余韻 「…柊?…何をしているの?」 のぞき込まれて、柊はゆるりと顔を上げた。少し伸びた金の髪を、結いもせずにさらりと 揺らして、女王が首をかしげている。 「ここにある竹簡の綴り直しです」 柊が目で指した先には、ほつれかけた竹簡が山積みになっている。…おいそれとは終わら ない量だ。 「…ええと、どうしてあなたが?」 問われて、柊は照れと情けなさが入り交じった顔になった。 「師君と狭井君からのご命令なのですよ。…有り体に言ってしまえば、お仕置きですね」 「……ああ」 思わずそうつぶやいて、千尋はあわてて口を押さえた。柊は苦笑する。 柊と風早は、千尋の即位後すぐに姿を隠して、つい最近橿原宮におよそ一年ぶりに戻って きたところだ。狭井君と岩長姫にしてみれば、この忙しい時期にどこで何をしていたんだ い、と言いたくもなるだろう。 「この程度ですんだのは僥倖、と思います」 …と柊の言うのももっともである。 「陛下は、ここに何かご用で?」 柊はゆるりとあたりを見回した。殺風景な部屋だ。書庫に近いので作業に都合が良かろう と与えられた部屋は、かつては倉庫として使われていたらしく、部屋の片隅にはまだ何と もつかぬ麻袋が転がっていたりする。 「…ちょっと、柊の顔が見たくて」 小首をかしげた笑顔に、おや、と柊は眉を上げた。 「うれしいことをおっしゃいます」 「ほんとよ?」 「もちろん、空言とは思っておりませんよ。…陛下のご用がこの竹簡やあの麻袋とは思え ませんので」 視線を交わして、今度は同時にふふっと笑う。 「わざわざのお運び恐縮です。お呼びいただければ私から参りましたものを」 「そうすればよかったかなあ。うん、そしたら少しでもお仕事から抜け出せたよね。…… でも、私から来たかったの。お礼が言いたかったから」 「…礼?…とおっしゃいますと?」 千尋がまた笑う。その微笑みには、先ほどのものとは違い、女王らしい威厳が含まれてい た。柊が思わず姿勢を正すと、座った彼の額のあたりを立ったまま見つめながら、 「戻ってきてくれてありがとう、柊」 千尋は言った。 「…何をおっしゃるかと思えば」 柊の声は、一瞬かすかに震えた。 「出奔を責められるならともかく、この身勝手者の帰還に陛下が礼をおっしゃることなど ございません」 「でもお礼が言いたいの。…私は、…あなたはもう二度と宮に戻らないものだと思ってい たから」 千尋はまっすぐに柊を見る。 「あなたがいなくなったとき、星の一族の里にも遣いを出したわ。そうしたら、一族の里 ももぬけの殻だった。…だからあなたはきっと、一族の人と同じように、姿を隠さねばな らないのだと思ったの」 柊は小さく笑う。 「私は一族の元へ参じていたわけではありません。…元々、私はとうに里を出た身なので す。…私が宮を辞したのは…」 そこで彼はふと言葉を切った。何か言葉を探す様子だったが、しばらくしてあきらめたよ うに首を横に振る。 「…いえ。…それは今は申しますまい。ですが、なぜ私が戻って参ったかは申し上げられ ます」 柊はまっすぐに千尋を見た。眼帯に隠されていない方の瞳が、優しく細められている。 「…陛下が、運命にはまっすぐ進む以外の道もあると教えてくださったからです」 千尋はきょとんと目を見開く。 「…どういう、こと?」 思いがけない言葉だった。 「私、…まっすぐ前を向いて進んでいるつもりだけど」 何しろ、龍神にもそう宣言したくらいなのだ。 千尋のぽかんとした顔を見て、柊はくっくっと喉声で笑い出した。 「…そうですね、…どう説明申し上げたものでしょうか。…陛下。…私が思うに、運命と はもつれあった糸のようなものなのです」 どの糸を選ぶかで、糸がどうほぐれるかは変わっていく。けれど、どの糸を選んでも、糸 に従っていることにかわりはない。 「あなたと那岐が忍人を死の運命から助け出したことにももちろん、私は驚きました。け れどそのまま宮に戻られたなら、それは一番複雑に絡み合った糸を驚くべき細心さでほぐ しただけであって、元の糸をたどっているに過ぎなかった」 だが、あなたはそこで立ち止まられた。 そう告げても、千尋の不思議そうな顔は変わらない。…柊は微笑みながらもう一言付け加 える。 「刀の声を聞き、自分の中の疑問と向き合い、…神を呼び出し交渉した」 ご自分がなにをなさったのか、はっきりとはお気づきでないのでしょう。…あなたは、あ のとき、それまでつながっていたもつれ合った運命の糸を、いったんすっぱり断ち切られ たのです。 「……!」 今度こそ、千尋は鳩が豆鉄砲を食ったような顔になった。 「…私、そんなだいそれたこと…」 「なさいましたよ。…龍神に契約を突きつけて。あのときあなたは、もつれあい絡み合う 糸を断ち切ったのです」 二度と過去へは戻らないと宣言することによって。 「そこからまた新しい糸が紡がれ始めた。…そのとき思い知りました。…私が見ている未 来など、いくらでも変わり得る」 糸をほぐし、選ぶのがあなたである限り。未来は決して、既定伝承の枠には収まらない。 私がどんな未来を見たとしても、あなたはきっとその未来を軽々と飛び越えてしまわれる でしょう。 「だから、戻って参りました。…あなたの元で星を見、未来を見る者としては役に立たぬ かもしれませんが、私が習い覚えたいくつかの言語は、これから陛下のお役に立つことで しょう。……そういうお役に立ちたいと思います」 ぽかんとしていた千尋の顔が、少しずつゆるんでいく。…泣きそうなのか、笑い出したい のか、自分でもわからない。そんな顔だ。 「今はまだあまり種類はありませんが、何でしたらラテン語でもヒエログリフでもヒッタ イト語でも何でも」 異世界の世界史で聞き覚えた言葉の羅列に、思わず千尋は笑ってしまった。 「…必要になるかしら?」 「大陸の先がどこまでつながっているかわかりませんから」 柊はすました顔で言う。 「…それとも陛下は、私が星の一族としてお役に立つことの方をお望みでしょうか…?」 柊のその言葉の語尾が、静かにほこりっぽい部屋の隅に消えていく。千尋はまっすぐに柊 を見ている。柊もまっすぐに千尋を見ている。…どちらも視線をそらさない。 視線をそらさないまま、…やがてゆっくり、千尋は首を横に振った。 「…いいえ。…私に必要なのは、星が教える未来ではなく、私が自分でもっといろんなこ とを知るための手助けだわ」 助けてちょうだい、柊。 千尋は朗らかに笑う。 「自慢じゃないけど、向こうの世界で英語は苦手だったの」 ぺろりと舌を出す少女の表情に、つられて柊も柔らかく微笑んだ。 「…仰せのままに、陛下」 柊は、ぱたりと何かが閉じられるかすかな音を聞いた。 …それはたぶん、通り過ぎた風が、室内に置かれている竹簡のどれか一つを閉じた音だっ たろう。 だがもしかしたら、たった今、自分の中につづられた膨大な既定伝承の竹簡が閉じられた のかもしれない。 柊は目を閉じた。かすかな音の余韻を捜すように。