夜の虹

忍人は堅庭でぼんやりと空を見上げている。
昼間と見まごうほど、とまではいわないが、その光で影ができるほどまぶしく輝く月の光
が忍人を照らしている。
今日は十五夜だ。
宮にいれば月見の宴が行われる日だったが、行軍途中の天鳥船ではそうもいかない。それ
でも宴の形だけはと、各人に団子一つと杯に一杯の酒がふるまわれた。たったそれだけで
はあったが、少し砕けた雰囲気が船内に漂い、度重なる転戦の疲れもやわらいだ様子だ。
宴だ何だと騒ぐのは好きではないが、皆の気がほぐれるのであれば、こういう行事も悪く
はない、と忍人は思った。
そんな日ならもっと堅庭に出る人間が多そうなものだが、今は見張りの兵以外は忍人の姿
しかない。
というのも、ついさっきまで雨が降っていたからだ。
昼間であれば天気雨と呼ばれただろうささやかな降りではあったが、月見に水を差すには
充分だった。夜も更けた時刻だったこともあって、波が引くように月見の人々は皆船内へ
と消えた。しばらくして雨はやんだのだが、寝静まった船内の空気が動く気配はなかった。
今更外へ出るのも確かにおっくうだろう。
再び現れた月は、中天からかなり西に傾いている。もう夜半を過ぎただろうか。
自分もそろそろ、ときびすを返しかけて、忍人ははたと動きを止めた。
夜目にも白い衣をまとい、ふっつりと切り落とした金の髪を月の光に輝かせて、少女が立
っていた。
「……姫」
思わずつぶやくと、白い貌がにこりと笑んだようだった。軽い足取りで近づいてくる。
「まだ起きていたんですか?」
「…君こそ」
ぼそりと返すと、千尋は小さく肩をすくめた。
「雨がやんだようなので、せっかくだからもう一度お月様を見ようと思って。…忍人さん
は?」
「………」
聞かれると、特に何かしていたわけではない。最初は、雨の降りようによっては明日の訓
練を変更しなければならないと、頭の中で訓練の内容を組み立て直していたのだが、意外
とさっさと止んだのでまた元の訓練内容でいいかと思い直して。そんなことをつらつらと
考えていたら、時間が過ぎていただけだ。
他愛ない物思いの推移を逐一姫に報告するのもためらわれて、迷ったあげく忍人は、
「雨と、月を見ていた」
とだけ言う。
「…」
千尋は一瞬きょとんとしたが、ふっとその口元がゆるんで、くすくすと笑い出した。
「…姫」
「ご、ごめんなさい。…なんか、忍人さんの言い方がおもしろかったの。つぼにはいっち
ゃった」
…つぼにはいった、という言葉の意味はよくわからないが、…まあ姫は箸が転んでもおか
しい年頃だ。自分の言ったことも間が抜けていたのは間違いない。忍人は返す言葉がなく
て、なんとなく首の後ろをこすって空を見上げ、…はっと息を呑む。
「…忍人さん?」
忍人のそぶりを見て、千尋が怪訝そうに首をかしげる。月を見ている彼女が背を向けてい
る方角に、それは浮かんでいる。
「姫、後ろを」
「…?」
首をかしげながらも、言われるがまま千尋も後ろを振り向く。…そして彼女も、両手で口
を押さえて息を呑んだ。

虹が出ていた。

昼間の虹と違い、七色の違いはほとんど見分けられない。白く弧を描いているように見え
るだけだ。だがそれは間違いなく虹だった。
「…夜の虹とは」
忍人は、夜営や夜の見張りに立った経験は少なくない。満月の夜もあれば雨が降った夜も
あった。だがその彼でさえ、夜に虹を見るのは初めてだった。ましてや千尋は。
「月の光でも虹が出るって聞いたことはあったけど、ほんとに出るんだ…!」
声をうわずらせる。
その興奮の故にか、空を振り仰いだ体勢のためか、彼女は一歩よろけて後ろへ下がる。…
忍人は慌ててその体を抱きとめ、支えた。
華奢な彼女の体は、そうたくましいわけではない忍人の腕の中にでさえすぽりとおさまっ
てしまう。抱きすくめる形になって、千尋の背中と忍人の胸が触れあった。その瞬間、電
気でも流れたかのように二人して飛び上がり、ばっと身を離す。
「ご、ごめんなさい、ありがとうございます」
「…いや」
千尋の顔が真っ赤になっていた。…たぶん、忍人の頬も赤いだろう。自分では見えないが。
「…忍人さん、体、冷たいですね」
気恥ずかしいからだろうか、うつむいたまま千尋がぼそぼそとつぶやく。
さっきまで雨を見ていたし、それでなくても長時間外にいた。ふわりと温かい千尋の体に
比さずとも、確かに自分の身体は冷えている。抱きとめられた千尋はさぞ冷たくて驚いた
だろうと、少し申し訳ない気持ちになった。
「…すまない」
謝罪の言葉が口をついて出た。だがその言葉にまた千尋は飛び上がる。
「あ、いえあの、謝らないでください、私、ただ、身体が冷えてるなって思って、単なる
感想で、っていうか、忍人さん風邪引くんじゃないかなって心配で、…その」
残りの言葉を、ああもう、という小さな声で飲み込んで、千尋はきゅっと忍人の両袖を掴
んだ。
「一緒に、中に入りましょう。温かいお湯を飲んで、もう休みましょう」
年下の少女に雛を心配する親鳥のような眼差しで言われて、忍人は苦笑した。いつもなら
自分が彼女にうるさく言うところだ。
だが、こんなふうに世話を焼かれるのもたまには悪くない。
「忍人さん」
返事がないことに焦れてか、千尋が言いつのる。
「…ああ、わかった」
促されるがままに千尋の後ろについて歩きながら、忍人は空を仰ぎ見た。
夜の虹は、ゆっくりと薄れて消えていこうとしていた。
同じように見上げていた千尋が、向き直ってぽつりと言った。
「夜の虹は、最高の祝福なんだって聞いたことがあります」
「………そうか」
忍人はうっすらと笑んだ。
ならばこの少女のために、あの虹は出たのだろう。真珠色に白く輝く龍の体にも似た、あ
の夜の虹は。龍神の神子である彼女のための、龍神からの祝福なのだろう。
真実そうであるかどうかはわからない。ただ、そうであればいいと思う。
彼女に、彼女の率いるこの戦いに、そしてやがておとずれるよう願っている彼女の御代に、
大きな祝福あれと願う。
…たとえ、そばにいてそれを見届けることが、己に叶わなくとも。
君の幸いを請い願う。

薄い笑みを口元に浮かべたままゆるりと船内に姿を消す忍人の背を、月光がまぶしく照ら
していた。