夕映え 個人練習を終えて、今日はもう終わりにしようと大地が足早に森の広場を横切っていると、 池にかかった橋の上に人影が見えた。ぼんやりと欄干に持たれて西の空を見上げている半 分シルエットになった人影が誰かに気付いた瞬間、大地は顔をしかめて遠回りしようと踵 を返しかけたが、既に相手は大地に気付いていた。 「気ぃ悪いなあ。…そない露骨に避けんでもええやん」 くすくす笑いながら言われて、大地は観念した。 「気を悪くさせてすまなかったね、神南の副部長さん」 蓬生はその呼ばれ方に少し眉を上げたが、口に出しては何も言わなかった。 「こんなところで、誰かと待ち合わせかい?」 「いや。暑うてたまらんから、ちょっと水辺が恋しゅうなって。……街中のわりに、この 学校の一角は静かでええとこやね。なごむわ」 「それはよかった」 「……」 大地の淡々とした応じ方に、蓬生はまた薄く笑った。 「…せやけど、君はずいぶんせかせかしとんなあ。…ちょっとくらいゆったりとお話しし ようや、星奏の副部長サン」 先程の呼び方のお返しのようにそう呼ばれて、大地は眉をひそめるように笑った。 「俺から話すことは特にないけどね」 「つれない言い方やなぁ。…ほな、俺が一方的に話すから、君はだまーって、そこで聞い とってくれるだけでいいわ。…どないや?」 「……」 大地は空を見上げて、地面を見て、…しかたなく肩をすくめた。 「どうぞ、お好きに。…何だい?」 「…やれやれ、やっとおとなしゅうなってくれた。…あんな」 内緒話をするように蓬生は大地に顔を近づけた。 「…ほんまのほんまに、セミファイナル出られへんの、如月くん。……温存しとんとちゃ うやんな?」 「……本気で言ってるかい?」 大地の声が低くなった。 「……」 蓬生はしかし、臆する様子もなく、じっと何かを見定めるように大地の目をのぞき込んで いる。 「…お望みなら、診断書を見せてもいいよ」 「……」 そのまま大地が貝のように口を閉ざしてしまったので、蓬生は目をそらした。 「…信じひん、とは、言わん。あの如月くんが、千秋との対決から逃げるとは俺かて思わ ん。……せやけど、あんまりやろ?千秋は一年待ってんで。…正確には、一年の時のあの 対決の後からずっと再勝負を楽しみにしてたんやから、丸二年や」 ふわり、大地の癖毛が動くのを、蓬生は目の端だけで見た。 「二年、待って。如月くんはソロには出ぇへんと聞いて自分もアンサンブル組んで。これ が最後の夏で。…なんで、……対決させてあげられへんのや」 「……」 改めて大地に顔を向け、…ふ、と、蓬生は笑った。 「……ごめんな、榊くん」 「…何が、だい?」 「そないな顔、させて」 大地は思わずやや顔を背けた。…自分は今、どんな顔をしているのだろう、と、ふと思う。 「……言いたいことは、わかっとう。如月くんかて、好きで怪我したわけやない。悪化さ せたかったわけでもない。…千秋も言うとった。コンクール開始前に、横浜に如月くんに 会いに行ったとき、如月くんも再戦を楽しみにしとうみたいやった、って。…あの如月く んのポーカーフェイスでほんまにそんなんわかったんか?って俺がつっこんだら、俺には わかった!絶対や!って胸張って」 ホールでの対決の場には大地もいた。だから、その東金の言葉が嘘ではないと、彼も知っ ている。だからこそ、頬に浮かぶ笑みは苦かった。 「…ああ。確かに、楽しそうだったよ、律も。……他の誰と競うより本当は、東金との対 決で全力を出したかったはずなんだ」 ゆるり、唇を噛む。 「…だけど、じゃあ、……何を責めろって言うんだ。東日本大会の決勝で、課題曲が『冬』 だったこと?その曲でファーストヴァイオリンを務められる実力の持ち主が律しかいなか ったうちの事情?……それとも、そこで全力を出し切った律を責めろとでも?」 「……そないな言い方したかって、悪いけど俺はのったげへんで」 「……」 蓬生は、眼鏡のブリッジを少し上げた。 「君は、…そのどれも悪ないって、ほんまは言うてほしいんやろ?…如月くんのこと、止 められんかった自分も含めてな。……せやけど、俺に言わしたら、責められるべきは課題 曲が『冬』やったことを除く全てや。