百合

薬草園で、時期が終わった株の手入れをしながら、那岐はずっと顔をしかめている。
…今日は一体、何なんだ。
宮の中に強い香りが満ちている。めまいがしそうだ。
「…これは」
この匂いは、…………血?
「那岐」
不意に声をかけられ、那岐は飛び上がった。
「…忍人…っ」
「驚かせたか。…すまない。足音を潜めてきたつもりはなかったが」
口元に笑みをのぞかせつつも、案じ顔で眉をひそめて忍人は言った。
「…ごめん。ちょっとぼうっとしてた。…何だろうね、今日は宮中、ずいぶん香りが強い
ようで」
「ああ、…これだな、恐らく」
忍人は笹百合の花を差し出した。那岐は、その薄く桃色に色づいた白い花を見て、息を小
さく吐きながらつぶやく。
「……そっか。…百合か」
「縁起物だ。身につけておくといい」
「…縁起物?」
いぶかしげに見上げると、そうか、君は知らないか、とつぶやいて、忍人は那岐の隣に腰
を落とした。話し込む体勢だが、いいのだろうか。
「忍人、仕事は?」
「今日は、部下達が百合配りに駆り出されているんだ。俺は宮へ運んでくる指揮は執った
が、配るのは君の分を預かってきただけだから、今日の仕事はこれで終わりだ」
「忍人の部下全員が駆り出されてるわけ…?」
どんな大仰さだよ、と那岐はぽかんと口を開ける。その顔がおかしかったのか、忍人は珍
しくはっきりと笑った。
「狭井君の郷の社ではこの時期、三輪山で笹百合を摘んで乙女が神に百合の舞を奉納する。
捧げられた百合は祭りの後でさがりものとして配られるんだ。一年の無病息災の守りとな
るそうだ」
忍人は少し言葉を切り、空を見上げた。今日は曇天で少し蒸し暑い。
「この時期は長雨の後で暑くなる。体力を消耗し、病を得る者も少なくない。今、橿原周
辺は荒廃しているから、流行病も恐ろしい。だが、姫が即位したばかりのこの時期に、そ
のような災いを呼び込むわけにはいかない。だから、本来は祭りに参加した者だけに配ら
れる百合を、狭井君が特別に、宮で働く者たちや近在の郷の民にも行き届くようにと宮に
運ばせ、配らせている。おかげで、兵が総出なんだ」
口では困ったものだと言いながら、忍人はたいして困った顔もしていない。厳しい訓練ば
かりでは士気が下がりがちだ。こういう仕事は兵達の気分転換になってちょうどいい、く
らいに思っているらしい。
「…百合を奉納する祭り、ね。…初めて聞いた」
那岐は百合を手にしたまま立ち上がり、うん、と伸びをして体をほぐした。忍人もつられ
るようにして腰を上げ、自分の百合を腰帯に挿してから改めて、静かな瞳で那岐の顔をの
ぞき込む。
「ところで」
「…?」
「…君がすっきりしない顔をしているのは、何故だ」
「……」
那岐は一瞬言葉に詰まった。
「別に……。…ただちょっと、匂いがきつくて」
「…匂い」
そういえば、先刻も香りがどうとか言っていたな。
案じ顔で忍人は腕を組む。
「百合の香りは好まないか」
「いや、…百合の香りそのものが嫌いなわけじゃない。ただ、今日みたいにあんまり匂い
が集まりすぎて濃くなると」
その先を言おうかどうか一瞬逡巡して、…目の前の忍人の全てを見通すような瞳に、隠し
通すことはとうてい出来ないと那岐はあきらめる。
「…血の匂いと錯覚する」
「……」
忍人の眉間にしわが増えた。
「普通、そういう錯覚はあまりしない」
「そうだね」
「つまり、何かあったわけだな。那岐が、百合の花の匂いと血の匂いを混同するような事
件が」
「……」
那岐はまっすぐに忍人を見た。忍人は静かに那岐の言葉を待っている。
「…あまり気持ちのいい話じゃないけど、…聞く?」
「ああ」
即答されて、那岐は少し目を見開いた。
「…珍しいね」
「何が?」
「僕が迷っているときはいつも、君が嫌でないならって言うのに、忍人」
虚を突かれた顔で、忍人は数度瞬く。だがすぐに、あごをひくようにしてうなずいた。
「…なんとなく、この話は聞いておきたい気がする。たとえ君が不快でも」
かすかに眉をひそめているのは遠慮だろうか。那岐は肩をすくめて、大丈夫だよ、と小さ
く笑った。
「もう昔の話だから、今ならちゃんと話せると思う」
どこから話したものかなと首をかしげながら、…ゆるゆると那岐は言葉を紡ぎ始めた。
