夜の散歩

「まさか胆だめしをやらされるとは思わなかったなあ」
大地がのんびりと笑う横で、律は心持ち首をすくめた。
「すまない、呼び出したあげく、変なことにつきあわせて」
「別にかまわないさ、たまには童心に返るのもいいんじゃないか?せっかくの夏休みなん
だし、少しは楽しまなきゃ。……もっとも」
大地は道の先を透かし見る。かなり間隔を開けて出発しているのと夜の闇とで、そんなこ
とをしても前の組はちっとも見えないが。
「…楽しいのは、ひなちゃんと組んだ奴だけって気がするけどね」
「…………。…そうだな」
打てば返事が響くと思っていたのに、律の返答にはやや間があった。
大地は少し驚いて友人を見直す。…とんでもない朴念仁に見える彼も、やはり年頃の青少
年ということなのか。かわいい幼なじみのことはちゃんと気になっているのか。
「…ひなちゃんのことが心配?」
それが当然だという感情と、彼にもそんな気持ちがあったのかという切なさとも驚きとも
つかない感情が、大地の中でせめぎ合う。
だが返ってきた答えは思いがけないものだった。
「響也が心配だ」
…かなでと組んで肝だめしに参加している弟の名を挙げて、彼はため息をついたのだ。
「……は?」
思わず聞き返した大地に、律は重々しくうなずいた。
「あいつはこのたぐいが大の苦手なんだ。子供の頃から何度夜中にたたき起こされてトイ
レにつきあったか。……小日向を置いて逃げ出してなければいいが」
………。
…呆気にとられた後で、なんだか腹の底からくすぐったくなってきて大地は思わずぷっと
吹き出してしまった。呼応するように、なにかあきらめたような顔で律も少しだけくつく
つと笑う。
「…大丈夫だよ」
本心から言って、大地は心配症な兄の肩をとんと叩いた。
「響也だって、女の子の前でみっともない真似はできないさ」
律は大地を振り返った。眉間にかすかにしわがよっている。
「だといいんだが」
大地の言うことを信じようとしつつも、信じ切れない顔だ。その背中をもう一度たたいて、
それに、と大地は付け加えた。
「ここの墓地は遮るものがわりと少なくて、こざっぱりしているしね。こういうところは、
見晴らしが良ければ意外とこわくないものだよ」
「…詳しいな」
「忘れたか?俺は地元っ子だよ。…実は、榊家先祖代々の墓はここにある」
「…へえ」
律は真面目にうなって、指で眼鏡を押し上げた。
「…ついでに墓参りをしていくか?」
「いや、肝だめしのついでに墓参りに来たなんて言ったら、墓の中からひいじいさんに説
教くらいそうだ」
「ここまで来たのに寄らなかったのか、とは言われないのか」
「あー。…そうだなあ、どうかなあ」
くだらない話をしながら二人で歩く。もはや肝だめしなのかなんなのか、大地にはわから
なくなってきた。なんだかただ散歩しているみたいだ。
もともと、散歩は好きだ。飼い犬のモモがいるためでもあるが、犬を飼う前から、特に理
由もなくそぞろ歩くことは好きだった。
朝のさわやかな空気の中、歩くのも楽しい。宵闇の中、普段とは思いがけない景色を見せ
る道を歩くのも楽しい。
「こういうのも、いいな」
まるで大地の内心を読んだかのように、律がつぶやく。
「夜の散歩も、結構楽しい」
「そうだな。…俺も好きだよ」
夜の散歩も、…隣にいる、君のことも。

なにやら従兄弟に説教しているハルを置いて、一足先に大地は寮を出た。至誠館の面々と
寮生達はまだ宴会を続けるらしいが、腕に不安が残る律と女の子のかなではもう自室へ引
き取った。
角を曲がろうとして、その電柱に人影を見つけ、大地は足を止める。
小柄なその姿が、大地を見つけて街灯の灯りの下に出てきた。
「恋しい人との道行きはどうだった?…榊副部長」
「……支倉」
声が無意識に苦くなる。…ニアは薄く笑った。
「そんな、毛虫でも見るような目で人を見ないでくれないか。君には感謝してほしいくら
いなのに。……この肝だめしの発案者は私だぞ」
「……」
榊はしばらく、苦虫を噛みつぶしたような顔でニアを見つめていたが、やがて大きなため
息を吐き出してから、ゆるりと笑った。
「…ああ。楽しかったよ。…いい夏の思い出が出来た」
ニアは鳩が豆鉄砲を食ったような顔になった。それを見た大地がくっくっと笑い出す。
「なんだ。…君が言いだしたんだろう。そんなに驚くことはない」
「…ああ、そうだな」
しかし驚いた。ニアは素直に告白する。
「存外素直な男だな。そう正直に肯定されるとは思わなかった」
「それはどうも。…にしても」
大地はまじまじとニアを見てから、周囲をぐるりと見回す。
「女の子が一人でこんな夜道にいちゃ危ないだろう。…送っていこうか?」
いかにもわざとらしい大地の申し出を、苦笑と右手でニアは遮った。
「ここから寮は目と鼻の先だ。…一人で帰れる」
しかし、とうなってから、ニアは左の人差し指をあごに当てた。
「…君は何事もそつなくこなし、人当たりも見目も申し分ない。女性からの受けはオケ部
で一番だろう。…なのにどうして、如月兄なんだ」
大地は一瞬驚いた顔をして、…それから瞳をすがめる。
「…支倉。…君は恋をしたことがないだろう」
つぶやく声は静かだが、どこかさげすむような苦さがあった。
「恋を知っている人間なら、そんなくだらない質問はしない」
「……」
とっさに何も言い返さなかったニアに、大地はいつもの表情に戻って飄々と笑いかける。
「もういいだろう。早く寮に帰りなさい。…君は侮っているようだが、夜道は本当に危な
いよ。……それから」
大地は通り過ぎざま、ニアの左肩に左手を載せ、その耳に低くささやく。
「今の話は当然ながらオフレコだ。万が一どこかにもれたら、……君が女性でも、俺は容
赦しない」
ぽん、と一つニアの肩を叩いて、大地は身を翻した。数歩離れて振り返り、ニアにほほえ
みかける彼は、もういつもの大地だ。女性にはとことんあたりが柔らかく、飄々と笑い、
余裕に満ちて。
「じゃあね、おやすみ」
華やかな声がニアに贈られ、彼はそのまま背を向けて去っていった。
「……」
その姿が角を曲がって見えなくなってから、ニアはふう、と唇をとがらせてため息をこぼ
す。
「…一本取られたな」
左手を額にあて、その額が少し汗ばんでいるのに気付いて、ニアは苦笑した。…夏の夜の
暑さのためでは決してない。…これは、冷や汗だ。
「オケ部の連中はみんな、如月兄を評して怖い怖いと言うが、…皆何もわかっていない。
…オケ部で一番怖くて油断がならないのは、副部長だよ」
ニアはそう言ってやれやれと肩をすくめたが。
「だが、…今年の夏は、楽しくなりそうだ」
……懲りていない顔で笑って踊るような足取りで寮へ帰る彼女の背を、黒猫だけが静かに
見ていた。

夏はまだ、終わらない。