…如月くんに全てを背負わせた君らのアンサンブル も、後先考えんと東日本大会で全てを出し切ってしもた如月くんも、その如月くんを止め きれへんかった君も、…全部、悪い。全部、責められるべきや。待って、待って、待ち続 けとった千秋には、その全てを責める権利がある。そない思わへんか?」 「……」 「あげく、如月くんの代わりがあの子やなんて。…ふざけんな、や」 立て板に水の蓬生の苦言を黙って聞いていた大地が、そこでようやく口を開いた。 「……。…俺や律に対しての文句はもちろん甘んじて受けるさ。…だけど、ひなちゃんを 責めるのは止めてくれないか。…彼女がファーストヴァイオリンなのは律の指示だ」 「指示したんは如月くんでも、その指示を引き受けたんは小日向ちゃんやろ。…引き受け た以上、小日向ちゃんにも責任はある。…如月くんと戦いたがっとった千秋を満足させる、 ゆう責任が。……君かて、内心、小日向ちゃんには何の責任もない、とは思てへんのやろ」 止めたんやろ。君のことやから。…親切顔して。 「……」 蓬生の言葉を、大地は否定しなかった。それを確認して、蓬生は肩をすくめる。 「…君に水を向けられても止めんかった。…つまり小日向ちゃんには覚悟がある、いうこ とや。…覚悟があるんやったら、ちゃんと責任とってもらわんとなあ?」 「……」 「…もっとも、今のままの小日向ちゃんやったら、とうてい千秋は納得せんで。…君も、 弟くんも、あの一年のチェロの子でも、納得せん。…どないする気ぃなん」 蓬生は大地を睨め付ける。 「如月くんがリタイアしとう以上、アンサンブルの責任者は君やろ。…君みたいな素人に、 この短い期間でいったい何を作り上げることが出来るん」 「……」 ずっと、苦い物をかみ砕き、飲み下す顔で、目を伏せていた大地が、そのときふと、目を 開いた。 その眼差しは思いがけないほど澄んだ色で、蓬生の胸をふっと衝いた。 「……?」 「…俺に出来ることは、一つしかないんだ。…律を信じる。それだけ」 「……っ」 「ひなちゃんをファーストに据えた決定を、俺にアンサンブルの要という仕事を任せてく れたことを、…東金を納得させるアンサンブルが作れると言い切る言葉を、…俺は全て信 じる。律が望むとおりにやり遂げる」 「……」 今度、気圧されたように黙り込むのは蓬生の番だった。 「正直、今君に糾弾されるまで、俺自身半信半疑だった。…だけど、君と話していて気付 いたんだ。あれだけ東金との対決を楽しみにしていた律が、このセミファイナルをおろそ かに考えるはずがない。律は、俺たちを信じて、自分の出来うる、考え得る、全ての最善 をお膳立てしてくれているはずなんだ。…俺はそのことを疑わない」 大地の晴れやかな笑顔は、西日に照らされて少し赤い。 「腹をくくったよ。…君のおかげだ、土岐」 「…礼を言われても困るんやけどな」 ……けどまあ。…蓬生はそうつぶやいて、静かな苦笑を浮かべた。 「君が腹をくくったんはええこっちゃ。…言うとくけど、俺は、君がこのアンサンブルの 一番の弱点や、いう考えを捨てたわけやないで。君が一番の素人で、しかも、代わりがお るんやったらメンバーを入れ替えてもいい、てなふざけた気持ちでいるんが変わってへん 以上…」 「ああ。俺がアンサンブルの中で一番の素人だということは変えようがない」 珍しく、大地が蓬生の言葉を遮った。 「…だけど、代わりがいるならメンバーを入れ替える、とは、もう言わないよ。…何が起 こっても律を信じ続けていられるヴィオラは、この世に俺しかいないからね」 蓬生は眉を上げた。大地も応じるように眉を上げて見せた。…目と目を見交わして、…ふ は、と蓬生は小さく笑った。 「…せやな。…それは確かに、そうやろ」 それから大きく肩をすくめ、蓬生は大地に背を向けた。 「せいぜい、おがんばり。…半端したら、承知せんで」 背を向けたまま、ひらひらと手を振る。…その背中に、大地は、ああ、とうなずいた。 「東金も、君も、…納得させられるアンサンブルを、作るよ」 「…期待せんと待ってるわ」 長い影を曳きながら、蓬生は森の広場の出口に向かって歩いていった。大地は橋の上に佇 み、瞑目して空を見上げる。 長い長い夏の日は、まだ暮れない。