭で考えるよりも自分の体は疲れているようだった。
目を閉じてしまうと、泥のような眠りが襲いかかってくる。そのまま忍人はしばらく、夜
も昼もなく眠った。

眠っていても、人の出入りの気配くらいはわかる。もっとも、仲間たちは皆、忍人を疲れ
させてはならないと気を遣っているのか、それとも遠夜か誰かが入室禁止令を出している
のか、部屋を訪れる者は余り多くない。
薬と食事を規則正しく運んできてくれる遠夜、日に一度くらい、室内の気を清浄にするた
めに鬼道を使いにくる那岐の他には、たまに姫がそっと顔を出して、何も言わずに帰って
いくくらいだった。

だがその日、忍人が感じたのは彼らの気配ではなかった。
ふわりと天幕をはらませる大きな風のような、それでいて夜の闇のようにひどくひそやか
な。
そのひそやかさが逆に気になって、忍人は重いまぶたを開いた。
人影に向かってかすれた声で誰何しようとしたが、しかし、誰何よりも一足早く、その人
影が申し訳なさそうに口を開く。
「すまない、起こしたか」
声でわかった。
「…アシュヴィン…?」
呼びかけると、影がかすかにうなずく。
「眠りを妨げるつもりはなかった。見舞いを届けに来ただけだ」
「…見舞い?」
アシュヴィンは、なにやら手に持っていたものを掲げてみせた。枝のような形が、闇に慣
れてきた目にうっすらと見分けられる。その先に、夜目にもほの白い花が一輪。
どきりとした。

…桜?

風が木の葉を裏返すような勢いで、脳裏にある風景がよみがえった。冬枯れの木々と、自
分と、姫。冬枯れの木々は全て桜だ。この花が咲いたら見に来ようと約束する自分。無邪
気に喜ぶ彼女。