「忍人は、僕の師匠を知ってるよね」
答えを必要としない形而上的な問いだ。だから忍人の答えを那岐は待たない。
「師匠は四道将軍としての地位を追われてからも、時々傭兵のような形で戦場へ出向いて
いた。師匠は得難い戦士だったからだろう」
那岐の息継ぎの合間に、うん、と忍人がうなずく。
「…戦場では、どんなに強い戦士でも、血の匂いと無縁ではいられない。自分の身が刃で
傷つくこともあるだろうし、相手の返り血を浴びることもある。だから師匠は、戦の後必
ず水を浴びて、さっぱりと血を洗い落として帰ってきていた」
今だから思うんだけど。
「それは、そのときまだ小さかった僕への、師匠なりの配慮だったんだろう。でもその頃
の僕はそうは思わなかった。師匠が必死になって消して帰ってくる、そのほんのわずかに
残る血の匂いをかぎ分けて……ほら僕も、狗奴の師匠といたおかげで匂いには敏感だった
からね……ああ、師匠はきっと、この匂いがとても嫌いなんだなって、ずっとそう思いこ
んでた。……だからあの日」
それまで、記憶を探るようにゆっくりとではあったが、途切れずに話し続けていた那岐が、
不意に口をつぐんだ。…ただそれだけで、あの日、というのが何の日を指すのかが察せら
れて、忍人は身を固くする。
沈黙を押し分けるように、那岐の唇が重く動く。
「師匠が、…血まみれのまま運び込まれた日」
激しい戦で、那岐の師匠は命を落とした。本来ならそのまま捨て置かれかねないところを
救ったのは岩長姫で、狗奴の兵達の手で遺体を庵へ運んだのも彼女なりの心づくしだった。
だが、間断ない戦の最中、兵達に遺体を清める暇などあろうはずもない。血まみれの体を、
那岐は何度も泉から水を汲んできて清めた。
だが血の匂いは消えない。
「匂いに敏感だった、血の匂いを嫌っていた師匠から、血の匂いが消えないのが申し訳な
くて、たまらなくて」
ちょうど、夏だった。山は、百合が盛りだった。
「ありったけの百合を摘んできて、庵を満たした。いっぱい、いっぱい、いっぱい、摘ん
だ。師匠が血の匂いじゃなく、花の香りとともに黄泉路をたどれるようにと」
けれど、むっとするほどの百合の香りの底の方から、じわりと血が匂う。どんなに百合を
摘んで重ねても、ほんのわずかな血なまぐささがどうしても消えない。
那岐は泣いた。どうしようもなくて、そのどうしようもなさに泣いた。
…師匠を百合と共に土に返して、血の匂いは庵から消えたが、今度は百合の香りが庵に残
った。それはかぐわしい花の香りのはずなのに、那岐にとってはもはや、血の匂いと同義
だった。
「だから」
那岐は手の中の百合をじっと見た。
「時々、…錯覚をする」
「……」
「この匂いが、血のように思える」
「……」
「……」
押し黙る忍人に一歩近づき、那岐はそっとその肩に触れた。
「大丈夫だよ。…心配しないで、忍人。僕にとってはそれが一番強い思い出で、辛かった
ことも確かだけど、いつまでもその頃の僕じゃない」
僕は生きている。
「これからもっとずっと、師匠の年を越えて生きるつもりなんだ。そうやって生きていく
間に、僕はきっと、もっといろんな百合の思い出を作るだろう。君が今持ってきてくれた
縁起物の百合、まだ見たことがない神に捧げる百合の舞…」
知らないことは、たくさんあるんだ。
「思い出が増える中で、きっと匂いは痛みとともに薄れていく。…そうなるはずだと信じ
ているから」
那岐は手にした百合で忍人の唇に触れた。…手首を返して、彼の唇が触れた花弁を自らの
唇でくわえちぎり、艶然と笑む。
「美しい百合の思い出を、僕はこれから増やすよ。…協力してくれるよね、忍人」
那岐が口を開くと、唇から百合の花弁がひらりと落ちた。ゆるりとした軌跡を忍人は目で
追ってうつむき、花弁が地面に落ちたのを見届けてからもう一度那岐に視線を合わせる。
「…ああ。…俺が助けられることなら」
「…ありがとう」
那岐は忍人を抱き寄せた。忍人は無言で那岐の背に手を回す。忍人の肩口に顔を埋めると、
たくさんの百合を運んだからだろうか、ひやりとした忍人の髪からも百合が香って、那岐
を静かに微笑ませた。

…忍人。君がいるだけで、僕の世界はすべてうつくしくなる。