夢

日曜日のお昼ご飯が、チキンライスだった。
別に、それはかまわない。たまにあるメニューだ。
けれど、何気なくスプーンですくって口に運んだ千尋は、思わず眉を寄せた。
「………なに、これ」
お行儀が悪いと言われることを承知で、ぺろりと口から出してみる。
……それは。
「………どうして、チキンライスにあぶらげが入ってるの……?」
「……ていうか」
千尋の横で那岐も何かを確認している。
「キュウリのぬか漬けもどうかと思うけど」
そして、千尋の向かいでは風早がおっとりと苦笑いをして。
「……辛いものならまだいいですが」
「よくないよ、ぬか漬けだよ!」
叫んだ那岐に千尋もうんうんとうなずいたが、
「…金時豆の煮豆よりはいいと思います……」
がっくりと風早にうなだれられて、二人は勢いを失った。
三人の目が、残る一人に集中する。
…見つめられていることに気付いているのかいないのか、彼は黙々と食事をしている。
「……忍人」
三人を代表して、風早が呼びかけた。
けげんそうに、忍人が顔を上げる。
「…今日の食事当番、君ですよね…」
「昨日で賞味期限が切れている油揚げが袋に半分残っていたんだ」
那岐や千尋が食事当番をすると、朝食も夕食も洋食系になりがちだ。風早が使った油揚げ
が賞味期限切れになるのはありそうなことだった。
「それに、煮豆とぬか漬けは、ここのところ毎回食卓にあがっていたが、どうもへりが悪
いようだったので、使ってしまった。納豆についていたからしも一緒に入れたから、甘く
なりすぎることはないと思う」
「てか、納豆も一緒に入ってんの!?」
那岐がまた叫ぶ。千尋はがっくりテーブルにうつぶせて、風早だけがははははと力なく笑
っている。
「もう忍人は食事当番から省こう。そうしよう」
不意に那岐が握り拳を作ってそう主張した。
「俺だけ特別扱いしてくれなくていい」
むっとして反論しようとする忍人に、那岐はちがうだろ、とかみつく。
「特別扱いって言わないんだよ、こういうのは!僕らの胃袋の安全のために忍人は除外。
わかる?じ・ょ・が・い!」
まあまあ那岐、と風早が割って入った。
「忍人は忍人なりに一生懸命やっているんですから」
「じゃあ風早は、このまま下手物食いさせられていいわけ?チキンライスかと思いきや、
闇鍋ケチャップご飯だよ!これ、千尋も食べるんだよ?」
「…うーん…。…確かに今日のはちょっと…」
会話の主体が、那岐と忍人から那岐と風早に変わる。置いてきぼりをくらった格好の忍人
が、珍しく少し拗ねた顔をしてむっつりしているのがおかしくてかわいくて、千尋は思わ
ずぷっと吹き出して笑ってしまった。

……ぷっと吹き出した、自分の呼気で目が覚めた。

千尋は、むっくりと寝台から身を起こした。
あたりをぼんやりと見回す。いつも通りの自分の部屋だ。
柔らかな寝台。どういう作りになっているのか、いつも水が流れる美しい水路。うすぎぬ
の向こうには朝焼けの空が広がる。いつもより色が濃い。まだ朝が早いようだ。
向こうの世界では、こんな時間に目が覚めることはなかった、と思う。
お正月以外はいつも朝日がきらきら輝くまで寝ていて、風早に起こされて、那岐と洗面所
の取り合いをして。
3人で過ごした騒がしい日々。
「……3人、だったよね」
千尋は額を押さえた。
風早は、たいていは那岐と千尋よりも一足早く学校へ行く。那岐と千尋はだいたい連れだ
って学校へ向かう。…二人きりで。後は必ず鍵を掛けて。
食事当番も、一日交替で3人で回していた。だいたい週2回ずつ回ってくるのだけど、運
が悪ければ3回回ってくる週もあった。日曜日にやって、水曜日にやって、土曜日。土日
が二回回ってくると、三度三度メニューを考えないといけないから面倒だったことを、確
かに覚えている。…覚えているのに。
「…今のは、…ただの変な夢だよね」
あのなつかしい橿原の家に、あの食卓。
千尋が覚えている限り、あの4人掛けのテーブルの一カ所は、食器棚でふさがれていて誰
も座っていなかったはずなのに。
夢の中ではそこに忍人が座っていた。
騒ぐ那岐となだめる風早を尻目に、淡々と食事を続けていた。
白いシャツを着て。当たり前のような顔をして。
そして、そのことにまったく違和感を感じなかった自分。
「…夢だよね」
千尋はもう一度つぶやいてみる。
…夢だから、何が起こっても不思議だと感じなかっただけ。ただそれだけ。きっとそう。
千尋は頭を一つふるりと振った。それからするりと寝台を抜け出る。
露台へ出て外を眺めた。いつもなら、もっと白く輝いているはずの東の空は、濃いあかね
色をしている。息をのむほど美しかった。朝焼けが美しいと雨が降る、と聞いたことがあ
るような気がするが、それでは今日は雨が降るのだろうか。
それでもいい。こんなにきれいな朝焼けが見られるなら。
もっと大きな空を見たい。
千尋は手早く身支度を調えて部屋を出た。

堅庭に出ると、鋭く空気を切り裂く音が聞こえてきた。
「……」
忍人が刀を振るっていた。
千尋は、ぐ、と手を握りしめる。
…朝焼けを、もっと大きな空で見たいと思ったとき、そのためにここに来ることを選んだ
とき、自分はここでこの人と会えることを期待してはいなかったか?
