夜の歌が聞こえる

ペンを走らせる手を休めて、風早はふと耳をそばだてた。誰かが、物音を立てないように
気遣いながら、そっと階段を下りてくる。
時計は夜半を回っている。子供達は三人とも、とっくに眠りについたものだと思っていた
のだが。
足音の主は、台所からもれる光の方に迷わず足を進め、
「風早」
穏やかに呼びかけてきた。
「まだ仕事をしているのか?」
「忍人」
風早は黒髪の青年に向かって照れ笑いを浮かべた。
「明日の授業の予習が、終わらなくてね」
「大変だな、先生も」
流しに向かいながら忍人はいたわるように笑う。
「自分が高校生だった頃は、先生がそんなに必死になって予習しているとは知らなかった」
「まあ、ベテランの先生になれば、蓄積されるものも増えるから、俺ほど目の色を変えて
予習なんかしないだろうけどね」
風早は首をすくめた。
「新米は必死さ。…何しろ、予想もつかない質問が飛んでくるからね。……ところで」
こほん、と咳払いする。コップに水をくんだ忍人が振り返った。
「教師としては、学生の夜更かしは厳禁と言いたいところなんだけど。…とっくに寝たと
思っていたよ。眠れない?…それとも、嫌な夢でも見て目が覚めた?」
「…」
一瞬忍人は答えを逡巡した。答えたくないのではなく、自分でもはっきりしない、…そう
いう顔だった。
「…寝たのか寝てないのか、自分でもよくわからない。ずっと起きていたような気もする
し、もしかしたら眠り込んでしまった夢の中での出来事だったのかも」
「…?…え?」
水を一口飲んで、忍人はつぶやいた。
「…夜の歌が、聞こえる」
……!
風早は、ふっと息を呑んだ。
「…なつかしいな、久しぶりに聞いたよ」
「…」
忍人はまたコップの水を飲んで、無言でうつむいた。
「師君の屋敷に来たばかりの頃、夜中によくそうつぶやいて起きてきたっけ。…そのたび
に、道臣がずいぶんおろおろしたっけね。…忘れた?」
「いや。…覚えている」
「不思議だった。俺たちの誰にも聞こえないその夜の歌がじゃなく、君がそのことに怯え
ていないことが俺にはとても不思議だった。…得体の知れない歌が聞こえて、ましてそれ
が屋敷の他の誰にも聞こえていない。怖がるのが普通だろうと思うのに、淡々とした顔で
ただ、夜の歌が聞こえる、と」
風早は目を閉じた。自分にとっては遠い過去ではない。長い長い悠久の時を生きる彼にと
ってはごくごく最近の出来事だ。
今よりかなり幼い彼を囲む、なつかしい仲間たちの顔。おろおろと落ち着かない道臣、ど
こかあっけらかんと、そうかまたかと笑う羽張彦、柊は眉をひそめるだけで何も言わず、
少しひいてその情景を見ている自分。
あの頃も不思議だった。
何か意図あるものなら、なぜ自分に聞こえないのか。人に見えぬものを見、人に聞こえぬ
ものを聞く存在である己に、なぜその歌が届かないのか。
「…風早は、あの頃も恐ろしそうにしていた」
「…そうだね。自分に聞こえないだけに、得体が知れなくて怖かった。…師君はあっさり
したもので、まだ年端のいかない子供が…こういうと君が怒るのはわかってるけど、先生
から見れば俺たちも含めてみんな子供なんだからね…そんな子が、親元を離れて来ている
んだ、どんなことだって起こる、しばらくただ待てばいい、……そうおっしゃったっけ」
そうして確かに、しばらく待つ内に、忍人は何も言わなくなったのだった。
「あのときは蒸し返すのが嫌で聞かなかったけど、…夜の歌のこと何も言わなくなったと
き、君には歌が聞こえなくなっていたのかな?」
忍人はゆるゆると首を横に振った。
「聞こえ続けていた。…だが、慣れっこになってしまって、とりたてて口にすることがな
くなっただけだ。美しい花を見て、最初はああ美しいと口にするけど、毎日毎日咲いてい
るのを見ると、あえて毎回美しいとは言わなくなるだろう。…それと同じだ」
「…そうか」
「…でも」
忍人はふと、コップの水面を眺めた。
「この世界に来てからは、ずっと聞こえていなかった」
「……」
風早は真顔になった。
「だから今夜聞こえたことが不思議で、…目が冴えて。…冴えたらなんだか眠れなくなっ
てしまって、水を飲みに来たんだ」
コップを揺らしてみせて忍人は小さく笑い、残った水をぐっと干すと、コップを洗って水
切りかごに伏せた。
風早は手にしていた鉛筆でこめかみをかりかりとかく。
「…不思議なんだけど」
「…?」
「相変わらず君は、その得体の知れない歌を恐れないね。…なぜ?」
「……」
忍人は腕を組み、冷蔵庫に寄りかかった。
「…昔怯えなかったのは、俺が君の言うとおり子供だったからだろう。…歌は子守歌のよ
うで優しかった。悪意を感じなかった」
どんな歌かと当時も聞かれて、以前は上手く説明できなかったが。
「今にして思えば、波の音に似ていた。…もちろん、現実の波の音とは違う。穏やかに強
弱のある低い声がどこか波に似ていた。母親の腕の中で優しく揺すられているような、そ
んな歌だった」
その歌が。
「時と場所を隔ててまで俺を追いかけてきた。それは恐ろしいことなのかもしれない」
「…でも君は怯えていない」
「ああ」
「なぜ」
「それは…」
言いかけて忍人は天井を仰いだ。否、…見えるはずのない二階を、透かし見ようとした。
優しい目は、誰かのための眼差し。
「那岐が、怯えていないから」
……!
風早はゆっくりと息を吸った。
「那岐は、悪意あるものにとても敏感だ。俺以上に。その彼が、歌に気付かずすやすや寝
ている。二段ベッドから降りて、その穏やかな寝顔を見たら、…ひどく安心できた」
彼が気付かないものなら、きっと悪いものではない。
「…そう、思うんだ」
「……」
ゆるゆると、風早は微笑んだ。腹の底から昇ってくるような笑いだった。
元々は千尋を守るための疑似家族だった。けれど今その家族は、偽の結びつきでなく本当
の絆でつながろうとしている。
「…おやすみ。…風早も早く休んだ方がいい」
言い残してゆっくりと忍人が階段を上っていく。穏やかな足音に、聞いたことのない夜の
歌を思う。今安らかに寝ている那岐を、千尋を思う。
ひそやかに扉が開閉する音が聞こえた。きっと忍人は、もう一度那岐の寝顔を見てから、
穏やかな気持ちで眠りにつくのだろう。その安らかさと夜の歌に守られて。
守り。
…そう、ずっと思っていた。自分に聞こえない夜の歌は、破魂刀が忍人を呼ぶ声なのでは
ないかと疑っていた。だから恐れた。いぶかった。
だがそれが波の音に似ているというなら。低く揺すられるような穏やかさを持っていると
いうなら。
それはもしかしたら、玄武の子守歌なのかもしれない。我が子を守る母なる歌なのかもし
れない。
風早は瞑目した。
たとえ時を再び超えても、この絆がどうか切れないようにと、静かに願う。

…聞こえぬ夜の歌に。