百合の枷

たたらは嫌いだ。
那岐はつぶやく。
たたらには高熱が必要となる。だから多くの木を切り、燃やす。豊かな森でもあっという
間に燃料として切り尽くされ、後にははげ山だけが残る。
そのことで失われるのは木々だけではないのだ。木がなくなれば土は雨で流れやすくなる
し、落ち葉という栄養を得られない大地はやせる。やせた土には、荒れ地でも育つような
草しか生えない。その草を栄養として生きられる生き物は少ない。必然的に小さな生き物
が減り、その小さな生き物を食べる大きな生き物もいなくなる。
…だから那岐は、たたらが嫌いだ。
天鳥船が停泊した場所からほど近い場所にたたら場があることは、那岐は早くから気付い
ていた。那岐の嫌いな、溶ける鉄のにおいがぷんぷんするからだ。
後から聞いた話では、そのたたら場は神の磐座を遷座してまで作ったものなのだという。
怖いもの知らずにもほどがある、と那岐は思った。

千尋たちは、出雲の祭りが行われる日を待っている。毎日昼寝をするのにも飽きて、那岐
はふらりと散歩に出た。あたりを散策するついでに、鬼道に使えるような木が見つかれば
いいと思った。
船の周りにないことはもう確認済みだ。
そこからしばらく行くと、たたらのにおいがしてくる。たたらの近くに使えるような木が
あるわけがない。
那岐はたたらのにおいを避け、切り株だけが残る無惨な森も、目をつぶって通り過ぎる。
ただ闇雲に歩いていると、不意に深い森のにおいがした。
「…!」
那岐の目の前に、鬱蒼とした森が広がった。
「なんで」
その少し前までは、もうほとんど木々のない森や林、それに木々の生えないらしい高台だ
ったのが、そこだけいきなり深い森なのだ。
「なんで」
もう一度つぶやいて、那岐ははっとした。
「…忌み地か」
忌まれた場所。あるいは祟る場所。ここの木を一本でも切り出して、祟られた人間でもい
たら、人はそこに手を出さなくなる。神の磐座を遷すことを恐れなかった人々でも、自ら
の死は恐ろしいに違いないから。
だがこの森から漂うのは、とても清浄な気だ。
古い、長く生きた木のにおいがする。
「…忌み地でもかまうもんか」
那岐はずんずんと歩を進めた。

思った通り、ここはとても古い森だった。力を持つ木がたくさん生きている。那岐はかす
かな呪文を唱えながら、いくつかの木の力を、小枝や葉という形で借りた。これだけあれ
ばしばらくはいいだろう、これ以上力を借りるのは申し訳ない、と思い始めた頃、ふと、
周囲の空気にむせかえるような甘いにおいが漂い始めた。
「…?」
知っているにおいだが、…いったい何のにおいだったか。
においの漂ってくる方へ足を進めると、少しずつ地面が下っているのがわかる。
谷間か?と思ったとき、不意に木々が途切れて視界が開けた。
「…うわ」
そこは一面の、笹百合の群生だった。
第一印象は真っ白な野原。けれど、笹百合の花弁の裏側にうっすらとはかれたうす桃色の
ため、じっと見ていると全体としては淡い桃色に見えてくる。
百合を一もと手折って持って帰ろうか。
千尋が喜ぶだろうか。
…そう思ったとき、…何故自分がこのにおいを知っているのか、那岐は思い出した。
あの日。千尋が黒雷に連れて行かれた日。戻ってきた彼女からこの香りがした。
帰ってきた彼女が曖昧に笑ってそっと後ろ手に回した片手には、…きっとこの花が握られ
ていたに違いない。
「……ちぇ」
だとすると、なんだかこの花を持ち帰るのもしゃくだ。
那岐はふ、と小さく息を吐いて、ごろんと笹百合の中に寝転がった。
においがいっそうきつくなる。
強すぎて、なんだか頭の芯がぼうっとしてくるようだ。
目を閉じて、少しその感覚に身を任せようとしたときだった。
ぱき、と小枝を折るかすかな足音で、那岐はびくりと身を震わせた。
……誰か、近づいてくる。
敵意は感じない。だが、相手も何かを探しているのか、警戒しているのか、気配を殺し、
緊張しているのが感じ取れる。
那岐は御統を取り出して、もしやに備えた。
その人物は森を出て、笹百合の谷間に足を踏み入れたようだ。音を殺すように心がけて草
をかき分け近づいてくるひそやかな足音が聞こえて、もうあと少し、というところでふと
彼は立ち止まり。
「……なんだ」
呆れた声を出した。
その声に、那岐も、なんだ、と思った。
「…忍人?」
起き上がって見上げると、呆れた顔をした将軍が少し離れたところから那岐を見下ろして