もう桜が咲く時期だというのか。季節はそんな早さでめぐっているのか。
忍人の思考の連鎖をあっさりと止めたのは、アシュヴィンがその枝を忍人の枕元に置く動
きと、その花からこぼれた華やかな香りだった。
…この香りは、桜ではない。
まじまじと枝を見ると、枝振りも花も、全く桜とは違っていた。
これは、梅だ。
「驚かせたようだな」
アシュヴィンは少し笑っている。
「もうこの花が咲く頃かと、…そんな顔をしていた」
「…いや」
花を間違えたのだとも言えず、忍人は曖昧に笑う。…しかしよく考えれば、梅が咲くにも
まだ少し早い時期のような。
「心配するな。宮の内庭にはまだその花は一輪も咲いていない。先刻、南の海の方まで遠
駆けに出たとき、南向きの山の斜面に一輪だけそれが咲いていたものだから、見舞には花
がいいかと手折ってきた」
「…南の海まで?」
紀の国まで行ってきたということか。
「…散歩にしては遠出だな」
「かもしれんな」
アシュヴィンはゆるりと腕を組んだ。
「黒麒麟がくさくさしていたんでな。気の済むように走らせていたら、そんなところまで
行ってしまった」
彼は気遣うような目を閉ざされた窓越しに外へと投げる。忍人の部屋からは、黒麒麟が休
らう厩は見えないのだが、アシュヴィンには黒麒麟の姿が見えているかのようだ。が、す
ぐに軽く肩をすくめ、視線を今度は、忍人の枕元にきちんと並べて置かれている二振りの
刀へ向けた。
「…生太刀、か」
手袋をした手で、鞘の上からついと刀身を撫でる。
「おかしなことを言うと笑ってもかまわないが、…俺はな、忍人。…破魂刀と呼ばれた刀
が、元々は生太刀という名の宝刀だったと聞いたとき、ならばお前の体は、戦いが終われ
ばすぐにも元通りになるのかと思った」
忍人は軽く目を見開いて、…それから眉をひそめながら伏せた。
アシュヴィンは、敢えてその忍人の表情を見ない。睨み付けるように、生太刀だけを見て
いる。
「生を司る太刀と、大仰な名で呼ばれているのなら、それくらいの力は持っているのだろ
うと思ったんだ。…だが、ちがった」
生太刀を見るアシュヴィンの目は冷ややかなものに変わる。
「聞けば、これは神が神を殺すために使った刀だという。人の子を生かすために、悪神を
葬ったのだと。そう言われれば、名の由来にもまあ得心はいくんだが、それでも、…何と
なく裏切られたような気がしてならない」
言い捨てて、ようやくアシュヴィンは忍人を見、あの強い瞳でにっと笑った。
「埒のない繰り言を言った。聞き流せ。…俺はただ、…結局最初からお前が正しかったな
と、そう言いたかっただけだ」
「…俺が、…なんだって?」
忍人が思わず聞き返すと、
「刀は人の命を救わない」
ぼそりと一言、アシュヴィンはそう言った。
「俺がこの刀のことを一番最初にお前に聞いたときから、お前はずっとそう言っていた。
刀を持つ者として、お前の考えはずっと一貫していた」
ふう、と、アシュヴィンは息を吐く。
「…戦いは、刀と同じだ」
忍人は、アシュヴィンの声の色が変わった気がした。今まで忍人に語りかけていたアシュ
ヴィンの声は、忍人の友としてのそれだった。しかし、今の彼の声は、忍人の友としてで
はなく、将が友軍の将に策を問うときのような、どこかしら硬い声だった。視線も忍人か
らそらされる。彼は、忍人の部屋の何もない片隅を、じっと睨み付けるように見据えてい
る。
「戦いによって国を立たせようとすることは結局、刀で人の命を救おうとすることに等し
いのではないかと、最近時々自問する。…もっとも、一番それを問いたい相手はもう俺の
前にいないんだが」
彼の見据える闇の先に、皇の幻が見える気がして、思わず忍人は目をこらした。しかし、
あるのはただ、重く黒くわだかまる闇だけだ。
再度、アシュヴィンの視線が忍人に戻る。目が合うと、彼は暗く硬い表情を少しほころば
せた。彼の中の施政者が姿を消し、友を気遣う色が瞳に戻る。
「…熱は」
言って、右の手袋を外し、手を伸ばして忍人の前髪を梳くようにさらりとかきわけ、指の
腹でそっとその額に触れた。
ひいやりと、心地いい感触だった。かすかに潮の香りがする。ああ、彼はさっきまで海の
そばにいたのだと、どうでもいいことを忍人は思った。
「まだ少し熱いか」
案じるように眉を寄せたが、
「だが、熱いのはお前が生きている証だ」
からりとそう付け加えた。そして、瞳をやわらかく細める。
「お前はこの刀に負けなかった」
そう言って、あごで生太刀を指し示し、
「これが、人の命を救わないとしても、少なくとも破魂刀のように、お前の魂を削り続け
ることはないのだろう。お前は刀に負けなかった」
