洞窟
「海に行くぞ、海!」
こういうことを言い出すのは、だいたい羽張彦だ。…というか、この屋敷で何かの言い出
しっぺになるのはほとんど羽張彦だ。常に何かを企んでいるというか、一瞬たりともじっ
としていられないたちらしいのである。忍人は時々、せわしない人だなあ、と思う。
ただ、羽張彦は声は上げるものの、計画性には乏しい。だから彼が声を上げるだけでは、
実行されないことも多い。…が、その声にこの男が賛同すると話は別である。
「熊野の方まで行きませんか。風伝峠の近くでいい浜辺を知っています。あのあたりでは
珍しい砂浜ですから、貝もたくさん捕れますし」
柊が、まるであらかじめ羽張彦が言い出す内容がわかっていたとでも言いたげに、美しく
できあがっている計画を披露すると、話は突如動き始める。
「貝かあ。いいなあ。久しぶりに貝汁が飲みたいなあ。橿原では新鮮な貝がなかなか手に
入りませんからね」
風早が幸せそうな顔で言う。
「…お?風早は貝が好きなのか?」
「俺は伊予の海辺の出ですからね。地元では毎日海のものばかり食べていましたよ。…続
くと飽きるんですけど、こちらではなかなか食べられないので、恋しくなりますね」
柊はそのやりとりを静かに聞いていたが、ゆるりと忍人に顔を向ける。
「砂浜を走るのはいい鍛錬になりますよ。…君は海に行ったことはありますか?」
「いや、まだない」
忍人が言うと、俄然羽張彦が反応した。
「なんだ、そうか、忍人!…よーし、俺が腕によりをかけて、泳ぎを教えてやろう!」
「遠慮する」
「なーんーでー」
あっさり断られて、羽張彦が拗ねた。
「川で泳いだことならあるから、教えてもらうには及ばない。どうせ、羽張彦の教え方は、
海に突き落として、もがけばなんとかなる式だろう?」
もっと拗ねようとしていた羽張彦がぐっとつまったので、風早と柊が爆笑した。
「読まれてるよ、羽張彦」
「図星ですか、君も大人げない」
「うるさーい」
笑いの渦のそばを道臣が通りかかった。
「楽しそうですね、何の話です?」
「道臣殿、いいところに!海行かないか、海!」
羽張彦が大声を上げると、道臣はおや、と穏やかに笑って、それからしぃ、と唇に人差し
指を当てた。
「?」
兄弟子たちが素直にそろって首をかしげるので、つられて忍人も首をかしげた。
…道臣が吹き出しそうになるのをうっとこらえた。…ように見えた。
気を取り直して、彼は穏やかに話し始める。
「あまりその話を大声でなさらない方がいいですよ。師君は貝鍋が大好物ですからね。話
を聞かれたら、連れて行けと大騒ぎなさいます」
「…師君の好物は猪鍋じゃありませんでしたか?」
「まあ、山海の珍味は何でもお好きなんですが。健啖家でらっしゃるから。でも猪と貝は
特別ですね」
「死ぬほど食うもんな、先生」
「それであの細さなんですから、詐欺ですねえ」
「先生はよく動かれますから。…でも、君の方こそ、食べても食べてもひょろひょろ細長
いじゃありませんか。君が言うことではないと思いますけどね。…いや、それはともかく、
道臣殿、ご忠告ありがとうございました。この話はこれから小声で」
風早が言うと、忠告ついでに、と道臣はまたおっとり笑った。
「明明後日は、師君は女王陛下に従って高良の方にいらっしゃる予定です。私もお供を仰
せつかっていますので、間違いありません。計画を決行するならその日がよろしいですよ」
「ありゃ。…じゃ、道臣殿は行かないのか」
「はい、すみません。…でも、おみやげは楽しみにしていますよ」
ね、と道臣は忍人に笑いかけた。