いた。その手が片方だけ破魂刀の柄にかかっていたが、す、と彼は手を放し、だらりと体
の脇に下ろした。
「こんなところで寝ているな。…誰かと思うじゃないか」
「忍人こそ、足音を殺して近づいてくるなよ。何かと思うじゃないか。…というか、…何
してんの?」
「こちらの台詞だ」
苦虫を噛み潰したような顔で言って、忍人はもう足音を殺すこともせずにずかずかと那岐
に近づいてきて、その傍らに、少し乱暴に腰を下ろした。
「僕は、鬼道に使うものを集めていたら迷い込んだだけだよ。あんたこそ」
何人か引き連れているなら、訓練の一端かとも思うが、一人で将軍がこんなところに何の
用があるというのか。
「…人捜しだ」
「…人捜し?」
機嫌の悪そうな忍人の眉間に、一つしわが増えた。
「船内に柊が見あたらない。…以前見あたらなかったときにここにいたので、ここかと」
「……あ、そう」
それで忍人の機嫌が何となく悪いのか。
「…でも、なんで柊もこんなところに?」
彼も少しは鬼道を使うが、那岐のようには頻繁に使っていないから、木々の力を借りる必
要があるとも思えないが。
「あいつは忌み地だとか禁足地だとかいうところが死ぬほど好きなんだ。…だから来る。
それだけだろう」
「ああ、…やっぱりここ、忌み地なのか」
那岐はぐるりを見回した。
「荒らされていないから、そうだろうとは思ったけど。…でもどうして?」
「ここは最初の龍神の神子が、龍神と契約を交わした場所だそうだ。だから初めは忌み地
と言うより禁足地だったのだろうが、…年月を経れば、伝承も曲がって伝わる」
「……ふうん」
この場所からは、人を拒絶する気配はちっとも感じないのに。
こんなにきれいな場所なのに。
「…まあでも、普通の人たちが怯えて恐れているおかげで力のある木が生き残っているわ
けだから。僕としてはありがたいけど」
那岐がぽえんとつぶやくと、むすっとしていた忍人が、少しだけ表情をゆるめた。
「君らしい考え方だ」
「どうも」
さて、とつぶやいて忍人は立ち上がった。
「忍人?」
「ここにいないなら、火神岳の方だろう。一応行ってみる」
「…柊?」
「ああ」
那岐は、がしがしと頭をかいた。
「…あのさあ。一度聞きたかったんだけど。この際だから聞いてもいい?」
「…何か?」
「忍人さ。普段あれだけ柊を毛嫌いして文句ばっかり言ってるくせに、なんでいなくなる
と決まって探すの?」
「…」
忍人は少し目を伏せた。
「いなくなったのが千尋や足往ならわかるよ。道臣や夕霧も探すかな。場合によっては布
都彦も。…でも柊は、かかる火の粉なら自分で払えるだろうし、一人で出歩くときはその
覚悟だってしているだろう。どうせ放っておけば戻ってくるのに、どうして探すんだ?」
忍人自身、いつでも柊を刀の錆にしてくれる、くらいの態度でいるじゃないか。なのにど
うして。
忍人は唇をかんで。少し言いあぐねている様子で。…それでもややあってぼそりと呟いた。
「…戻ってくるとは限らない」
「…?」
「羽張彦……布都彦の兄も、風早も柊も、…俺の知らない間にいつの間にかいなくなって、
そのまま何年も戻ってこなかった。…羽張彦はまだ戻ってこない。…おそらくもう永遠に
戻ってこないのだろう」
忍人は目を強く閉じている。引き結ばれた唇は白い。
「目の前でいなくなってくれるならいい。それがたとえ死という形であっても。だが、俺
の知らないところでいつの間にか消えられることだけは、…俺は我慢がならないんだ」
忍人らしくない、と那岐は思った。こんなふうに何かにこだわるのは忍人らしくない。
けれど。
那岐はなぜか師匠を思い出した。…胸の深いところがちくりと痛む。
自分が師匠に対してずっと持っている、申し訳なさややりきれない思い。…これも、何も
知らぬ他人から見れば、らしくないこだわりにちがいない。
他人にはわからない。けれど、自分をずっと縛り続ける思い。
「……そっか。…それが忍人のトラウマか」
「…とらうま?」
「…そうだな、…あんたの言葉で言うなら、枷?…か、業?」
忍人は、ふと表情を失った。虚を突かれたかのように。
「…ああ。…そうかもしれない」
憑き物が落ちたような顔で、忍人は再び那岐の傍らに腰を下ろす。片膝を抱えるその座り
方は、子供を思わせた。
でも、と那岐は思う。
僕だったら。
今から行ってしまうよと宣言していなくなることができるだろうか?
