ゆらぎ

視線を感じる。
蓬生は首をすくめた。自意識過剰ではないと思う。その証拠に、感じる視線は憧憬の眼差
しではなく、攻めるような挑むようなマイナスの気配をまとっている。
…また、榊くんやろか。
ここのところずっと丁々発止のやりとりを楽しんでいる相手の顔を思い出し、蓬生は薄く
笑った。大地とは、皮肉を言い合い、言葉の裏を探り合い、謎をかけ、嘲笑し、…時には
傷つける言葉も平気で交わし合う関係だが、不思議なことにそれを楽しいと感じる希有な
相手だ。
千秋とは違う、…他の誰とも違う、本心は見せないけれど、飾る必要もない相手。
…今日は、どんなことして遊ぼ?
内心でくすくす笑いながら、表面上は気難しい顔をして視線の主を振り返った蓬生は、
「…あれ」
思いがけない相手をそこに見て、思わず素の顔になってしまった。
「…如月くんやったん」
寮の食堂の壁にもたれてじっと蓬生を見ていた律は、呼びかけに応えてゆるりと一歩蓬生
に近づいた。
「誰だと思ったんだ?」
「いやあ…。…誰かしらん、きっつい目で見てるなあと思って、振り返ってんけど」
なぜ大地の名を出さないんだろう自分は、と自問自答しながら、空虚で穏やかな笑みを作
る。応じる律の瞳の険は消えない。
「…なあ?…なんでそんな、親の敵でも見るような目で俺のこと見るん?…俺、君に何か
した?」
律は眉をひそめ、ふいと目をそらした。
「俺には、別に」
「…には、ね」
その答えを聞いて、初めて蓬生はにやりと嗤った。毒を含むその笑みを、律は不機嫌な顔
で受け止める。
「…含みがあるんは榊くんのこと?」
「……」
律は答えない。否定ではなく、肯定の沈黙と見た。
蓬生はこめかみを人差し指で少し押さえて、んー、とうなる。
「なあ、でも。…榊くんのことを君が根に持つのはお門違いやと思わへん?」
「…君は、東金を侮辱した相手に心穏やかでいられるか?」
暗に部外者はだまっとき、と告げると、思いがけず素早く切り返された。…それくらいの
答えは用意しているということか。
「…そら、出来ん相談やなあ」
一応はそう言った蓬生だが、薄ら笑いは消えない。
「せやけど残念ながら、今の一言はちょっと的外れやわ。…俺は榊くんを侮辱してるつも
りはさらさらないし、榊くんの方も侮辱されてるとは思ってへんと思う。……ただ、言葉
遊びを楽しんでるだけや。榊くんは頭がいいから切り返しが楽しいわ」
「君はともかく、大地がそれを楽しんでいるとは、俺にはとても思えない。…これ以上、
大地をからかうのは謹んでくれ」
まっすぐなまっすぐな律の瞳を、どこかでうっとうしいと思う自分がいる。なぜうっとう
しいと思うのかをぼんやり意識して、ふと、蓬生は気付いた。
「…完全に榊くんの片思いやと思てたけど、そうでもないんやろか」
この綺麗な眼差しの主は、あの男の公然たる思い人だ。だが、一方的に焦がれているだけ
で、何の進展もない関係だと思っていた。
しかし、もしかしたら。彼らが互いに気付いていないだけで、相思相愛なのではないだろ
うか。
「…?…何をぶつぶつ言っているんだ、土岐」
一人言が聞き取れなかったらしい。けげんそうに問うてくる律を胡乱げに頬杖で見て、蓬
生は問い返してみた。
「なあ、如月くん。榊くんのこと、好き?」
「当たり前だ」
即答。揺らぎのない瞳。きれいなままの瞳。
蓬生はつと、吐息をもらした。
「…そうか。…ないんやね」
律の好きという気持ちには、何の揺らぎも欲もともなわない。純粋故に迷いがない。ただ
ただまっすぐな好意だ。
大地が律に思いを告げても、口づけても、…いやいっそ、その身体に強引に無体を強いた
としても、律のこの気持ちは揺らがないのだろう。揺らがないとはつまり、行為の意味が
律には伝わらないということでもある。
何があっても形を変えることのない愛。それを友情と呼ぶ人もいるだろうし、友愛と表現
する人もいるかもしれない。
けれどこれは。いっそ神の愛、…アガペーに近いのではないか、と思う。見返りを求めず
に等しく与えられる愛。それはつまり、焦がれる相手にしてみれば報われない愛というこ
とだ。
大地が律に抱く思いは、ただただ昇華されるばかりで、いつまでも遂げられることはない。
「…そうか」
せやから、なんかな。
意趣返しのように、大地が時折蓬生に仕掛けてくる、謎かけ遊びのような恋愛ごっこ。あ
れは、叶わない、叶えられない欲の、はけ口なのかもしれない。
「……」
蓬生はつと、吐息をもらした。
榊くん相手に本気になる気はないけど、いい気はせん、と思うのは、…図々しいやろか。
自分とて、大地をからかって憂さを晴らしている部分はある。
大地は遊びを遊びとわかっている。望むなら、セックスですら遊びの延長と割り切って相
手をしてくれるだろう。
近すぎて、近すぎて、これ以上近づけない、離れることも出来ない、行き止まりの思いを
抱く相手の代わりを、なにがしか大地に押しつけているのは自分も同じだ。
「……図々しいわなあ…」
「……土岐?」
突然物思いにふけり始めた蓬生を、律は黙ってしばらく見守っていたが、さすがに焦れて
か名を呼んだ。
「…ああ、ごめんな。ちょっとぼうっとしとった」
ほほえみかけても、この男には何の効き目もない。変わらぬ鋭い眼差しに、思わず苦笑が
わいて出た。
「…如月くんの気持ちはわかった。…でも、俺に注意するより先に、榊くんがほんまに俺
とのやりとりを嫌がってるか、聞いてみて?…顔も見たない、って即答するようやったら、
如月くんの言うとおり、これ以上榊くんにかまうのは止めるわ」
…せやけど。
「少しでも、答えに迷うようなら」
ぴり、と律の眉間が震えた。そんなことはありえない、と瞳が言っている。
…どんなにそばにおっても一生わからへんやろなあ、如月くんには。…榊くんの本音も、
本性も。
「俺との会話が負担かどうかを、もし榊くんが即答せぇへんのなら。……榊くんかて、俺
といるのを楽しいと思てる証拠や。……如月くんといるときみたいに、な?」
試みに付け加えた言葉に、律ははっと瞳を見開き、明らかに一瞬傷ついた顔になった。す
ぐにいつもの冷静さを取り戻したが、その一瞬の表情が蓬生の中に灼きつく。
……俺が如月くんにこんな顔をさせたと知ったら、……榊くんはどない思うやろ。
知りたいような、知るのが恐ろしいような。
「話がそれだけやったら、…退散させてもらうわ。…美人の怖い顔を見るのは趣味とちが
うんよ」
ゆるりと椅子から立ち上がり、蓬生はあえて律の側をかすめるように歩いて食堂を出て行
った。
視線は追ってこない。
蓬生は階段を上る足を止め、もう一度、吐息をもらす。
何故だか無性に、大地の匂いが恋しかった。