笹百合の谷
「道臣さん、柊を知りませんか?」
千尋は書庫で何か竹簡の整理をしている道臣に声をかけた。道臣はしていた作業の手を止
めて、千尋に穏やかな視線を投げる。
「半刻ほど前からずっと、ここで作業をしていますが、柊はおりませんよ。…どうかなさ
いましたか?」
「ううん、急ぎの用事じゃないんだけど、ちょっと教えてほしいことがあって。てっきり
いつも通り書庫だと思ってここにきたらいないから……」
「そうですね、まるでここの主のようにいつもここにいますからね、柊は」
道臣は春の日差しのように苦笑した。それからすまなそうに、
「ここにいないのならば、船の外かもしれませんが…。…ちょっとどこにいったのか思い
当たりません」
「あ、いいんです、ごめんなさい」
じゃあ、と書庫を出ると、朱雀の磐座から出てきた風早とばったり鉢合わせした。
「風早」
「どうしました、千尋?」
風早は、それが癖の、おっとりした口調で話しかけてくる。千尋は内心、道臣と合わせて
(春風二人組)といらぬあだ名を進呈しそうになった。
「柊を見なかった?」
「…さて…。…朝一度堅庭で見ましたが、その後は気がつきませんでしたねえ」
「そう。…じゃあやっぱり外かしら」
「急ぎの用事ですか?」
「あ、ううん、ちがうの。ちょっと聞きたいことがあっただけ。別に急がないんだけど、
今日は少し手が空いているから」
普段は、勉強や鍛錬でいっぱいいっぱいだが、今日は岩長姫に、「あんたもたまには休み
な」と言われてしまったのだ。
「そうですか」
風早はふんわりと笑ってから、ふと、何か思いついた顔になる。
「…そうですねえ、柊の行方なら、忍人に聞いてみてはどうですか?」
「……お、忍人さん、に?」
……そ、それはちょっと、…どうかしら、と思ってしまう千尋である。
「おや?気が進みませんか?」
「気が進まないっていうか、…だって、あの二人、とても仲が悪いでしょ?…忍人さんが
柊の行方を知ってるとはとても思えないんだけど…」
「そうですねえ、今は余り仲がいいとはいえませんが、昔はあれで意外と仲良しでしたよ。
特に柊は昔からああいう…なんというかな、少し斜に構えた性格をしていましたからね。
岩長姫の多い弟子たちの中でも、あまり踏み込んだつきあいをする者は少なかったんです
よ。俺はほとんど同時に入門したからいつもわりと一緒にいましたが、それ以外では羽張
彦と忍人くらいでしたね、平気な顔でずけずけと柊にものを言っていたのは。…特に、年
下では忍人くらいだったんじゃないかなあ。だから、割合柊も忍人はかわいがっていまし
たよ」
そこで風早は少し苦笑する。
「…柊の場合、かわいがるというのはいじめるのと同義ですけどね」
「……それじゃやっぱりあんまり仲良くないんじゃないの?」
「いやいや」
千尋の不審そうな顔に、風早は笑いながら手を振った。
「忍人は子供の頃からわりと大人びていましたからね。あれは柊一流のかわいがり方なん
だと気づいていたと思いますよ。…柊が忍人に説教されることも多かったですしね」
「…うわーあ」
想像がつくなあ。
千尋は額を押さえた。
「まあ、そのせいでもないでしょうが、不思議とね、忍人は昔から、柊の居場所に関して
は鼻がきくんです。先生が、柊を呼んできな!って怒鳴ると、みんな柊を探す前に忍人を
探しに行くくらいでね。全員で探しても、結局柊を見つけてくるのはいつも忍人ですから」
俺なんかは、全然駄目でした。
風早がそう付け加えたので、千尋は首をかしげた。
「どうして?私のことはどこにいてもすぐ見つけてくれるのに」
「どうしてでしょうねえ。千尋がどこにいるかは簡単にわかるんですが、柊はどうにも、
気配を消して隠れるのが上手くてね」
……確かに、私は別に気配を消したりなんかしないけど。
「ああ、噂をすれば。…忍人!」
風早が、回廊の方から歩いてきた忍人を見つけて手を振る。忍人は特に足を速めるでもな
く、いつも通りの律動的な歩き方で二人の前までやってきた。
「どうかしたか?」
「柊を見ませんでしたか?」
「…いや?朝堅庭で見たきりだ。風早も一緒にいたろう」
「じゃあ、やっぱりその後でどこかに出かけたんですね」
「柊がどうかしたのか?」
忍人は風早に話しかけながら、ふと視線を千尋に流し、
「…風早ではなく、君が柊に用なのか?」
と問うてきた。
ううん、なんだかことが大げさになってきた。…とはいえ、ここでいいえと言うわけにも
いかないし。
やむを得ず、千尋は首をすくめるようにして答えた。
「そうなんです。少し、聞きたいことがあって。歴史や伝説なら、柊が一番詳しそうだし」
忍人は風早に視線を投げたが、風早はおっとりと笑っている。忍人は肩をすくめて、
「わかった。少し心当たりを探してみよう」
そういうなり二人の間をすり抜けて出入り口の方へと足を進めた。千尋はあわてる。
「あの、私も行きます」
「いや、すぐに柊が見つかるとは限らないし、君を無駄に歩かせるのも気の毒だ。船で待
っていてくれ。その間無聊なら、風早に伝説について聞くといい。にこにこ笑っているが、
風早の頭の中は伝説の辞典みたいなものだから」
「…え?」
千尋が風早を振り返ると、風早は顔の前で手を振ってみせる。
「忍人の言い方が大げさなんですよ。そんなことはありません」
