予感を孕み、余韻を曳く。


今日はコンクール出場者選抜前の自由練習の日だ。授業の終了が遅れた大地は、ヴィオラ
ケースを抱えて音楽科棟へ急いでいた。
自由練習の日は、音楽室に集まらなくてもいいことになっている。選抜に課題曲はないか
ら、それぞれが得意な曲で参加だ。そのため、一ヶ所に集まって弾くと音が混ざり合って
混乱するので、皆適宜、自分の気に入りの場所に散らばっている。大地が音楽室へ向かう
のは、そこで律が待っているからだ。
通りがかったエントランスや練習室前の廊下でも、何人か知った顔を見かけた。大地に気
付いて目礼を送ってくる者もいれば、一心不乱に弾いていて全く周りに気付いていない者
もいる。そのどれもを微笑ましく眺めながら、音楽室へ向かうために階段を上りかけた、
そのときだった。
「…本当に、うちの部長はどうかしてるよ」
踊り場の、そのまた上から声がして、思わず足を止めた。死角になっていて、相手の姿は
見えないが、聞き慣れた声だ。オケ部の管楽器の三年生。
「あそこまで怒ることないじゃん。出てけ!とかさ。…何様なんだよ、あいつ」
「けどまあ、お前もお前だって。なんであの場で、目標は東日本大会突破だ、なんて言っ
たんだよ。あの如月律が、ああそうだな、とでも言うと思ったのか?」
「だけど現実的に考えればそれが相場だろう?いってせいぜい準決勝だ。ベスト4に残れ
れば、充分すぎるほどだよ、今の俺たちの実力じゃあ」
「まあな」
「如月は、自分が一年生の時ソロで全国制覇したもんだから、天狗になってるんだよ。あ
れだって、まぐれかもしれないのにさ」
「まあ、天狗になってるとは思うけど、嘘でも、目標は全国優勝ですって言って、調子を
合わせておけば良かったのに」
話している二人が踊り場をぐるりと回る。
…耐えかねた大地の口から、低い声が出た。
「目標は全国大会優勝って、嘘でしか言えないのか…?」
「……っ!」
「さ、…榊…!」
大地はにっこりと笑った。
自分でも知っている。こうして心なく笑うときの自分が、どれほど酷薄に見えるかを。淡
々とした声が、いかに冷たく容赦ないかを。
「二人ともコンクールが終わるまで部に来ないでくれ。選抜参加も許さない。迷惑だ」
ぎょっとしていた二人の顔が気色ばんだ。
「…め、…迷惑!?」
「何っだよ、えらそうに!…弾きはじめて二年の普通科のお前と一緒にするなよ、俺たち
は…」
「えらそうに言ってるつもりはない。俺はオケ部の副部長として、コンクール終了まで部
のモチベーションを高く保つことが自分の仕事だと思ってる。だから言ってるんだ。……
それに、自分が到達できていないレベルの、他人の経歴をあげつらうほうが、よほどえら
そうに聞こえると俺は思うけど」
激昂した二人に慌てることなく、大地は理路整然と言い返した。二人は顔を見合わせ、悔
しそうにちっと舌打ちした友人を手で制しながら、もう一人が大地を睨み付ける。
「独断で俺たちを選抜から外して、本当にいいと思ってるのか?」
「ああ」
大地はまっすぐ二人を見て目をそらさない。
「お前らの音じゃ勝てない」
「……」
「……」
「説明しようか?簡単なことだよ。勝つ気持ちがあって、しかも実力がある者が、より高
みに登れる。勝つ気がない奴はその時点で負けてるんだ。お前らの音は審査を待つまでも
ない、負ける音だ」
「……っ」
一人は悔しそうに、何か言い返そうと言葉を探している様子だったが、もう一人がその肩
を持って引き戻すそぶりを見せた。
「おい、行こうぜ」
互いに目を見交わし、むっとした顔のまま、二人は階段を大地に向かって降りてきはじめ
た。通りすがりの、
「普通科のくせに」
という捨て台詞に、大地は声を出さずに笑った。

−…普通科の俺でもわかるこんな簡単なことが、常に音楽の高みを目指しているはずのお
前達にわからないなんて変じゃないか?