「……道臣殿、わかってらっしゃる」
「……少なくとも、羽張彦には期待できませんよね」
ぼそぼそと風早と柊がささやき合う横で、忍人はまかされたうれしさに目をきらきらさせ
ている。羽張彦は苦笑いしている。
初夏の風が、中庭を吹きすぎていく。
その忍人は今、風早にもたれてくうくう眠っていた。
「飯も食わずに沈没したなあ、忍人」
海に近い崖に開いた洞窟の中で、兄弟子たちはぼそぼそと話している。
「誰の挑戦でも受けますからね、忍人は。…砂浜走り回って、泳いで、貝掘って。…そり
ゃ沈没もするでしょう」
柊が苦笑している。
「せっかくいい味の貝汁になったのになあ。…忍人のお手柄なんですけど」
風早は残念そうだ。
目の前のたき火の上で、くつくつ汁が煮えている。3人はもう、たらふく食べた。あとは
忍人の分だ。
「そのうち、腹が減って目が覚めるだろ」
「そうですね。一回火から下ろしますよ。また起きたら暖めましょう」
風早は、よいしょ、と自分にもたれている忍人を洞窟にしいた布の上に寝かせてやってか
ら、今度は鍋をよいしょとおろした。
「しかし、いいところ知ってたなあ、柊。ほどよく日陰があるし、水は温かいし、貝も豊
富だ。…あとは、一晩休める場所が近くにあるといいんだが。まさかこんな洞窟の中でっ
てわけにはいかないだろ」
「神邑までそう遠くありませんから、あそこで休ませてもらえばいいと思いますよ」
「そうか。…ぬかりないなあ、お前…って、何を風早はにやにや笑ってるんだ?」
「いや、やっぱり姫を連れ出す算段の下見かと思って」
風早が言うと、羽張彦がかあっと赤くなった。柊は平然としている。
「ばれましたか?」
「行きの歩く速さがね。…忍人を気遣っているにしても、ずいぶん遅かったでしょう。あ
れは姫を歩かせることを考えているんだろうな、とは感じてました。…それに今の会話で
しょう。わからない方がおかしいですよ」
「…いや、海なんか見たことがないというのを聞くと…」
ぼそぼそと、羽張彦がつぶやく。
「君としては、連れて来たくなりますよね。わかります。……俺も、そうだから」
「二ノ姫を?」
柊が静かに問うと、それはもちろんですが、そうではなくて、と風早は笑って。
「忍人が海に来たことがないと言ったとき、絶対一緒に海に行きたいと思いましたよ。…
この子に、海の広さを見せてあげたいって」
……なぜかな。
「なぜこんなに、小さいものは、暖かくて愛おしいんだろう」
さらり。風早の手が忍人の髪をなでる。洞窟の外に広がる夜空の色をした髪。
「小さいとか言うと、忍人に殴られるぞ、風早」
「……そうだね」
羽張彦に指摘されて、風早は静かに笑った。
……子供という意味ではなかったんだけどね。
羽張彦や柊には聞こえないように、風早は心の中でだけひとりごちる。
このちいさき、……ひとという生き物。
「ああでも、今日は楽しかったなあ!」
突如羽張彦が叫んだ言葉が、洞窟中に思いがけず反響した。
「…羽張彦…」
柊が額を押さえて羽張彦に何か言いかけたのと、風早の横でむくりと起き上がる気配が同
時で。
「…忍人。…目が覚めた?」
あわてて風早が貝汁をもう一度火にかける。
「羽張彦の大声で目が覚めたんでしょう。かわいそうに」
「俺のせいか!」
また羽張彦が大声を出して、それが洞窟に反響する。柊にじろりと見られて、羽張彦は背
を丸めて小さくなった。
「…俺のせいか…」
「間違いなく君のせいですね」
きっぱり。
寝起きで状況がよくわかっていない忍人は、目をこすりながら羽張彦と柊を見比べている。
