夕霧の秘密

忍人が何気なく回廊への扉を押し開けると、開けてすぐの小さなくぼみ部分で、那岐と布
都彦がなにやら話し込んでいた。何気なく見れば、布都彦が熱心に話しかけているのを那
岐が面倒くさそうにあしらっているように見えるが、両者の会話はいつもこんな調子だ。
布都彦は何事に対しても熱心に過ぎ、一方那岐は、何か物事に対して自分が非常に熱心に
なっていると見られることを嫌う。そのためかどうか、彼らが何気なく話し込んでいると、
布都彦ばかりが熱心で、那岐があきあきしているかのように見えるのだ。
二人の今日の会話は、忍人から見るとそれなりに白熱しているようだ。ほほえましい気分
で眺めながら通り過ぎようとすると、布都彦がはっと顔を向けて話しかけてきた。
「葛城将軍、回廊にお見えになるのは珍しいですね」
「…そうか?」
言われて、忍人は思わず足を止め、軽く瞬いた。
そんなつもりはない。食事をする場所は回廊の奥にある部屋だから、何かと通っているの
だが。
那岐が少し笑う。
「食事時以外では見かけないって思われてるんだよ、きっと」
「や、あの、そ、そんなことはっ」
なぜか赤くなってうろたえる布都彦を見ると、ああ、そう思われていたんだろうな、と忍
人も納得する。…実際、軍の訓練で外にいる時をのぞけば、堅庭にいる時間が一番長いと
いう自覚は忍人にもある。
「ああ、でもちょうどよかった。…少し伺いたいことが…」
布都彦が何か言いかけたときだった。回廊の扉がまた開いて、夕霧がその華やかな姿を現
す。三人を見て艶然と笑ってから、布都彦に視線を止めた。
「布都彦はん、いいとこにいやはったわあ。…皆さんとお話中やろか。…そのお話がすん
でからでかまいまへんから、お時間いただけません?」
布都彦の肩がびくう、と震える。
明らかにおそるおそる、という顔をして、夕霧をうかがうと、ぷるぷるぷるぷるとものす
ごい勢いで首を横に振る。
「申し訳ございません、急用を思い出しました。また後ほど!」
言うが早いか走っていく。
いや、走っていくというよりは。
「あらら、逃げられた」
夕霧の嘆息通り、脱兎のごとく逃げていってしまった。
頬に手をあて、はあ、となまめかしいため息を夕霧はつく。
「ここのところずっと、布都彦はんに避けられてる気がするわ。なんでやろ」
那岐はあっさりと肩をすくめる。
「こないだ、あんたが男だってことばらしたんだよね、布都彦に。それでじゃない?」
夕霧は、あら、と目を何度か瞬かせる。それから、にやりと、…にっこりと、ではない、
明らかににやりと笑ってみせた。
「…いややわ。…みんな、気付いていて黙ってはったん?」
「しらばっくれて。…あんただって、ばれてるって気付いてたんだろ?」
「せやねえ」
夕霧は首をすくめる。
「サザキはんにのせて空飛んでって頼んでもうまいことはぐらかされるし、遠夜ちゃんに
飾りを選んでもろたら、明らかに男物を選んでくれはるし。千尋ちゃんと布都彦はんにば
れてへんのが奇跡なんやわ」
にしても、と彼女…彼は首をかしげる。
「でも、みんな知ってはるなら、なんでうち、この船から放り出されへんのやろ」
那岐と忍人は目を見合わせる。那岐に譲られて、忍人が肩をすくめて口を開いた。
「女装していることに関して、君に悪意がないのは見ていればわかる。あの高千穂では、
男性の姿でいればレヴァンタに捕まっただろうし、その後はばらすきっかけがなくて引っ
込みがつかなくなっただけだろう」
夕霧は苦笑して、あたり、と小声で応じた。
「…ただ、君が我々についてきたのが、本当に偶然かどうかは気にかかるが」
「はは」
夕霧は軽く笑う。
「…千尋ちゃんが国を取り返すって決めたとき、このままついていけば、一人で危ない道
をたどるよりも楽に目的地につける、って思たんは事実よ。そういう意味では利用させて
もろてる。でも、それ以上の他意はあらへん。これも事実。…信じてもらうしかないけど
ね」
忍人はかすかに目をすがめたが、ややあって軽く首肯した。
「信じよう」
今度は夕霧が、おやおや、と片眼をすがめて、それから困ったように笑い出した。
「…あはは。忍人はんは、見た目よりずっと素直で、ほんま、ええ子やわあ。…うちのこ
とはともかく、他でもそんな風に素直に、なんでもかんでも信じたらあかんえ。…ちょっ
と心配や」
心なしか子供扱いされて、忍人は露骨にむっとした顔になる。
「心配してくれずとも、君が姫に害をなすようなら、俺は迷わず斬る」
「うちのことはともかく、って言うたやんか」
いややわ、と笑いながら、…ふと夕霧は真剣な声になった。