そう言いたかったが、彼らには何を言っても無駄なことだ。
大地は肩をすくめて、階段を一段とばしに、音楽室へ向かって駆け上がった。


オケ部の部室は、音楽室に付属している。のぞきこむと、律が楽譜を広げていた。眼鏡越
しでもはっきりとわかる、険しい顔だった。
コン、と扉をノックしてから声をかける。
「律」
「大地、来たのか。…すまない、今…」
「ちょっと今、気分の悪いことがあってさ。ここにいさせてもらえないかな?…でないと、
誰かに八つ当たりしてしまうよ」
律は眉をひそめ、少し困ったような顔で微笑んだ。
「あいつらに、会ったのか?」
「何のことだかわからないな」
「…そうか」
そうか、とつぶやきながら、律は一つうなずく。大地は、窓枠に両手をかけてもたれなが
ら律を見た。…逆光で、律が大地の表情をうかがいにくくなることを計算して、だ。
「ああそうだ。…さっき二人ほど、副部長権限でコンクール終了まで部活停止処分にさせ
てもらったよ」
律が大地を見上げる。顔をしかめたのは、大地の狙い通り、逆光で表情が読みにくいから
だろう。
「オーボエとトランペットだ。…かまわないかな?」
「……」
律は困った顔をした。
「……お前が憎まれ役になることはなかったのに」
大地は肩をすくめる。
「正気か、と、バカにされるのは俺一人で十分だ。お前はアメとムチのアメでいい」
「……。…俺の役割は、部のモチベーションを高く保つことだよ。あんな奴らに甘くする
のはろくなことにならない。一年生ならともかく、三年やってきてあれじゃあね」
「そっちが普通なのかもしれないぞ」
「俺の普通は、律が基準だからね」
のうのうと言ってのけると、さすがに律が苦笑した。
「大変な基準だな」
「自分で言うなよ」
大地も苦笑する。…笑ったことで、律は少し落ち着いたようだ。細められた瞳は穏やかに
冷静さを取り戻している。ほっとして、…もうこんな気分の悪い話はこれで十分だと、大
地は話題を変えた。
「ところで、律」
「何だ」
「選抜の審査に俺も入るようにってことだったけど」
「ああ」
「俺は何を見ればいい?…俺にわかるのは、演奏者のやる気くらいだよ」
律は笑った。
「わかっているじゃないか。…まさしくそのモチベーションを、大地に見てほしい。…大
地なら見誤らないと信じている」
「了解。…認めてもらってうれしいよ。…で、俺のは?」
「大地の、何?」
「俺の選抜審査は誰がしてくれるんだ?…演奏は律が聞いてくれるとして、モチベーショ
ンは?」
「その必要があるのか?」
律は口元を手で押さえた。…何かと思ったら、どうやら苦笑をこらえたものらしい。
「大地はたった今、自分のモチベーションの高さを証明しただろう」
「……」
何か言いたげに律の手が伸ばされ、窓にもたれた大地に届かず、落ちる。
「それ以上、何の審査がいる」
「……」
「……。大地がいてくれてよかった。……星奏に。……オケ部に。……俺の側にお前がい
てくれて、俺は本当に、どれだけ助けられたかしれない」
「……っ」
その、俺の側、という言葉に深い意味などないとわかっている。律のことだ、純粋にそう
思っているのだろう。…けれどそれでも、律の口から出たその一言は、大地の心に落ちて、
波紋のように渦を巻き、胸を震わせた。

−…律。

「…。モチベーションはともかく、演奏の審査はちゃんと厳しくするぞ。…どの曲で参加
を?」
厳格な声でそう言われて、大地ははっと夢から覚めたような気持ちになった。…まるで、
自分の邪な思いをいさめられたようだと思った。
なので、無意識に首をすくめながら答える。
「こないだからずっと弾いてるやつで」
「あのブラームスのワルツか。…ずいぶん気に入っているな」
「ワルツなのに、子守歌みたいに優しいからね。…ヴィオラの音色に合ってると思うんだ。
母親がアルトの声で、遊ぶ子供に語りかけているような、…そんなイメージ」
律はあごに手を当てて、大地の言葉を反芻しているようだったが、やがてやわらかく微笑
んだ。
「……それはいいな。……大地らしい」
「そうかな」
「ああ。お前の音に合っていると思う」
めったと見られない、とろりととろけるような律の笑顔だった。…どきりと心臓が跳ねる
のをごまかすために、少しうつむいて頭をかく。
「そうか。…律にそう言ってもらえるのはうれしいよ」
「…聞こうか?」
「…っ、…あ、いや、まだ審査されるのはちょっと…」
慌てて尻込みする大地に、律は朗らかに笑った。
「言い方が悪かった。…聞かせてくれ。…大地の音が聞きたい。…優しくて、深くて、…
俺は好きだ」
誤解しない。誤解しない。…自分に言い聞かせながら、それでも自然とほころんでくる頬
を、大地は隠せなかった。
好きだ、と、…律のその声で言われることが、何よりうれしい。
「……了解」
窓から、夏の風が入ってくる。雲がまるで、期待をふくらませるかのように真っ白に盛り
上がる。

……やがて静かに流れ始めた曲は、不思議な予感をはらんで、甘い余韻を空に曳いた。