金緑色の椎の実
「……う、…届かない」
那岐は必死で、大きな椎の木に手を伸ばしていた。
とてもよさそうな実がついている。金緑色にきらきらと光っている。あれはきっと、とて
も力のある実だ。あの実を使えば、きっといい術の道具が作れる。
だが、力のある実は力のある木につくものだ。そして力のある木はたいてい、何年も何百
年も何千年も生きた大きな木で、まだ5つの那岐が手を伸ばして登れる太さの幹ではなか
った。枝に足をかけようにも、届く高さに適当な枝がない。
「うーーー!」
じれて叫ぶと、思いがけず他人の声がした。
「…実を取りたいのか?」
ぎょっとなって振り返る。
ここは、那岐の師匠の庵のそばだった。彼は宮を追われて以来、この人里離れた山奥に隠
れ住んでいる。師匠がどこかへ出かけていくことはあるが、誰かが訪ねてくることなどほ
とんどない。まれに、狗奴の姿の大人が訪ねてきたり、山菜採りの村人が迷い込んできた
りすることはあるが、それ以外の人通りはほとんどない場所だ。
…なのに、那岐に今声をかけたのは、小綺麗な格好をした少年だった。村の子供とはとて
も思えない。年格好は、那岐よりも5つ6つ年上だろうか。きれいな夜空色の髪をふっつ
りと肩で切りそろえ、まっすぐな夜の海の色の瞳が那岐を見ている。
誰だろう、と那岐が考え込んでいると、先にまた彼が口を開いた。
「…もうすぐ秋だ。そのうち落ちてくるだろう。今取っても食べられないぞ」
冷静に言われて、那岐は口をとがらせた。
「食べるんじゃない。それに、落ちてからじゃ駄目だ。力がなくなる」
「……君は、……もしかして、鬼道使いか?」
「…そうだよ」
…まだ師匠から認めてもらったわけではないのだが、那岐は胸を張る。
…なんとなく、この少年に張り合いたい気分だったのだ。
「……そうか」
少年は別に那岐の反応を歯牙にかけるでもなく、ゆったりとうなずいた。…そしておもむ
ろに袖と裾をからげる。
「…え?」
「俺が取ってやる」
年は上だろうが、彼自身も結構小柄な子供なのに、器用に両手両足を幹にかけてするする
と大きな木を登る。そして、一番下の太い枝に足をかけ、よじ登って腰を下ろし、
「もっと上か?どれだ?」
と聞いてきた。
自分にはできないことをこともなげにやってしまわれて、那岐は少し悔しかったが、せっ
かくの機会を逃す手はない。
「それ!そこの光ってるやつ!」
「……光ってる?」
少年はけげんな顔をした。
「もう少し手を伸ばしたところ、すぐそばにある大きいやつだよ。…葉っぱで隠れて見え
ないの?きらきら金緑色に光ってるだろう?」
あんなにきれいで目立つ椎の実がどうしてわからないのか。
「…君には、このたくさんの椎の実の中のどれか一つだけが、光って見えるのか?」
だが、少年は考え込む顔で、那岐を見下ろし、聞いてきた。
そう聞かれて、初めて那岐は当惑した。
「…うん。…一つだけ、…とってもきれいに光ってるよ。…他のはただの緑色だけど」
「……そうか」
少年はなぜだか少し寂しそうな顔をした。
「天賦の才とは、こういうことか」
「……てんぷ?」
その言葉は難しくて、那岐にはよくわからない。
「…何でもない」
少年は首を横に振って、それから、すまなそうに那岐に笑いかけてきた。
「…俺には、全部、ただの緑色に見えるんだ」
「……!」
…那岐が今まで言葉を交わしたのは師匠だけだった。那岐の世界には師匠と那岐しかいな
かった。……だから、那岐はこの時初めて知ったのだ。
…自分が見ているものが、他の人にも見えているとは限らない。
「手近にある実から順にさわっていくから、それだと思ったら声を出してくれ。…大きい
実なんだな?」
「……えと、うん。…大きく見える」
少年は少し眉を上げて、…君には、か、と、なぜか優しく笑う。
「わかった。…じゃあ念のため、小さいのもさわっていこう。…これか?」
結局、10個目が当たりだった。実を取った彼は、枝から身軽に飛び降りると、大事そう
に両手で那岐の手に渡してくれた。
「ありがとう」
「たいしたことはしてない。じゃあ、俺はこれで」
そう言って彼が元来た方にきびすを返すので、那岐はあわてて声をかけた。
「あのさ、…師匠のところに来たんじゃないの?…そっちじゃないよ」
少年は振り返って、微笑む。
「そのつもりだったが、…少し、考えたいことができた。…いずれまた、うかがう」
影のようなその姿が山をゆっくり下っていくのを、那岐は黙って見送った。
忍人は堅庭に立っていた。ぼんやりと空を眺めていると、不意に下から声がした。
「…暑くない?そこ」
声は、堅庭の縁の下からしているようだ。
どうやら那岐の声のようだがといぶかしみつつ見下ろすと、縁の下に人一人座れるくらい
の幅の出っ張りがある。木々の影に隠れて見えづらいそこに、那岐がいた。
「こっち、木陰で涼しいよ」
来ないか、と言いたいらしい。直接、来ないかと言わないところが那岐らしい。
「……」
忍人も、なんとなく無言のまま、そこに飛び降りた。
「……ああ、本当だ。…涼しいな」
「だろう?」
「でも見晴らしは悪い」
「見晴らしがいいと暑いんだよ」
「見晴らしがよくて涼しいに越したことはない」
「……意外とわがままだよね、忍人……」
くく、っと鳩のように那岐は喉を鳴らす。…そして、急に話を変えた。
「…つい最近、思い出したんだけど」
「…?」
「僕は、子供の時に忍人に一度会ってる」
忍人は少し眉を上げ、…ああ、と静かにうなずいた。…それを見た那岐は顔をしかめる。
「忍人は前から気づいていたのか?」
「無論」
あっさり。
「…再会して、すぐに気づいた。金緑色の椎の実」
「……うん、そう」
言ってくれればいいのに、と那岐は思ったが、それを言うと、なぜだと聞き返されそうな
気がしたので言わなかった。
「…そうか。…覚えてたんだ」
「忘れるものか。……君に会ったから、俺は鬼道使いになるのをあきらめる決心がついた
んだ」
「……」
光っている実が見分けられなかった忍人。寂しそうな、優しい笑顔。子供なのに子供らし
くないその表情を、まざまざと那岐も思い出した。
「天賦の才とはこういうことかと、…君を見て理解したんだ」
「…そうだね。…忍人は鬼道使いより将軍様が向いてるよ。……僕にはなれないけど」
「…そうだな。那岐が刀を持ったら危なくて仕方がない。重さによろけて味方にぶつけそ
うだ」
那岐がむっとした顔をするのを見て、忍人はくっくっと笑い出した。
「…あのさあ。そこまでひどくはないと思うよ……」
那岐はぶつくさいじけている。忍人は喉声で笑っている。
風が木の枝を揺らしている。天鳥船は、夏。
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