いや、僕だってきっと。
「…でもさ、忍人。…僕も、いなくなるときはたぶん、黙って、誰にも言わずに、誰にも
見られずに消えるよ」
「……」
忍人は顔を上げた。
「……」
じっと那岐を見て、しばらく黙りこくって。
「…わかった」
やがて一言そう言った。
「わかったって、何が」
「俺の探す人間が一人増えた。…柊と、君だ」
那岐は眉を上げた。
「探してほしいと言ってるんじゃない。逆だ。探されたくない人間もいる」
「わかっている。君たちは探されたくないだろう。…だが、俺は探したい」
忍人は百合を一輪手折った。
す、と片手の中にその花を隠して。
「黙って消えたいのは君の願いで、探したいと思うのは俺の業だ」
言いながら、もう一つの手で隠した百合を取り出す。
「重なり合わなくてもやむを得ない」
「……」
那岐はため息をつこうとして、…やめた。
頑固なのはお互い様なのだ、たぶん。
「…僕も、わかった」
「何が」
「もし僕が消えるときは、忍人にだけは消えるよって言いに行くよ。…でないと、地の果
てまで追いかけてこられそうだ」
ルパン三世と銭形警部みたいだなー、とつぶやくと、なんだそれは、とぼそりと忍人が言
った。彼が知るよしもない単語だ。那岐はふっと笑う。
「その代わり、僕が消えると聞いても、千尋や風早には内緒に出来る?」
「君がそう願うなら。…しかし」
忍人はかすかに不安げな様子で那岐をまじまじと見た。
「…まるでその予定があるような言い方だな」
「ないよ、今のところそんな予定。…これからもなければいいと思ってる。…でも全くな
いとは言い切れない。君も知っているだろう。僕は忌み子だ」
千尋が宮の中枢に近づけば近づくほど、…僕の存在をよしとしないものも増えてくるだろ
うと思う。
「僕が消えた方がいい場合もあるかもしれない」
「那岐、そんなものはない」
「なければいい。だから、かもしれない、と言ってる」
「那岐」
「…約束するよ、忍人。絶対、あんたには正直に言う。…だから、僕が消えたら千尋には
うまく言ってよね。…あんたが探している振りをしてよね。そしたら千尋は信じるに違い
ないんだ」
忍人が探して見つからないなら、と、思ってくれるに違いないんだ。
忍人はしかし、眉を寄せて首を横に振った。
「一応約束するが、…あてにはするな」
「どうして」
「俺がどう言おうと、姫は探すだろう。…そんな気がする」
君と風早は、彼女にとって一番最初の、そしてもっとも信頼できる仲間だから。
「俺にとっての兄弟子たちと同じように、…消えられて一番納得できない相手だから」
俺がなんと言おうと、彼女は探すだろう。
「消えるときには、地の果てまで二ノ姫に追われる覚悟で行ってくれ」
「…怖いこと言うなよ」
「もともと君が言ったんだろう」
忍人は涼しい顔でそう言って笑う。
「それはそうだけどさ」
那岐がそう言ったとたん、忍人が緊張する気配がした。どうした、と言いかけて、那岐も
ぴりりと神経を張り詰める。
…誰かがこちらに近づいてくる。
二人で、気配を取った方をはっと振り向くと。
…眼帯の男が驚いた顔でずかずかと百合の原へ入り込んでくるところだった。
「…一緒にいたのですか」
「…は?」
例によって、柊の顔を見たとたん忍人が不機嫌になってしまったので、探してたくせに、
と思いつつ那岐がやりとりを担当する。
「船に戻ったら、もうそろそろ夕食の支度をするのに忍人も那岐も船内のどこにもいない
と言って、我が君が大騒ぎしておられましたよ」
はた、と那岐と忍人は顔を見合わせて、空を見上げた。
日没が遅いので気付かなかったが、なるほど、そろそろ西の空は暮れ方の色になりかかっ
ている。
「…ミイラ取りがミイラ」
「は?」
ぼそりと言った那岐の言葉に、忍人もぼそりと聞き返してきた。
「死体を探しに行った奴が死体で見つかるって諺」
「…この場合に全くふさわしい一言だな」
「なにを相談しているんですか、二人で」
「千尋にどう言い訳するか考えてたんだよ。…帰る」
那岐が言う前に、忍人は歩き出している。おやおや、と肩をすくめて柊もきびすを返し、
ぼそり、と忍人に何か言った。
とたん、猛烈なけりが柊のすねを襲い、まともにくらった柊はその場にうずくまってしま
った。将軍はそのまま森の中へ消える。…仕方なく、那岐は柊の腕を取って立たせてやっ
た。
「…何言ったの、あんた」
「私を探しに来てくれたんでしょう、と聞いただけですよ」
……そりゃ、忍人は怒るだろう。というか。
「怒られるってわかってて、なんでそんなこと聞くのさ」
「確認したいじゃないですか、愛を」
「………」
那岐は額を押さえて、はあ、とため息をついた。
「ゆがんだ愛情…」
「君のように忍人に心を許してもらえるなら、私だってこんな愛情表現はしません」
嗚呼、と慨嘆する様子にあきれ果てる。
「…言ってろよ。…先に行くよ」
那岐はもう一つため息をついて歩き出した。
…そしてふと思う。
…そうか、忍人は自分には心を許してくれているのか、と。
………それはとてもうれしいことに思えて。
ゆるりと那岐の頬に微笑みがのぼった。