おめでとう、忍人。
言祝がれて、忍人は苦笑を禁じ得ない。遠夜に毎日眉をひそめさせるこのぼろぼろの体を、
言祝いでくれる者がいようとは思わなかった。
だが、それでこそアシュヴィンだ、と思う。
父を、兄を、師を失って、おそらくは平気な顔の下に大きな虚ろを抱えているだろうに、
彼は強い瞳で前を向く。ある意味裏切り者の立場で、戦いに疲弊した国を建て直すという
重荷を背負っているのに、彼は決してうつむかない。そしてからりと笑うのだ。
「…ありがとう、アシュヴィン」
忍人は静かに礼を言って、俺からも一言言わせてくれ、と付け足した。アシュヴィンが片
眉を上げて、おもしろそうな顔をする。
「…何だ?」
「黒い太陽が消えた今、君を皇と仰ぐ国は、戦いに拠らずともきっと豊かで強い国になる。
地は緑で満ち、川は潤い、多くの花が開くだろう」
アシュヴィンは一瞬目を軽く見開いたようだった。その目尻がふわりとゆるみ、笑みが頬
の線をやわらかくする。
「美しい言霊だ」
うっとりと彼はつぶやいた。
「言祝がれたとおりの国を作らねばならんな」
かすかに首をすくめたその顔は、自信がないというよりは照れくささが勝ったもののよう
にみえた。
「君なら出来るだろう」
アシュヴィンは片眼をすがめたが、はっきりとは答えない。だから忍人はもう一言、念押
しした。
「…いつか、君の国が落ち着いたら、…一度訪ねさせてくれ」
アシュヴィンの瞳がまた見開かれる。はっきりと驚きをあらわにしたその顔は、次の瞬間
子供のように破顔した。
「ああ、来い。いつでもいい、待ってる。国中どこでも案内してやる。…どこを見られて
も恥ずかしくない国にしてみせる」
那岐がもしアシュヴィンのその顔を見たら、仲良しの友達がお泊まりに来てくれてはしゃ
ぐ子供のようだ、とでも評しただろう。手放しの喜びように忍人の方が逆に少し驚いて、
…けれど彼の心もなぜか弾んだ。
アシュヴィンは枕元に挿した枝を見て、同じ花は咲かないが、と言い置いて、
「俺の国にも、この時期に花を咲かせる木があった。確か、ルクリアとか言うんだ。……
ここしばらく咲いているのを見たことがないが、…またきっと咲くだろう」
いい香りがするんだ。遠くからでもその花が咲いているとすぐわかる。だから、咲けばす
ぐわかる。
遠い目をして優しい声で語ってから、…アシュヴィンは笑った。
「…花を見に来いなどと、…女性への口説き文句のようだが」
忍人も笑った。…まったくだ。…だが。
彼が自らの枕元の二振りの刀に視線を投げると、アシュヴィンもその視線を追って、かす
かにうなずいた。
「だが、いましばらくは、武器や刀よりも緑や花があふれる沃野を語りたい」
アシュヴィンの柔らかな声に、忍人は少し目を伏せる。
天鳥船で共に戦うようになったとき、アシュヴィンが忍人に話しかけてきたきっかけは、
破魂刀のことだった。この刀があれば死なずにすむ味方の兵も多いだろう、と、破魂刀を
ほしがった彼が、刀よりも沃野を語りたいと言う。
……ああ、…戦いは終わったのだと、…噛みしめるように忍人は思った。
目を伏せた忍人の姿を見て、アシュヴィンは彼が疲れたと感じたようだ。
「…すまない、長居をした」
申し訳なさそうな声が頭上から降ってきて、忍人はまた瞳を開く。
労るような眼差しが自分を見下ろしていた。
「退散するとしよう。…俺が来たことは、くれぐれも遠夜には言うなよ。…許しがある者
以外は入ってはならんときついお達しなんだ」
ああ、やはりそういうことになっていたのか。…道理で、サザキや布都彦がおしかけてこ
ないわけだ。アシュヴィンが夜陰に紛れてやってきたのもそのためなのだろう。
忍人の頬に浮かんだ笑みを見て、アシュヴィンはほっとしたように笑い返し、もう休めよ、
と言い置いてふわりと背を翻した。
…彼のマントから、また潮の香りがした。
大股に歩く背中は戸の向こうに消えかけて、…くるりと、一瞬振り返った。
「俺の国を訪ねると言ったこと、…忘れるなよ。必ず来い。約束だ」
一方的にそう宣言して、彼は再びさっと背を返す。…そして音もなく扉は閉じた。
扉の向こうを透かし見るように、忍人は小さくかすれた声でつぶやく。
「…ああ、…いつか、必ず」
この身体を治して、…君と、君の愛する花に会いに行こう。
忍人はゆるりと身体の力を抜いた。
アシュヴィンの残していった潮の香りがゆっくりと薄れていくと、まるでそれを待ってい
たかのように梅の花が柔らかくそのかすかな香りを放ちだす。
闇の中、慰めるように美しく。
まぶたを閉じ、眠りに入った忍人の思考の中に、その香りだけがいつまでも残っていた。