夕立の狭間

天鳥船の堅庭には、長く生きた木がたくさん生えている。
長く生きている割に幹周りがそんなに太くないのは、日の当たりづらい場所に生えていた
時間が長かったせいだろうか。きっと年輪はみっしりと詰まっているのだろうな、と那岐
は思う。
長く生きた木々は総じて饒舌だ。実際に言葉を交わすわけではないが、那岐が感じる限り、
彼らは感情豊かで、しかもそれを発露することをためらわない。
那岐が堅庭に入ってくれば、「俺の枝の下が涼しいぞ」「こっちは日当たりと影の具合が
絶品だぞ」と言わんばかりに、競い合うようにして枝を揺らす。
一方で、布都彦が堅庭に入ってくるとひたりと動きを止める。彼が堅庭で槍の練習中、悪
気はなかったのだが木の幹に傷を付けたことがあって、以来彼を(あるいは彼の槍を)警
戒しているようなのだ。とはいえ、布都彦自身、自分の獲物は堅庭で振り回すのは不適当
だと認識しているらしく、あまり堅庭に出てくることも、堅庭で槍の稽古をすることもな
いのだが。
まあ、布都彦に限らず、樹は基本的に刃物を持つ人間をあまり好かない。金剋木で、木に
とって金属は相克だからだ。
それが基本の理屈なのだが。
那岐には一つ不思議なことがあった。

夏の夕暮れは長い。日が落ち始めたのはずいぶん前のことのような気がするのに、まだ西
の空はうす桃色に美しく、山の端には残照が輝いている。
那岐はぼんやりと隠れ家にいた。
堅庭の縁は柵がないので、ぎりぎりのところには普通の人は余り近づかない。が、この縁
を樹を伝いながら降りると腰掛けられるくらいの出っ張りになっている。木の枝で昼間は
いい木陰が出来、朝夕はほどよく日が差す。しかも、堅庭を歩いている分にはここに人が
いるとは気付かれない。うるさい誰かから逃げ出すときや、昼寝をするにはもってこいで、
那岐は愛用していた。
夏の夕暮れの風は、昼間の日差しの熱を振り払えずにどこか生暖かい。それでも吹かれて
いると汗はゆるゆるとひいていく。
那岐の傍らにある樹は、さっきからずっと、風にゆるゆると枝を撫でられていた。さやさ
やと葉擦れの音が優しい。堅庭の中でも一二を争うくらい古い樹らしく、他の樹が彼には
敬意を払っているのを感じる。そして、饒舌ではないが、ものをよく知っていた。
さやさや、さやさや。
静かな葉擦れはまるで子守歌のように那岐の眠気を誘う。…その誘いに那岐が乗りかけた
ときだった。
…ふと、葉擦れの音が、ごうという強い音で遮られた。
…なんだ?
