許し


床の上に一巻の竹簡を広げ、その前に座り込んで、柊は薄れかかっている文字を睨み付け
ていた。
寒の最中ではあるが、昼の日差しは穏やかに暖かく、書庫の西の窓から柔らかく曲がりな
がら入り込む。
「柊、いるか」
声をかけるのと、忍人が顔を覗かせるのは同時だった。書庫の中を見た忍人は、かすかに
眉を上げる。
「…何をしている。床の上に座り込んで」
「見ての通りですよ。竹簡を読んでいました。…狭井君からの預かりものですが、非常に
難解な詩文でしてね。骨が折れます」
忍人は、おや、という顔をした。…どこかうれしそうな「おや」だ。
「柊にも読めないのか?」
「表面上は読み下せるんですがね。たぶんそれだけではないはずなんです。この文章には
何か裏の意味があるはずだ。…でなければ、星の一族が一族から外へ出す人間にわざわざ
持たせるはずはない」
さらりと言った言葉。忍人が聞き流せばいいがと思ったが、聡い忍人はやはり聞き逃しは
しなかった。
「…星の一族が、一族から外へ出す人間…?」
柊は肩をすくめた。
「星の一族は血族のつながりを大事にし、一族の中で閉じこもりがちです。ですから、あ
まり一族の者を外に出すことはしません。…が、事情があるときは別です。たとえば大き
な事件があると予見されたとき。たとえば一族しか住まない里にいるよりも、人々と交わ
って暮らした方がふさわしいと思われたとき。前者の例が私で、…後者が恐らくこの竹簡
の持ち主だ」
「星の一族の人間が柊以外にいるとは聞いたことがないが、…狭井君のゆかりの方か?宮
にも出仕せず、この戦にもかかわらず、どこかに…?……いや」
忍人はふと、考え込むそぶりで額に手を当てた。…考え込む瞳は焦点が曖昧になる。…だ
がやがて、ふ…っと、また、瞳は焦点を取り戻した。
「…もしや」
顔を上げる。柊を見る。…その視線に応えて、柊はうっすらと笑った。
「…あなたが今思いついたこと、…それが何かは問いますまい。世の中には、聞かぬ方が
よいこと、知らぬ方がよいことがあります。あなたに問われれば、私も答えざるを得なく
なる。……互いのために、やめておきましょう」
忍人はゆっくりと腕を組んだ。
「それは、秘されねばならぬことなのか?」
「そういうわけではありませんが、…ご本人の口からなら伝えるならともかく、私が勝手
に教えるのはどうかと思いますので。…あまり、大勢が知ることでもありませんしね。ず
っと、一族のことを言わずにおられたらしい」
「……」
「…とはいえ、狭井君が私に読み解けとこの竹簡を手渡されたということは、ある程度そ
の秘密が広まることは覚悟の上だと思います。私だとて、内容如何によっては陛下に報告
をあげねばなりませんからね。…その席には、あなたも同席するといい。陛下の側近とし
て、聞く権利はあります」
「……」
忍人は考え込んで、…ゆるゆると口を開いた。
「ずっと昔から持っておられた竹簡なのだろうか」
「おそらくね。…見ての通り、ずいぶん古ぼけた竹簡ですし、星の一族は姿をくらまして
久しいですから」
「…それが、何故今なんだ」
「私に聞かないでください」
柊は苦笑した。
「そもそも私は、単にこの竹簡を読み解けと言われただけです。先生から生徒へのただの
課題、不肖の弟子をもっと鍛える…ただそれだけの意味しかないのかもしれません。……
いや、そうでなければならない」
柊の瞳がふと震えた。
「万が一にもこれが、…何かの前触れであってほしくはない」
「…」
忍人は小さく息を呑みそうになってこらえた。
「…正直に告白しましょうか、忍人。…私は怖いのです。この竹簡を読み解いてしまうこ
とが。…この竹簡はもしかしたら、あの方の人生を示したものかもしれません。…であれ
ばもしかしたら、この詩文の中に、あの方の最後の時が書かれているのではないかと、…
…ふとそんな疑いを抱いてしまって」
柊は目を伏せた。
「もし本当にそうなら、…私が読み解けと言われているものは、あの方の死期ではないか
と」
「…柊」
「そうではないはずです。…そうではない、と、心を落ち着けようとするのですが、……
ままならない」
顔を上げ、薄く笑う。その笑顔は明らかに疲弊していた。
「…おかしなものです。…私はあの方が苦手でした。…ひどく苦手でした。一筋縄ではい
かない、交渉相手としては油断ならぬ相手だと。……ですが」
ふう、とため息をついて。
「それと同じくらい、私はあの方が好きなのです。…教師としても、宮を率いる重鎮とし
ても、あの方の力は信用できる。確かに、頑固で融通が利かない方ではあります。けれど
そういうところも含めて、私はあの方が好きなのです。…万が一、等と、……考えたくあ
りません」
「……」
忍人は、柊の告白を聞いて、はっきりとため息をついてみせた。…そしておもむろに、柊
の眼前で手をひらひらと振ってみせる。
「……?…忍人?」
「万が一を考えたくない。…そういうなら、まずは己のその目を晴らせ。…今のお前の目
は曇っている」
「……っ」
「疑いと恐れに霞んでいる。だから、読めるものも読めないんだ」
「……」
「疑念は捨てろ。さらの瞳で竹簡を読め。……お前が読み解かねばならぬ真実は、そうす
ることでしか見えてこない」
「……忍人」
柊の声はややかすれていた。…聞いた忍人は、にやりと笑う。
「腹が減っているのではないか。声に力がないぞ」
「……それは」
「陛下がお前を呼んでいる。ずっと書庫にこもっているようだから、引っ張ってきて昼食
を一緒にとのことだった。…一旦竹簡を片付けて、俺と共に行こう。腹をくちくして、気
持ちを穏やかにして、…それからもう一度竹簡に当たれ。…きっと、ちがうものが見えて
くる」
「…忍人」
「行こう」
床に座り込んでいる柊を助け起こそうとするかのように差し出される手に、柊は思わずす
がっていた。
「あなたは時々、…いいことを言う」
「…時々か」
むっつりととがらされた唇は、子供の頃師君の屋敷で、チャトランガで柊が彼をさんざん
打ち負かされたとき見せたのと同じ形で、じわり、腹の底をくすぐられるようにおかしく
なる。
…そうだ、あの頃もしょっちゅう狭井君には宿題を出された。異国からの文書、土蜘蛛の
秘法だという薬の製法。……この竹簡も、それと同じだ。ただの宿題に過ぎないのだ。

−…時々いいことを言う、などと、言ってはみたけれど。

柊は、書庫を出て前を行く忍人の背中を見ながらこっそりつぶやいた。

−あなたの言葉は、私には常に、許しです。

本人には決して言わない言葉を凪いだ心に飲み込んで、柊は微笑みながら忍人の後を追っ
た。