夕時雨 ほんの少しだけ開けた窓から、かすかに風が入ってきた。ふと律が顔を上げ、つぶやく。 「雨が降るな」 机を挟んだ向かい側でパートごとの練習スケジュールと場所を調整していた大地も、その 律の声に顔を上げる。 「…ああ、そういえば、今日の夕方からしぐれてくるって天気予報で…」 何気なく相づちを打ってから、大地は眉をひそめた。 「…律」 「何だ?」 「腕が痛むのか?」 「いや」 即座に否定してから、何故大地がそんなことを言い出したのか、おぼろげながら勘づいた らしい。 「祖母の神経痛じゃあるまいし」 笑う律を見て大地も苦笑を浮かべたが、目にはまだ不安の陰を残している。律はその瞳に 安心させるようにもう一度笑いかけ、ちがう、と首を横に振った。 「雨の匂いがするんだ。予兆みたいに。湿った土と木の皮みたいな匂い。…山育ちだから な、肌で覚えてる」 「…律のその見た目で、山育ちとか言われても、違和感があるけどね」 …と、こちらは完全に都会っ子の大地が首をすくめる。 「そうか?これでも、純粋培養の野生児だと自分では思ってるんだが。何しろ、子供の頃 の遊び場は、夏は川で、春と秋は山だった。…冬だけは、雪がひどいから家にこもったが」 それだけ聞くと確かにどこの腕白坊主だという感じだが、そこからこう続くのがやはり律 で。 「ヴァイオリンも、よく外で弾いた。雑木林の中にぽっかり円形のホールのように木のな い場所があって、そこで弾くのが好きだった。幼なじみや弟とコンサートごっこをしたり、 自分一人で独演会を気取ったり」 律は思い出す風情で少し遠くを見る。 「だが、山の天気は変わりやすい。うっかり夢中になって弾いていて雨に降られて、ヴァ イオリンは死守したが、ケースを濡らしたことは何度もある。失敗を重ねて経験則を身に つけた。だから、雨の予報にはちょっと自信がある」 「…ずいぶん自慢げだな、律」 大地はようやく晴れ晴れと笑った。 「山の中の独演会か。…俺も聞いてみたかったな」 「聞かせるようなものじゃない」 律は目を伏せた。 「俺が如何に井の中の蛙だったかという話だ。ライバルの存在に気づきもせず、ずっとそ の場所に安寧として」 ふと息を吐いて。 「もっと早くにここへ出てくるべきだった」 「…そうかな」 律の後悔に応える大地の言葉には、不思議な含みがある。 「知ってるかい、律。…井の中の蛙、大海を知らず。…その後にこう続ける人もいるんだ。 されと天の高さを知る」 「……」 「負けず嫌いの付け足しだ、本来のことわざが意味をなさなくなるって、けなす人も多い けどね。ことわざじゃなく言葉として、いいなと思う。律の音は、ライバルにもまれ、汲 々として技を磨いたヴァイオリンとはどこか違う。たった一人で空へ空へと昇りつめてい ったような、求道の音だ。……俺は好きだよ」 律ははっと目を見はって、…囁くように低く問うた。 「…今も?」 大地は静かにうなずく。 「……今も」 律は眉をひそめて笑った。ゆるゆると何度も首を横に振って。 「…嘘つきだな、大地」 「嘘なんかじゃ」 言いかけた大地をさえぎって、律は鋭く指摘した。 「俺の音は、去年とは違うだろう?」 「ああ、そうだ。違ってる」 律の指摘をきっぱりと肯定して、それでも、と唇をかみ、 「…それでもやっぱりお前の音は、…空を目指す音だ」 淡々と冷静に事実を並べる裁判官のように、大地は言う。 「好きだよ、律。…今までも、これからも。変わっていくお前の音もずっと、好きだ」 静かな声なのに気圧されて言葉が出ない。大地の言葉は呪縛のように強く重く律の中に沈 み込む。それは甘く、けれど何かをはらんで。 ……今の律には読み解けない、謎のような何かをはらんで。 ………と。 はらり。 音がした。 さあっと、水分を含んだ風が室内に吹き込んでくる。 「…ああ、…降って来ちゃったな」 律の言うとおりだ。そうつぶやく静かな大地の声には、もう先ほどまでのような呪力はな く、ただ穏やかで優しい。部屋の中に吹き込むと良くないなと、大地は身軽に立っていっ て窓を閉めた。ガラス窓に当たって、雨がぱらぱらと音を立てる。その音になだめられて、 律はゆるりと息を吐いた。 「…大地は俺に甘すぎる」 唐突な律の言葉に、大地はふっと笑ったようだった。だが直接は何も答えず、ただ、雨が ひどくなる前にさっさと片付けて帰ろうよと促して、再び律の前に座る。律に促すだけで なく、自身もうつむいて、黙々と書く作業に没頭する。 大地のスタイルを真似るように、律もうつむいて書類に再度目を通し始めた。 時雨は少し降りを穏やかにしたようだ。あるいは風向きが変わったのか、窓に当たらなく なり、雨音がしなくなった。 音がなくなると、律の耳に大地の声がよみがえる。 好きだよ、律。 簡単に言っていい言葉じゃない。それくらいは律にもわかる。大地が心安くこの言葉を使 っているとも思えなかった。 今までもこれからも。変わっていくお前の音もずっと、好きだ。 その言葉が含むものは、今の自分には見えない。時雨の先にある立木が雨にけぶってかす むように、そこにあることはわかるのに、くっきりと目にすることは出来ない。 けれどいつかこの時雨がやめば。 …いつか、そのときには。 ……律を嘲うように、雨音がまた激しくなった。 今はまだ夕時雨の中、彼の人の言葉を追うばかり。