「…せやけど。…うちがもしも千尋ちゃんの妨げになることがあったとして。…忍人はん
の手にかかるのは、ちょーっと遠慮しとくわぁ」
語尾にはいつもの夕霧らしい軽さが混じったが、それでも真剣な色は消えない。
「…死ぬのが怖いのんとはちがうえ。どっちか言うたら、今こうして生きてることの方が
うちにとっては奇跡なんや。国を出たとき一緒やったうちの仲間は、みんなもう海の底や
からね」
さらりと言った夕霧の言葉に、忍人は眉をひそめた。その忍人の表情を見て夕霧が見せた
軽い瞬きは、聞かんかったことにしといて、という意味だろう。了承の代わりに、忍人は
目を閉じた。
「せやから、うちが千尋ちゃんの妨げになるようやったら、死ぬのはかまへん。せやけど、
ここまでこの船に深入りしてしもたら、もう普通には死なれへん。忍人はんはいい人やか
ら、うちを後ろから襲って殺すようなことはしはれへんやろ。正面から斬りつけてきはる
はずや。…でもそしたら、千尋ちゃんにも何があったか知られてしまう。…それだけは、
いやなんよ」
肩衣をくるくると指で巻いたりほどいたり。…仕草は本当に女性らしい。だが、声にはふ
と、すごみが増した。
「どうせ殺されるんなら、柊はんに頼む。あの人は、うちを声も出さへんようにしてこっ
そり殺して、こっそりどこかに捨ててくれるやろ。そして千尋ちゃんに、夕霧は国へ帰り
ましたと平気な声で言うてくれるやろ」
なあ?と笑まれた声は、もう普段通りの夕霧の声だったのだが。
一瞬見せた凄みは、那岐と忍人の中に深く刻み込まれた。
「…あんた、…意外といろいろ考えてるんだな」
ぼそりと那岐が言った。
「あはは。少なくとも那岐ちゃんよりは長生きしてるえ。人生経験がちがうんよ」
「…へえ。…で、いくつ?」
夕霧は再び艶然と微笑んで見せた。
「いややわあ。女性に年聞いたらあかんえ」
「あんた男だろ!」
「それは言いっこなし」
いや、そこは言わせてくれ、と那岐は思う。
「ほなら、うちはこれで。ちょっと布都彦ちゃんさがして、からかいに行ってくるわー」
忍人が思わず額を押さえた。
「…ほどほどにしてやってくれ」
「あらあら、お兄さん代わりは心配性やね。…せやけど、これも人生経験、よ」
「……そういう人生経験は、ほどほどでいいと思うが」
「それにしたって、布都彦ちゃんはもうちょっとこの手の人生経験をつんだほうがええと
思うわー。いくらなんでも免疫が足りなすぎ」
はたと那岐は夕霧の顔をのぞき込んだ。
「…もしかして、…ずっとそういうからかいをしてんの?布都彦に?」
「もちろん」
はー。深い深いため息を那岐はついた。
「…布都彦があんたから逃げるの、あんたが男だとわかったからだと思ってたけど。…違
うんだね」
「そうかもしれへんねえ?」
それじゃね。
肩衣をひらひらふって、夕霧は布都彦の逃げていった方向へ悠然と歩いていった。
「……意外と、食えない奴」
那岐が嘆息すると、その横で忍人が肩をすくめた。
「あの狭井君と渡り合っていると聞く。…軽く食える相手ではもともとないさ」
うええ、あのおばさんと。
那岐が厭そうな顔をしてみせると、そんな顔をするなと言う忍人も微妙に渋い顔をしてい
る。その顔のまま、忍人はぽつんと言った。
「…まあ、彼が姫に害をなすことはないだろう」
「なんでそんなことわかるのさ」
「…俺たちに、さりげなく手の内を明かしてみせただろう」
彼は、仲間は皆海の底だと言った。
「そして、狭井君となにやら交渉している。つまり、彼は大陸からの使者なんだ。ならば
今復興の勢いを増しつつある中つ国の王位継承者に何かなすことは彼の国の害になる」
…なるほど。…それはたしかにそうだろう。…けれど。
「…忍人」
「なんだ」
「もし、…もしなにか情勢が変わって、夕霧が千尋に害をなそうとしたら。…あんた、ど
うする?」
那岐は忍人の夜空色の瞳をのぞき込んだ。
「……さあ」
やや、忍人は首をかしげて。…瞳から表情を消して、ぽつりと言う。
「柊でも、呼びに行くかな」
「…」
「…」
二人が黙りこくったとき、どこか遠くから、「ゆ、夕霧どのー!」と叫ぶ、気の毒な布都
彦の情けない叫びが聞こえてきた。
那岐と忍人は思わず顔を見合わせて、…吹き出す。
「…まあ、しばらくはあんまりややこしい心配をしなくても良さそうだね」
「…布都彦のことだけは、心配してやりたくなってきたがな」
おやめくださいー、という悲鳴が続けて聞こえてくる。二人は苦笑をこらえながら、布都
彦を救出するべく、声の聞こえる方へと歩いていった。