宵の宿 「旅行?」 「そう。…いつもお互いの地元を行き来するばかりだろう?…たまにはいいかと思ってさ」 大地の声は淡々としている。蓬生は耳にスマホを当て直した。 「ええん」 「何が」 「忙しいんちゃうん、ガッコ」 電話の向こうで大地が苦笑する。 「社会人に心配されるほどではないよ。一応夏休みだし」 「一応、やろ?」 言い返すと、大地はまあねと言ってまた笑った。 「…君がええんやったら俺は構わんよ。…いつ?」 「再来週の週末あたり」 「再来週…」 復唱してカレンダーを見上げた蓬生の動きが、ふと止まった。その目に21という数字が 飛び込んできたからだ。 −…8月21日。 二度見して、瞬いて。 「なあ。…聞くけど」 蓬生はカレンダーを見つめたまま口を開いた。 「わかってて、この日ぃに俺を地元から連れ出すやんな?」 「…そうだよ」 答えに一瞬の間があったが、答える声にはためらいがなかった。 「……」 蓬生はうっすらと笑う。 8月21日は蓬生の誕生日だ。今まで大地はずっと、この日に蓬生を誘うことを避けてき た。大切な日は家族と過ごすだろうから、という彼の心遣いが、本当は家族ではなく千秋 を指していたことを蓬生は知っている。 その彼が、誕生日当日に蓬生を神戸から連れ出すという。 「思い切った提案やね」 覚悟を確かめたくて少しだけ意地悪を言う。今までの彼ならひるんでいるはずだった。だ が。 「いけないかい?」 大地から返ってきたのは穏やかな挑戦だった。…本当に彼は腹をくくったのだ。 「いや?…ええよ」 感慨深さをしみじみと噛みしめながら、蓬生はそっと応じた。 「…行くわ。…一緒に」 どこに行きたい、と大地が問うと、蓬生は、空が広く見えるところに行きたいと答えた。 海でも山でもいい、空がよく見えるところであれば、と。 言われて大地が思い出したのは、両親の仕事の関係上あまり遠出する機会がなかった子供 時代に、唯一家族旅行で連れて行ってもらった高原の温泉宿だった。ぐるりを何もない大 平原に囲まれて、どこを見ても草と空。 −…あそこなら蓬生の望みに叶う。 大地はそう確信した。 はたして、その判断は間違っていなかったようだ。 宿に着いたのは夕方になった。夕食前に大地は汗を流すことにしたが、蓬生は部屋に残る と言った。 「空、見てるわ。…風呂にはまた晩に入る」 そして、大地が一風呂浴びて部屋に戻ったときも、彼はまだ濡れ縁に腰をかけて、空を見 つめていた。 感慨に耽っているのなら邪魔はすまいと思った大地だが、振り返らないだけで大地が戻っ てきた物音には気付いていたらしい。蓬生は、 「おいでや、榊くん」 静かにつぶやいた。 「……ほら。……もうすぐ」 指さす先、東の空の地平線が少し白んでいる。 「…今日って、満月だったっけ」 大地はそっと蓬生の傍らに座った。蓬生は大地を見ないまま、そうやね、とつぶやく。 「月代、…いうんよ。ああいうの」 「つきしろ?」 「そう。…月が出る前に、東の空のきわがほんのすこうし白んで、明るぅなってくること。 …神戸ではあんまり見たことないな。家がごちゃごちゃしてるから。…横浜も、似たよう なもんちゃうん」 「横浜は東側に開けた港だから、神戸とは少し条件が違うかもしれないけど、…まあでも、 そうだな。月の出のかすかな明るさを意識することは、まずないね。港の灯りや家々の灯 りがまぶしすぎるから」 「…ここで見る月代はきれいや。…来て良かった。…連れてきてくれて、ありがと、榊く ん」 言って、ようやく大地を見上げた蓬生が、顔を見てくすりと笑った。 「…何?…ちゃんと顔も洗ってきたよ。…汚れてる?」 「いや、そうやのうて、……露骨に、俺が素直やったら調子狂うて言いたそうな顔してる から、つい」 「……」 大地が憮然としたからだろうか、ごめんやって、となだめるように大地の膝に手を置く。 そしてふと、何かを思い出す顔になった。 「……つきしろや」 口ずさまれたのは何か歌の一部のようで。 「……?」 「つきしろや、…ひざにてをおく、よいのやど」 思い出してスッキリしたのだろう。満足げにうなずく。それからもう一度詠った。 「月代や、膝に手を置く宵の宿」 口ずさむ蓬生の、うっとりと目を閉じた表情がひどく色っぽくて、大地は目のやり場に困 った。自分とは違って和服慣れしている蓬生は浴衣を着るのも上手い。きっちりと衿は首 に添わせ、その分胸元は少しゆとりを持たせて割り広げる。あわせの陰を落とした肌がほ の白い。大地の膝に置かれた手からじわりと伝わる体温。たまらなくて、気をそらそうと 大地は必死に言葉を探した。 「…艶っぽい句だね」 つぶやくと、蓬生は少しぽかんとした顔になって目を開き、なんで、と小首をかしげた。 「…っ、いや、その、…膝に手を置くっていう仕草が、少し」 「……」 蓬生はまだぽかんとしていたが、ややあってはたと何かに気付いた様子で自分の手と大地 の膝を見比べた。その頬にやんわり苦笑が浮かび、彼はゆるゆると首を振る。 「ちゃうよ。…この句は、どこかの句会の席で月の出を待ってるときに詠まれた句や。兼 題に出された月がもうすぐのぼってくる、て、…少し緊張して、正座の膝に自分の手を置 いてる、…そんな句やったと思うで、確か」 「……っ」 解説されれば、なるほど、その仕草の方がごく自然で当たり前の動作だ。大地はかっと頭 に血が上る思いがした。自分の発想がひどくがっついたもののようで、彼に飢えている様 があからさまで、いたたまれない。 大きな手で口元を覆い、蓬生から身を背け、顔を隠した大地の背後で、ふと、笑う気配が した。 膝に置いた手はそのままに、空いた手で蓬生が大地の背中から肩、鎖骨をゆっくりと撫で、 ぐるりと喉元を巻き込むようにして頬を撫でる。 「…大地」 耳元で囁く声は、大地を、名字ではなく名前で呼んだ。 「俺も、せめて食事がすむまではいい子で待っとこうと思たけど、…もう待てんなった」 「……」 「…君に会うてから、ずっと我慢しとった。夜になるまでは触れんとこう、て。…触れて しもたら、その先へ、その先へと進みたなるに決まってるから」 「……」 「……無造作に、一緒の風呂に誘う君を、俺がどれだけ恨めしく思とったか、…君はきっ と、知らんのやろな。いつもいつも、自分だけががっついてると思いこんで」 『ちゃうよ』 耳に囁かれる声の甘さと熱。 「……俺かて、…めっちゃ」 「……蓬生」 皆まで言わせたくなくて、大地は言葉を遮った。膝の手に手を重ねて肩越しに振り返る。 そっと口づけをかわす。蓬生は、声だけでなく唇までもがひどく甘かった。 人の営みなど知らぬと言いたげに、地平線にゆっくりと淡い白光が広がり、大きな月がの ぼってくる。 銀の雫ふるふる、夏の終わり。