……あやまたず、その期待は叶えられたわけだが。
忍人は、黙々と刀を振っている。
…千尋は何故か、異世界の橿原で、高校の武道部が文化祭で披露した、太極拳の剣の舞を
思い出した。
あちらは、銀紙とボール紙で出来たお手製の剣だったし、中国風の曲もついていた。体の
なめらかさをよりよく見せるため、もっとゆっくりした動きだった。そもそも、動きその
ものはかなり違う。
それでも、どこかしら似ていると感じる。
…動きに無理がないところが似ているのかな。
ふと千尋は思った。
自然な動きの中から、刀がひらりと翻る。刀の重さと重力、体のバネを利用して、力を増
す。
体のどの部分にも、余計な負荷がかかっていないのがわかる。
…とても、とても、きれいな動き。
ひたり、と忍人の動きが止まった。
「…二ノ姫」
やはり気付かれていたのだろう。すっと彼は千尋を振り返った。
「なにか、用だろうか」
千尋は忍人に数歩近づいて、微笑んだ。
「…いいえ。…ただ、朝焼けが見たくて」
忍人は背後の空を振り返り、首をすくめて、かすかに笑んだ。
「…なるほど。…俺が刀を振るっていては、横を通り過ぎることは出来ないな」
「…声をかけようと思えばできたんですけど。…なんとなく、邪魔をしたくなくて」
でも、と千尋は首をすくめた。
「堅庭に入ってきた時点で、気付いていたでしょう?とっくに邪魔になっていましたね」
「…いや。…気遣ってくれてありがとう」
そう言って隣をすり抜けようとする忍人の腕を、千尋は慌ててつかまえた。
「隅っこで空を見ているだけですから。どうか鍛錬を続けてください。…ううん、それよ
り」
とっさの思いつきを口にする。
「一緒に、朝焼けを見ませんか。…今日の朝焼けは、とてもきれいだから」
忍人は少し戸惑った様子で、ぱちぱちと何度か瞬いたが、
「…君がそう言うなら」
静かに応じて、刀を腰の鞘に収め、空に向き直った。千尋も空を見た。二人で肩を並べて
ぼんやりと空をゆくあかね色の雲を見る。
「……なにか、…問題でも?」
ぽつりと忍人が言った。
「…え?」
千尋は一瞬ぽかんとしたが、
「君にしては、目覚めが早いようだ」
続く言葉に苦笑いした。視線を流してくる忍人もかすかに苦笑している。
「ちがいます。…ちょっと、…」
…よみがえるのは、四人の食卓。
「…ちょっと、変な夢を見て。…それでいつもより早く目が覚めたの」
「…変な夢?」
白いシャツを着て、大まじめな顔で、チキンライス…ならぬ、闇鍋ケチャップご飯を口に
運んでいた忍人。
「…ええと」
どう説明したものか、と千尋が困惑していると、
「無理には聞かない。言わなくていい」
忍人は静かにそう言って、また前を向いた。
「…夢か」
そしてつぶやく。
「…俺も今日、おかしな夢を見た」
「どんな夢ですか?」
思わず応じてから、千尋ははっと口を手で押さえた。
「…あのう。…聞いてもかまいませんか?」
「別にかまわない」
そこまで気を遣ってくれなくても、と忍人はまた小さく苦笑した。
「…俺が、見たこともない家で暮らしている夢だ」
「見たこともない家…?」
「そうだ。…でも中には風早がいて、君がいて、那岐もいて、…まるで普通の兄弟か家族
のように俺たちは暮らしていた」
どきん、と大きく鼓動が一つ胸を打った。
「俺は、野営で捕まえた兎や魚を焼くくらいのことはするが、まともな料理は今まで作っ
たことがない。だが、夢の中の俺は、自分でも見たことのない真っ赤な飯を君たちに勧め
て、那岐に叱られて、君と風早を困惑させている」
「…え、ちょっと、…ちょっと待ってください」
思わず千尋は忍人の言葉を遮ってしまった。
「…?二ノ姫?」
「それって、闇鍋ケチャップご飯?」
「…ああ、そういえば那岐がなんだかそんな言葉を…」
「……!」
千尋は両手で口を押さえた。
「…姫?…どうかしたか?」
「どうして、…私と同じ夢を忍人さんが?」
待って。…あれは本当に夢?あの家で、私は本当に3人家族だった?私は異世界の橿原で、
誰かをお兄ちゃんと呼んでいなかった?那岐ではなく、風早でもなく、別の誰かを。
……誰を?
