舞踏への招待

星奏の文化祭の恒例行事といえば、後夜祭のダンスパーティーだ。何しろ一年生向けにワ
ルツの講習会が開かれるほどで、男子生徒はともかく女の子達には憧れの大イベント、な
のだった。
しかしその憧れのイベントも、オケ部の一、二年生にはあまり関係ない。いや、関係は非
常にあるのだが、踊る方には全く関係がない。
なぜなら、そのダンスパーティーでたくさんのワルツを演奏するのはオケ部の弦楽器パー
トの一、二年生だからだ。
律のように飛び抜けた能力を持ち、夏のコンクールからステージに参加できる一年生もい
るが、ほとんどの一年生にとっては、このダンスパーティーが初の大舞台だ。もちろん文
化祭のステージコンサートも初舞台だが、弦の一年生にとっては、断然こちらの方が比重
が高い。何しろ、ステージコンサートは管楽器パートもいるし、三年生も引退コンサート
をかねて参加するが、ダンスパーティーの演奏は弦楽器のみ、参加は一、二年生だけ、し
かも曲目が「これでもか!」というくらいに多い。おまけに。
「譜面が全部似てる…」
パート練習の最中にうっかりもれた大地のつぶやきを、周りにいた二年生がどっと笑った。
「確かに」
「まあ、ワルツの時のヴィオラはたいてい、延々とぶんちゃっちゃをやってるだけだから
なあ」
「似てはいるけど、うっかり間違えたりずれたりするとすごく目立つわよ。…気を抜かな
いで練習して」
ざわつきだした雰囲気を、引退する三年生に代わってパートリーダーに就任する二年生が、
半ば気の毒そうに、それでもきっちりと締めた。うう、はい、とうなりながらの返答に、
またくすくす笑いがもれる。…おとなしい性格のメンバーが多いヴィオラの中では、大地
はムードメーカーだ。脱線はしすぎないと知っているので、先輩達も多少のことはとがめ
ない。
「まあでも、ワルツの講習会は、気にせず練習を抜けてかまわないわよ」
「え、どうしてですか?」
大地の隣で同じ一年生の女の子が首をかしげた。
「オケ部の弦楽器をやってると一、二年はダンスに参加できないけど、三年生になったら
参加できるでしょう?そのときになって一年生対象の講習会に参加するのはちょっと入り
にくかったりするから、今のうちに習っておくの。例年みんなそうしてるわ」
「でも榊は曲を仕上げてからにしてくれよ」
「あ、俺は行きませんよ」
二年生の軽いからかいに、けろりと大地は言った。周囲の、主に女子から驚きの声が一斉
に上がる。
「三年になったら絶対申し込みが殺到するわよ、榊くんなら」
「踊れない、で逃げる予定?」
「そんなもったいない。来る者は拒まずでお相手しますよ。ただ、ワルツなら講習を受け
なくても一応は踊れるので」
げえ、と、今度は男子から声が上がった。
「さりげなくブルジョア宣言」
「いや、そういうわけじゃ。祖母が社交ダンスサークルに入ってて、練習相手をさせられ
てるんですよ。祖父が死んでも嫌だって相手をしないので」
「…ほほえましいような、見ようによってはマダムと若いツバメに見えそうな」
隣の女の子のぶっちゃけた発言にまた周囲がどっと笑う。ひどいなあと大きな体を縮こめ
て大地がいじけたのでまた笑いが大きくなる。離れた場所で練習していたファーストヴァ
イオリンが皆振り返るほどの笑い声に、慌ててパートリーダーがしいっと人差し指を唇に
当てた。

「さっき、何を盛り上がっていたんだヴィオラは」
パート練習の後に一人居残って曲をさらえる大地のそばで、授業で弾くという曲の譜面を
読んでいた律がふと問うた。
「何?…ああ、ワルツの話?…ワルツのヴィオラパートのメロディは、なんでこんなに似
てるんだろうって話だよ」
大地の言葉を聞いて、律はさらりと首をかしげた。
「…だけか?」
「あとは、ワルツの講習会に出るかどうかの話とか」
マダムと若いツバメ発言に関しては言及したくなかったので、適当にぼかして答えたのだ
が、そうかと律は素直に納得した。
「…律は出るのか?講習会」
「いや。面倒くさい」
大地の問いに、律はあっさりと首を横に振った。面倒くさい、という理由がなんだか律ら
しい。
「大地は」
「俺も出ない」
「なぜ」
「踊れる」
へえ、と小さく律はつぶやいた。
「じゃあ、教えてもらおう」
「…面倒くさいんじゃなかったのか」
「講習会に時間を合わせて出るのは面倒だが、大地に習うのは面倒じゃない。踊れた方が、
ワルツを弾くときに参考になって、いい演奏ができるかもしれないし」
ははっと、思わずため息に近い笑いが大地の喉から飛び出した。
「ほんとに、全部がそこに行きつくんだなあ、律は」
「そこって」
「いい演奏」
律は不得要領な顔をした。
「当たり前だろう」
…そうだな、と静かに大地はつぶやいた。…律にはね、と、…こちらは口にしない。
「でも上手く教えられるかな。…俺が上手く女性パートを踊れれば男性パートを教えやす
いんだけど、いつも男性パートしか踊らないから」
「別に、習うのは女性パートでもかまわないが」
………。
「…や、…それはどうかと」
とだけ言って大地は絶句する。
「なぜ。…俺はワルツの踊りがわかればいいんだ。男性でも女性でもかまわない。…大地
の踊りやすいのが男性パートなら、俺が女性パートを踊れた方が、相手をしてもらいやす
いだろう」
えーと、…これはどう判断したらいいものか。
「…その、…踊る相手は俺限定なのか?」
「他に誰と踊れと言うんだ」
律は、まるで大地にひどい無茶を言われたかのような顔をして、耳を赤くして眉を寄せた。
「後夜祭では演奏するだけだし、それ以外でワルツを踊る機会なんかない」
「…三年になったら、踊れるだろう」
「踊る気はない」
怒ったような拗ねたような顔が、不意にかわいらしく思えて、大地はゆるむ口元を隠すた
めに手で口を覆って目をそらした。その仕草をどう取ったのか、律はむっつりと口をとが
らせた。
「…踊る相手が大地だと、ワルツを教えてくれないのか」
声が完全に拗ねている。
「…いや。…光栄だよ」
深呼吸して、声を落ち着けて。…大地は律に笑いかけ、右手を差し出した。
「…?」
「どうか、俺と踊ってください」
眼鏡の奥の瞳が丸くなり、それからふうっとやわらかくゆるんだ。差し出された大地の右
手に、これでいいのか、と目で問いながら、おそるおそる左手を載せて。
「……喜んで」
答える声が甘く聞こえるのは、都合のいい自分の錯覚か、それともまぎれもない事実か。
あれほど恨めしかった三拍子が今は、大地の耳の底で弾んでいた。


おまけ。三年生になった大地と律の話です。>後夜祭