最後の弟子

「…そうか、君が四道将軍の最後の弟子か」
ぽつりと呟いたのは忍人だった。
他の誰かにも言われた言葉だったが、忍人の言葉はなぜか那岐の心にひっかかった。
常日頃、厳格さ以外の感情を見せない彼の声には珍しく、なにか寂しげな色があったから
だ。
「僕が物心ついたときには、もうそんなお偉い方ではなかったけどね」
つい斜に構えた言い方をしてしまうのは那岐の癖だ。が、そういう物言いをたしなめるの
は千尋か布都彦で、忍人は那岐がどんな口をきいても聞き流すばかりだったのに、今日は
少し違った。
眉をひそめるようにして口角をあげる。…それが苦笑だと気づくのに数瞬かかってしまっ
た。
「いや、君の師匠は立派な方だ。…将軍として、非常に尊敬できる方だった」
忍人のこんな柔らかい声を初めて聞いた。
「…直接面識があるような言い方だね」
今度は那岐が眉をひそめる。こちらは苦笑ではなく、不審感からだ。
那岐の師匠は、忌子である那岐を拾って保護したことで、橿原宮と四道将軍の地位から追
われた。もう17年も昔の話だ。忍人は、中つ国の勇猛な将軍で岩長姫の弟子という立場上、
中つ国の武官たちには詳しいだろうが、まだ21になったばかりだという。那岐の師匠が宮
を追われた頃はまだ4つか5つのはずだ。将軍と面識を持っていたとは思えない。
忍人は那岐の不審さを感じ取ったらしく、苦笑を浮かべた表情のまま少し説明してくれた。
「葛城の族は昔から、狗那の一族とつながりが深いんだ。子供の頃と、それから岩長姫の
ところに弟子入りする前に、君の師匠に何度かお目にかかった」
「…いくらつながりが深いって、あんた、いいところの坊ちゃんなんだろう?」
ぶすっと那岐が言うと、今度は忍人が不審げに眉を上げた。
「国を追われたはみ出しものに何の用だったのさ」
「そういう物言いをするものじゃない」
口をとがらせかけたところをぴしりと叱られた。千尋や布都彦のとがめ方とは少し違う、
教師が生徒に言い聞かせるような口ぶりだった。
「本心ではそう思っていないのに、そういう言い方をしてはいけない」
「……」
何故そんなことがわかるんだ。そう思ったのは、さすがに顔に出たらしい。忍人はまた少
し表情をゆるめた。いつも厳しい顔しか見たことがないので、少しどきりとしてしまい、
そんな自分にあわてる。
「君の師匠はとても立派な方だった。そして君は師匠を本当に慕っている。…君の鬼道を
見ればわかる。師匠の癖そのままだ」
「……」
「俺は昔、君の師匠に、自分が鬼道に向いているのか、それとも剣の道に向いているのか、
見定めてもらいに行ったんだ。少しは鬼道も教わった。だから師匠の鬼道の癖もわかる」
そこまで言って、忍人は肩をすくめた。
「まあ、君と違って俺はとうてい君の師匠の弟子にはなれそうもなかったから、結局師君
のところにお世話になったわけだが」
「つまり、鬼道の才能がなかったわけだ」
「かけらもな」
真実なので恥じようもないのだろうか、それとも、鬼道の才能のなさを補って余りある剣
の才能を持つためか、けろりと忍人は認めた。
「何度教わっても、どうにも駄目だった。俺の両親、特に俺の母は、俺を武人ではなく鬼
道使いにしたかったから、君の師匠に何度も無理を言って時間をいただいたが、鬼道には
努力だけではどうしようもない部分がある。君の師匠は一目見て、目の前の小僧がその
『どうしようもないやつだ』とわかっただろうに、俺や俺の両親が納得するまで、本当に
丁寧に俺につきあってくださった」
そこで忍人は少し遠い目をした。
「…優しい方だった」
那岐は不意に、師匠のやわらかい尻尾の毛並みを思い出した。子供の頃、よく尻尾にまと
いついて寝たことも。
「弟子や部下や目下をとても大切になさる方で、子供好きだった。師君も弟子を大切にす
る方だが、照れがあってか、表だってはあまり弟子をかわいがるようなことはなさらない。
が、君の師匠ははっきりとかわいがってくださる。…それが心地よくて、この師匠の弟子
になれたらいいのになと思ってがんばって鬼道を学んだものさ。…結果はこの有様だが」
忍人は小声で術を詠唱してみせた。…なるほど、師匠の術だ。しかも初歩の初歩たる発火
