予兆

チャイムの音に、風早が玄関の方へ立っていった。どうやら近所の人が回覧板か何かを回
しに来たらしい。一言二言会話を交わした気配がして、玄関の戸が閉まった。
今日は忍人が夕食当番だ。なんとなく心配で、千尋と那岐も台所にいる。…といっても手
伝いをしているのは千尋だけで、那岐はぼんやりと食卓の椅子にかけているだけだ。
その那岐がふと、廊下を見やった。
「…風早、何やってんだろ?」
「…え?」
味噌汁の味を確認していた千尋が那岐を振り返る。忍人は一心にキャベツを刻んでいて振
り向かない。
「玄関の戸が閉まる音がしてずいぶんたつのに、ちっとも戻ってこない」
千尋は味を見ていた小皿を置いて、食堂を横切った。ガラス戸から廊下に顔を出す。
風早は玄関の上がりかまちに立って、回覧板を手に難しい顔をしていた。
「風早?」
呼ぶと、はっとした様子で顔を上げる。千尋を見た顔はもう穏やかに微笑んでいたが、一
瞬顔を上げたときの厳しい表情が千尋の目に焼き付いた。
…あんな顔、…しばらく見たことがない。
「…どうかしたの?今の、誰?」
千尋のおずおずとした問いかけに、風早は肩をすくめて見せた。
「いや、裏のおばあちゃんだよ。回覧板を持ってきてくれたんだけど、…そのついでに気
になることを聞いたものだから」
微笑みながら回覧板を手に戻ってくる風早は、いつもどおりの彼だ。さきほどちらりと見
せた険しい表情の影はどこにもない。
「気になることって?」
ぽん、と千尋の頭を撫でて通り過ぎていく背中に、千尋が声をかけたときには、風早はも
う食堂に入っている。
「何。どうかした?」
だらしなく食卓に頬杖をついた那岐が、二人を振り返った。
「うーん」
のんびり笑いながら、風早も食卓の椅子にかける。ややためらうように間をおいてから、
小さな吐息と共に彼はこう切り出した。
「…最近このあたりに、不審者がいるんだそうですよ」
「不審者?」
那岐が声を大きくした。キャベツを刻んでいた忍人も振り返る。二人と視線を合わせてか
ら、風早は肩をすくめた。
「用もなさそうなのにうろうろしていたり、じっと家を見ていたり、ね。…空き巣の下見
かって話もご近所で出たそうなんですけど、裏のおばあちゃんは、空き巣はそう何回も下
見に来ないものだって言うんですよ。警戒されるから」
「…へえ」
「一理あると思いますよ」
那岐の胡乱げな声に風早は苦笑しながら付け加えた。
「…おばあちゃん曰く、だから特にお宅は気をつけなさいね、と」
風早がそう言ったとたん、那岐と忍人の視線が一斉に千尋に向いた。風早もゆるりと千尋
に顔を向ける。
「…え、何、何?」
予想していなかった千尋が視線の集中に驚いて声を上げた。
「…確かに、…このあたりは古い住宅街だから若い女性は少ないし」
「空き巣じゃない不審者となったら、そっちを警戒するべきだよね」
「気をつけてくださいね、千尋」
三人にこもごも言われて、まだ状況がわかってない千尋は
「だから何ー!?」
叫んだ。
忍人がどう言ったものかと額に手を当て、風早は困った顔で微笑む。二人のどちらも口を
開きそうにないことを見て取った那岐が、しぶしぶといった様子で鈍い千尋に説明にかか
った。
「つまりさ。…不審者イコールやばいやつってことだよ。変質者とか痴漢とか下着ドロと
か」
「…した…」
千尋は絶句する。
「…元々、千尋の下着類は外に干さないようにしていましたが、…女性ものとわかるよう
な洋服も、外に干すのは控えるべきかもしれませんね」
案じ顔で風早が言うと、
「もう何回も目撃されているなら、手遅れなのでは?」
真顔で怖いことを忍人も言った。
千尋は無言で口をぱくぱくさせている。那岐が片手でどうどうと背中を撫でた。
「まあ、…まだ本当に変質者と決まったわけではありませんし。用心だけは怠らないよう
にしましょう。…ね?」
風早も柔らかい笑顔でなだめにかかる。忍人は首をすくめてキャベツを刻む作業に戻った。
今日は味噌汁とコロッケとほうれん草のおひたし。味噌汁の味見は千尋がした。コロッケ
は揚げてないものを肉屋で買ってきて、揚げるだけ。付け合わせのキャベツは刻むだけ、
おひたしのほうれん草はゆでるだけ。…忍人が夕食担当だとだいたいこんなメニューにな
る。

夜半が過ぎた。風早が自室で明日の授業の下調べの確認をしていると、ほとほとと押さえ
た音で部屋の戸が叩かれた。
…予感はしていた。
風早は静かに立っていって襖戸を開く。寝間着姿の忍人が無言で立っていた。無言で招じ
入れて扉を閉めてから、
「那岐は?」
風早は問うた。
「もう寝た。…狸寝入りかもしれないが、とりあえず布団に入った。千尋も寝ただろう」
風早の部屋は和室だ。畳の上に忍人はあぐらをかいた。向かい合って風早も座る。
「…今日の話が気になるんだね」
「その不審者というのが、豊葦原から来た人間で、姫を捜しているということはないのか」
忍人は直球で問うてきた。
風早は少し眉をひそめるようにして笑った。
「…俺もそれは考えた。…だが、ご近所の話の不審者の特徴がどうにもあいまいなんだ」
「…あいまい?」
「さっきは言わなかったけれど、はっきりと共通した特徴を上げる人が少ないらしいんだ。
共通しているのは、髪が長いことくらいだとか。……不審者が豊葦原から来た人間なら、
まずその服装や持ち物に違和感を覚えるはずだ。そうではなくて、印象に残っているのは
髪型だというなら、…目撃されているのが豊葦原の人間という可能性は薄い。…俺はそう
考える」
「………」
忍人は腕を組んで考え込んだ。…彼に少し考える時間を与えてから、風早はやや首をかし
げて、
「…どう思う?」
静かに聞いた。
「…一理ある」
あごを引くようにして、忍人はうなずく。
「…まあ、用心するに越したことはないけれどね。…千尋はもちろんだけれど、那岐にも
気をつけてやって。不審者が何を狙うかわからない。可愛い男の子を偏愛するような人間
もこの世界にいるだろうし、那岐に、この世界の人間相手に鬼道を使わせるわけにはいか
ないからね。荒魂ならともかく」
「わかった」
その言葉には苦笑が混じる。
「那岐には内緒だよ」
念を押すと、
「もちろん」
明らかに目元には苦笑をにじませて、それでも口元は真面目に、忍人は応じた。少し気が
晴れたのか清々した顔をして、身軽に立ち上がる。
「邪魔をしてすまなかった。…おやすみ」
「かまわないよ。…おやすみ、忍人」
ふわりと風のように忍人は出ていった。襖戸が静かに閉じてから、その戸に向かって風早
は音のない声でつぶやく。
…君もだよ、忍人。
……俺は敢えて、不審者を豊葦原の人間ではないと断言したけれど、本当はそうは言い切
れない。
……もしかしたら、俺がゆがめた既定伝承を正すために、豊葦原から何者かがやってきて
いるのかもしれない。
君を、正しい場所に戻すために。
「…用心してくれ、忍人」
俺はまだ、ここでの君を失いたくないんだ。
風早はきつくきつくまぶたを閉じた。人ならぬ彼にも、この先に起こる出来事はまだ見え
ていなかった。