あれはじゃれてるだけだから、無視していいから、と教えつつ、風早は忍人に貝汁をつい
でやった。
ふうふう息を吹きかけてさましながら忍人が貝汁を食べる横で、突然羽張彦が立ち上がり、
壁をなでながら熊のようにうろうろし始める。
「何をしているんですか、羽張彦」
柊が顔をしかめて聞くと、
「いや、ここの壁に…ああ、ここがいい。ここには潮が届かないみたいだ」
羽張彦は懐から短剣を取り出して、ちょうど自分の目の高さの壁にがりがりと自分の名を
刻んだ。
「「………」」
風早と柊のため息がハモる。汁をすすっていた忍人は、二人のため息に顔を上げて、何事
かと羽張彦を見た。
「突然何をするかと思えば」
「子供ですね、ほんとに」
「いいじゃないか、今日ここに来た記念だよ。…ほら、風早も書け」
「あのねえ」
何か言いかけた風早だったが、ちらりと忍人を見て、…まあそれもいいか、と小さくつぶ
やく。
「名前を書く?」
「自分の目の高さにな」
にやり、と羽張彦が笑う。
「やっぱりそういう趣向か」
風早は、後で叱られても知らないよ、と言いながら、自分の目の高さに自分の名を刻んだ。
羽張彦の高さよりわずか高い。
柊は、ああそういうこと、とつぶやいて、これは自分から立っていって、風早の横に名を
刻んだ。羽張彦よりもわずか低い。
ずず、と忍人が最後の一口をすすりこむ音がする。
3人の兄弟子が振り返って忍人を見た。
「忍人、来い来い」
「……」
食事をして少しは目が覚めた忍人だったが、まだあまり状況が飲み込めていない。誘われ
るまま素直に羽張彦のそばに立っていく。
「お前も、ここに名前を書けよ、忍人。…自分の目の高さで」
「…名前…」
素直に短剣を取り出し、目の高さに名前を刻もうとして、忍人ははっとなった。
羽張彦の名前。…風早の名前。…柊の名前。………自分の名前。
自分が刻もうとした位置は、兄弟子たちよりも明らかに低い。
「……!」
むっとした顔で、せいいっぱいのばそうとした忍人の手を、だーめーだ、と羽張彦が押し
戻す。
「お前の今の高さで書く。…な?…それで来年またここに来る」
忍人はむっつり口をとがらせたままだ。
「俺もまだちっとは伸びるかな。…風早も伸びるよな。柊も。……でもお前はきっと、も
っと伸びる。…今よりもっと、この差は縮んでる」
羽張彦がのんびり言う。手を押し戻されてもがいていた忍人の力が、ふと抜けた。
「再来年も来るんだ。そしたらもっと差が縮まってる。……な?…楽しいと思わないか?」
羽張彦はきらきらした目で忍人をのぞき込んだ。忍人は眉間にしわを寄せたまま、それで
もむっととがらせた唇は元に戻っている。うかがうように風早と柊を見るので、二人は苦
笑混じりにうなずいて見せた。
「今のお前の記録だ、忍人。…そこに名前書けよ」
はあ、と忍人はため息をついて。…言われたとおり、自分の目の高さに名を刻んだ。よし
よし、と笑って羽張彦がぱん、と忍人の背をたたくと、一言。
「…考えてること、俺より子供だ、羽張彦」
柊と風早が爆笑した。
「来年は、絶対道臣殿も連れてきましょうよ」
笑いながら柊が言う。
「それで、聞くんですよ。…これを言いだしたのは誰だと思いますって」
「聞かなくても、道臣殿ならきっと言うよ。…羽張彦がやろうと言ったんでしょうって」
そしてまた二人して爆笑する。羽張彦は頭をかいた。忍人は小さくため息をついて、短剣
を大切にしまう。
洞窟に響き渡る笑い声に驚いたのか、小さな蟹が一匹逃げていった。
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