の術。が、彼の指先からは炎がほとばしりでることはなく、しけった線香のように、ある
かなしかの煙がぽそんと生まれただけだった。初歩の術でこれでは、先が思いやられる。
鬼道使いにはとても向かないだろう。
「…でも、どうして」
「…なにがだ?」
「貴方が師匠に習いたいと思う理由はわかる。子供だったならなおさら。…でもどうして
貴方の両親は貴方を師匠の弟子にさせたかったんだ。鬼道の師匠なら他にもいただろう。
師匠の跡を継いで四道将軍になった人も鬼道使いだっただろうし、将軍でなくても、強い
鬼道を使える人間はいたはずだ。貴方ほど力のある豪族の一員なら、なにもわざわざ、宮
を追われて周りから疎んじられている男のところに送り込むことはないだろう」
「……君は」
忍人は再び厳しい声を出しかけて、口をつぐみ、声になるはずだった吐息をふっと上に向
かってはいた。
「…そうか、それが君の業なのだな」
「…業?」
「いや、枷と言った方がいいか?」
「……」
「…那岐。君が思っているほど、君の師匠は忌避されていたわけではない」
「…!」
かっとなって怒鳴ろうと口を開き、身を乗り出した姿勢を、片手で制される。
「もちろん、世の中には軽はずみなものも多いし、噂や状況だけで人の内面まで判断する
ような愚か者もたくさんいる。君の師匠や君自身が置かれた立場が楽なものだったとは思
わない。君が師匠に対して負い目を持つのもやむを得ない。だが」
そこで忍人は再び無器用なほほえみを浮かべた。
「俺にもう少し鬼道の才能があったら、君と兄弟弟子になっていたことも事実だ」
「……」
「俺の父親は、君の指摘通り、一族の中でも特に主筋に近い高位の生まれだったが、その
父親からして、君の師匠を疎んじたりしなかった。いやむしろ人として尊敬していた。だ
から息子をその弟子にしたがった。君の師匠は、すべての人から疎んじられていたわけで
はないんだ。だから」
だから、と口を開いて、そのまま忍人は押し黙った。
だからもう気にするな、と、たぶんそう言葉は続くのだろう。だが、忍人の言葉一つくら
いで気持ちを変えられるほど、那岐が見てきた師匠の状況は幸せなものではなかった。那
岐のその頑なさが忍人にも感じ取れて、彼はそれ以上言葉を重ねることをやめたのだろう。
「…余計なことを言ったな。適当に忘れてくれ」
そう言って背を向けた忍人に、那岐は一つだけ気になっていた質問を投げた。
「…貴方の親はさ」
「…?」
肩越しに忍人が振り返る。
「貴方の両親は、どうして、貴方を鬼道使いにしたがったんだ?その若さで将軍になるく
らいだから、子供の時からある程度剣の腕は図抜けていたんじゃないのか?」
「……」
答えずに前に向き直った忍人に、那岐は口をとがらせた。
「僕の古傷はえぐっておいて、自分のことはだんまりなわけ」
その台詞はさすがに耳が痛かったらしい。しぶしぶという顔で忍人はもう一度那岐に向き
直った。
「…たいしたことではない」
「なら教えてくれてもいいだろ」
「………」
苦虫をかみつぶしたような顔で忍人は黙りこくったが、傷をえぐったことは確かだとあき
らめたのか、またため息を一つ吹き上げた。
「たいしたことではないんだが、ただ、あまり人に知られたくもない」
「誰にも言わないよ」
「……」
それでも忍人は言い渋る。そこまで言い渋られると逆に気になってしまう。
「この御統にかけて、…誰にも言わない」
「……わかった」
忍人は、前髪をかきあげて、そのまま額に手のひらを当てる。顔が手のひらで半分以上隠
されて、表情が見えなくなった。
「俺の母は星の一族の出だ。星の一族は未来が見えるといわれている。見たい未来が見え
るわけではないが、見えた未来はほぼ確実に現実のものになるそうだ」
…唐突な昔語りに那岐があっけにとられていると、
「母は、俺を生むときに見たんだそうだ。…まだ若い俺が金色の剣を持って死ぬところを」
だから、俺の両親は俺を鬼道使いにしたがった。
それだけ言い残してくるりと背を返し、今度こそ忍人は歩み去った。

那岐が忍人の言葉の意味を理解するのは、次の春のことである。

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