那岐が不思議に思って樹の幹に触れると、…樹の中で、水がごうごう音を立てて流れてい
るのがわかった。この音が力強くて、葉擦れのかすかな音をかき消しているのだ。
樹はごうごうと音を立て続ける。うれしそうに、笑っているように。
その反応で那岐は気付く。
…ああ、忍人が来たのか。

那岐の不思議はこれだった。
前述の通り、基本的に樹は刃物を持つ人間を好かない。だが、堅庭の木々、特に古い長命
な木々達は、こぞって忍人の来訪を歓迎する。
どうしてかな。
その理由が知りたくて、那岐は少し気配を殺してみた。忍人は勘がいい人間なので、那岐
が縁の下に隠れていてもすぐに見つける。…が、意識して気配を殺せば、そうすぐには見
つからないはずだ。
果たして。
忍人は那岐の存在に気付かなかったようで、いつもの縁の端に立っても那岐に声をかけて
くることはしなかった。
が、…口は開いた。
低く静かな声。普段と違って彼が声を張ることはなく、また、木々がいっそううれしそう
にごうごうと音を立てて、幹の中の水を力一杯梢の先まで届けようとしていることもあっ
て、忍人がなんと言っているのか那岐には聞き取れない。
だが木々は喜んでいる。ただ忍人が堅庭に入ってきたときよりももっと喜んでいる。
…その喜びようで気付いた。
忍人の言葉は、おそらく賀詞なのだ。ないしは言祝ぎ歌。木々を敬い褒め称え、その長命
を祈り願う言葉。
長く土中に埋もれていたであろう木々にしてみれば、てらいなく向けられる素直な喜びと
祈りの言葉はどれほど心地いいだろうか。忍人が不吉な刀を持つ者であるにも関わらず、
木々達が彼を好ましく思い、来訪を喜ぶのはこのためか。
「…ああ」
そうか、と思ったらつい、声が出た。
…はっとした様子で、忍人の声が途切れる。不満げに木々は梢を揺らし、静かになった。
「…那岐?」
声をかけられて、那岐は上を見上げる。忍人が見下ろしてきていた。
「いたのか」
「うん」
「気付かなかった」
「そう?」
わざと気配を殺したのだったが、那岐は敢えてしらばくれた。忍人も追求はせず、那岐を
見下ろすのを止めて、ゆるりと身を起こした。
「ねえ」
那岐はそんな忍人に声をかける。なんだ、ともう一度忍人が那岐を見下ろした。
「今の何」
少しぶしつけな聞き方かな、と、自分で聞いておいて一瞬那岐は思ったが、忍人の方はさ
ほど気にした様子はない。ただ、聞こえていたのか、と、少し戸惑うようなはにかむよう
な表情を見せた。
「賀だ。…賛とも呼ぶかもしれない」
やはりそうか。
「いつも言ってんの?」
「まあ、…気持ちに余裕があるときは」
言って、忍人は少し苦笑した。…まあ確かに、敵から逃げている最中に、わざわざ賀を口
にすることもないだろう。
「長く生きたものには敬意を以て接しろというのが母の口癖だったんだ。…子供の頃にた
たき込まれたもので、今でもつい口にしてしまう」
習慣というのは恐ろしいな、と、小さく笑う彼は、いつになくあどけなく見えてどきりと
する。
三つ子の魂なんとか、ってやつかな、と思いながら、那岐はふと、幼児の忍人と、膝をつ
いて彼の目線の高さで話をする母親の図を想像した。見ず知らずの彼の母親の顔はおぼろ
で想像がつかないが、一心に聞き入る忍人の顔は容易に想像がついた。まっすぐ見開かれ
た幼い瞳まで目に見えるようで。
「いいな」
思わず那岐はつぶやいていた。
「…?」
忍人は首をかしげた。那岐はそんな彼に小さく笑ってみせる。
那岐は、思い出話を他人にすることはあまりない。けれど何故か、今日は話したい気分だ
った。
…忍人に、知ってほしいと思った。
「…僕には、母親の記憶はない。というか、そもそも親の記憶がない。育ててもらった師
匠がいるから寂しいと思ったことはないけれど、でも、彼の僕への接し方はやっぱり、男
親としてのそれだったと思う」
それを物足りないと思ったことは一度もないし、今もそのことに不満を唱える気はさらさ
らないのだが。
ただ、常に厳格に見える忍人の中に、母親ならではの心優しい教えが息づいているという
事実は、素直にいいなと感じる。
「千尋も、…ちょっと僕に似てる。母親と触れあった記憶というのが欠如していて、父親
に至っては記憶すらないみたいだ。風早の存在があったから、千尋も素直に育っているけ
ど、それだってやっぱり男親に近い接し方だったはずで」
…だから。
「だから僕ら、…どこか変わっているのかな」
驚くほど他人を警戒しない千尋。逆に、初対面の相手にはまず必ず身構え、殻を作る自分。
我がことながら、極端すぎると思う。
「忍人と道臣と布都彦は、…なんか、同じ匂いがする。…両親に愛されて、健やかに育っ
た匂いって、…そういうのなのかな」
「……」
忍人は那岐の述懐を何も言わずに聞いていたが、ふと、
「…そっちへ行っていいか」
低く言った。
なぜかひどく重く聞こえる声で、那岐は少しはっとしたが、見下ろす忍人の視線は穏やか
だ。気のせいだったか、と首を振る。
「うん、…いいけど」
「…」
無言で、忍人はひらりと那岐のいる縁に降りてきた。小さな隙間を空けて那岐の隣に座る。
わざわざ傍に降りてきたからには、何か話があるのだろうが、彼はすぐには話し出さなか
った。どこから話したものかと考え込んでいる風にも見えた。
…やがて、…重く口を開く。
「君は、俺たちを健やかと呼ぶが、…俺はそうは思わない」
苦い声だった。
「我々の方こそ、君たちに比べて歪んでいる。君が、俺と布都彦や道臣殿に同じ匂いを感
じるというならそれは、健やかに育った者のおおらかさの匂いではなく、束縛された者の
歪みの匂いだ」
そくばく?ゆがみ?