「…姫!」
腕をきつく掴まれて、軽く揺さぶられて、千尋ははっと、思考の暴走から我に返った。
「…大丈夫か」
忍人が心配そうな目で千尋をじっとのぞき込んでいた。
「…あ」
「どうした」
短く問われて、千尋は小さく何度も首を横に振った。それから小さく息を吸って、早口で
話し出す。
「同じ夢を、今朝、私も見ました。なつかしい橿原の家で、那岐と風早と私と忍人さんが
食事をしている。忍人さんが作ったケチャップご飯に変なものがいっぱい入ってて、那岐
が怒ってる。闇鍋ケチャップご飯だって」
あれは本当に夢?ただの夢?
「…どうして、夢の内容がこんなに細かいところまで同じなの?あれは本当に夢なの?」
いいえ。…いいえもしかしたら。あれは夢ではなくて。決して夢ではなくて。
また暴走しかけた千尋の思考を引き戻したのは、今度は忍人の冷静な声だった。
「夢だ、二ノ姫」
「……っ」
忍人の夜の海の色をした瞳が、じっと千尋をのぞき込んでいる。…心配してくれている色
をしているのに、たしなめられているようだと、何故か思った。
「俺は、一度もこの世界を離れたことはない。生まれて、師君の元に入門して、橿原宮が
陥落してからもずっとこの世界で戦っていた」
異世界に行ったことはないんだ、姫。
その言葉は、薄い鋭利なナイフのように、すうっと千尋の肋骨の隙間に刺さって消えた。
「…俺はどうやら、君の夢路に迷い込んだらしい。……迷い込まれて、衝撃を受けた君の
気持ちはわからないでもない」
夢の中でも、きっと俺は口うるさかったのだろう。
苦笑混じりに言われて、千尋は慌てて否定しようとして、否定するために笑おうとして、
…けれど、胸が詰まって笑えなかった。
「…二ノ姫」
うつむく千尋の頭上に落ちる、忍人の声に狼狽が混じる。
「すまない、俺は悪い冗談を…」
千尋は慌てて首を横に振った。大きく横に振った。
「……ちがいます。…ちがいますから」
深呼吸を一つ。…笑える。大丈夫。
千尋は顔を上げて、にっこり笑った。まだ泣き笑いのような顔なのだが、笑えていること
にした。
「…とても楽しい夢でした。……現実だったら良かったと、…ただそう思って」
「夢だ、姫」
「わかってます」
「…夢だ。…だが」
またうつむいた千尋の頭に、忍人がぽんと手を置いた。
「…現実だったら良かったと、君が言ってくれたことはうれしい」
千尋ははっと顔を上げた。
「楽しい夢だった。…俺にとっても」
静かな声と薄い笑みが、いつになく優しかった。目を見開く千尋の前で、忍人はふいとま
た顔をそらし、空を見上げる。
「……一雨来そうだな。…中に入ろう」
「…え」
くるりときびすを返した忍人が、数歩歩いて振り返り、手をさしのべる。
「…ええと」
これは。…手をつないでいいということなのかしら。
千尋がちょっと逡巡していると、
「俺がついていて、君を雨に打たせて風邪をひかせたとあっては、風早に何を言われるか
わからない」
忍人はいつものむっつりとした顔で、さあ手を取れと言わんばかりに言い添える。
えーと。
千尋はとりあえず、素直にその手を取ることにした。
ひいやりとしているかと思ったその手は、思いがけず温かかった。
「…温かい手ですね」
素直に言うと、忍人がさらりと応じる。
「さっきまで刀を振っていた手だ」
…あ、そうか。
いつも大股で足早に歩く忍人は、今日は千尋に気を遣ってか、ゆるりと歩いてくれる。
それでも堅庭の入口はすぐ目の前に迫る。
彼はきっと、入口に入ればこの手を放すだろう。
庭がもっと広ければいい。いつまでも入口につかなければいい。
つないだ手を放したくなくて。
…まるでこの手が、あの夢の名残のようで。
ためらいがちに歩く千尋の背を染めていたあかね色の朝焼けは、急速に黒い雲に覆われて、
消えた。