思いがけない忍人の言葉に那岐が怪訝な顔を隠せない。忍人は那岐のその表情を一瞬見て、
また目をそらした。
「我々は、一族というくびきや、宮に仕えねばならぬという執念から、おそらく、生涯解
き放たれることはない。この船に乗って、サザキや君たちを見て、自由に息をする方法な
どいくらでもあるのだと気付いても、同じように息をすることはどうしても出来ないんだ」
「そんなの…!」
くびきだかなんだか知らないけど、捨てちゃえばいいじゃないか、と言おうとして、那岐
は続きを飲み込んだ。自分にはそう言える。けれど忍人にはそうは言えないのだ。それこ
そが、彼の言う束縛であり、歪みなのだ。
那岐が何を言おうとして、何を飲み込んだのか、忍人はわかっている風だった。そらして
いた瞳をゆるりと那岐に向ける。暗い声とは裏腹に、穏やかな色をしていた。
「氏の名に束縛されてはいても、…確かに俺は両親に愛されて育った。今の道も、自ら選
び取った道だ。だから俺は、今の自分を否定しない」
だから君も。
「自分のことを変だなどと言わないでくれ。君は健やかに伸びやかに生きていると俺は思
う。君のそういうところが、俺は好もしい」
好もしいという言葉がそういう意味ではないと頭ではわかっているのに、…胸はずんと響
いた。
動揺を隠すために目をそらし、那岐は口元に薄い笑いを浮かべる。
「僕も、…忍人のそういう冷静なとこ、すごいなって思うよ」
自分の中の正負をきちんと分析して、理路整然と動揺をセーブしている。まるで、力強い
樹が多く根を張った、豊かな大地のようだ。
傍にいて得られる安堵が心地いい。
「そういうとこ、嫌いじゃないよ」
好きだよとは言えない自分を、那岐は心の中で嗤う。
那岐の内心など気付くはずもない忍人が、それはどうも、と言って笑う。苦笑気味だ。
「君がそう素直だと、雨でも降るのではないかと思ってしまうな」
「それ、どういう意味?」
那岐が忍人をねめつけたとたん、白光が目の前を走り、がらがらぴしゃん!とものすごい
音がした。ざあっと生暖かい風が通りすぎ、大粒の雨が降ってくる。そしてまた稲光と、
雷。
二人はぽかんとして顔を見合わせ、…どちらからともなく、弾かれたように笑い出した。
幸い、堅庭の縁が張り出している軒先に二人はいる。吹き降りになっても、今堅庭に上が
るよりはここで雨を避けている方がいいだろう。
「やっぱり降った」
「人のせいにしないでくれない?」
他愛ない喧嘩をしながら、二人で雨を眺める。
穏やかな忍人の横顔に、那岐の気持ちがゆるりと凪ぐ。
「降りが落ち着いてきたな。もうすぐやむだろう」
「そうだね」
やまなくてもいいのに、と、ちらりと思った。