二人がそんな会話をしている間に、忍人の姿はすぐに見えなくなった。
「…さて」
船を下りた忍人は、辺りを見回した。
柊が、道臣に地図を借りて、なにやらごそごそと仕度しているのは知っている。もしその
仕度の場所へ向かったのなら東北の火神岳へ向かわねばならないが、その仕度はおそらく、
出雲の獣の神の加護がまだ得られていないこの段階で披露するものではないだろうと思
う。となれば、行き先はまた別の場所。
「あのひねくれものが村や郷をうろちょろするとも思えないし。海辺で波と戯れる姿も想
像がつかない」
とん、とん、とん。
額を人差し指で3回たたいて、忍人はふと、東に顔を向けた。
「…そうだ。…出雲には、うってつけの場所があるじゃないか」
つぶやきをこぼすなり、彼は迷いのない足取りで歩き出した。
その谷には、一面笹百合が咲いていた。白い花弁が、裏側は萼の方から中程までうっすら
と桃色に色づいている。そのため、遠くから見るとほんのり全体が桜色に色づいて見える。
ちょうど今が盛りで、夢のような美しさだ。
男はぼんやりとそこに立っていた。何をするでもないし、他には誰もいない。ただ呆然と、
そこに立っていた。
が、ふと表情が引き締まり、あたりの気配を探る表情になった。が、谷の入り口に別の男
が姿を現すと、すぐに、ひょうひょうとした人をからかうような顔つきを装う。
「おやおや。…君とこんなところで出会うとは」
呼びかけながら、柊がにんまりと笑ってみせると、
「俺は別にお前と出会いたいわけではないが」
忍人は苦虫を噛み潰したような顔になった。別のことではない。再会してからというもの、
柊を見るたびに彼はこういう顔をする。そのうち噛みしめすぎて奥歯がすり減るのではな
いだろうか。
「二ノ姫のご指名で、探してこいと言われたのでは仕方あるまい」
「探す、とは、…この美しい花々ですか?…それはまた、君には似つかわしくない役目で
すね」
「わかっているくせに軽口をたたくな。俺が探しに来たのはお前だ」
はあ、と忍人はわざとらしいため息をつく。
「風早が、俺に探しに行かせろといらんことを吹き込んでくれたのでな」
それを聞いて、柊は笑みを漏らした。
「…しかたがありませんねえ。…君は昔から、私を見つけるのが上手かった」
「………」
忍人はいやそうに無言でそっぽをむく。柊はくっくっと笑って、話題を変えた。
「……しかし、よくわかりましたね。…誰にも言わずに出てきたのですが」
「今度からは誰かに言い置いていけ。俺の面倒が一つ減る」
「それはどうも。…でもついでですから私の質問に答えてくれませんか。どうして私がこ
こにいるとわかったんです?」
「ここが忌み地だからだ」
柊の問いかけに、忍人の返答は短かった。が、柊が無言で続きを促すように唇の片端をあ
げてみせると、厭そうな顔のまま、言葉を継いだ。
「昔から、禁足地だの忌み地だの聖域だの、入ってはいけないところにばかり行きたがっ
ただろう、お前は」
「おや、そうでしたか?」
柊が艶然と微笑んでみせると、忍人はまた押し黙って顔を背けた。
「……別に私は、ここが忌み地だから来たわけではありませんよ。……ただ、この間の夜、
姫が手に美しい笹百合を持っておられたのを見かけたのでね。あの花はどこでと探してい
る内に、こんなところへ迷い込んでしまった」
「…この間?」
「姫が、黒雷殿にさらわれた晩ですよ」
「………」
「他の場所も見てみましたが、ここほど見事に笹百合が群れて咲いている場所は見あたら
なかった。おそらく二人はここへ来たのでしょう。…黒雷は忌み地などという伝承を気に
する人柄ではないし、姫は忌み地の存在そのものをご存じないはずだから」
「………」
「しかしなぜ、ここを忌み地と恐れるのでしょうね。中つ国を守護する龍が神子の祈りを
聞いて最初に降り立った地。他の国の者や、赤い目の大蛇にとってはともかく、中つ国の
民には祝福されるべき土地ではありませんか。それを、古の龍の毒気にあてられるなどと
噂して恐れ、近づきもしないとは。…民が、龍を敬うのではなく、恐れおののいている証
拠のようなものだと思いませんか?」
「…柊!」
ずっと顔を背けて無言を通していた忍人がさすがに声を挟んだ。
「龍神に対してあまり失礼なことを言うな」
「私は別に失礼など言っていませんよ。こうしてこの地に来て、龍の神の威光をしのんで
いるのですから。…失礼なのは、この地に来ると龍の毒気にあてられるなどと言い出した
古の中つ国の民ではありませんか」
「………」
忍人は再び押し黙った。
その顔をのぞき見て、柊は真面目な顔と声になって言った。
「…忍人。…君は、どう思います?」
「……」
忍人は返事をしなかったが、ちらりと柊を見て、その顔が意外と真面目だと見て取ったか、
顔だけはまっすぐ柊に向き直った。
「…龍の神は、中つ国を救うと思いますか?」
「………」
「心配しなくても、ここでは誰も聞いていませんよ」
「………」
それでも忍人からのいらえはない。…柊はため息をついて、一人言めかして話し出した。
「…私は、龍の神は今の中つ国を救う気などないのだと思いますよ」
「………それは」
ようやく忍人が口を開いた。
「…それは、お前の星の一族の力で予見したこの先の未来か?」
柊はうっすら笑って眉をひそめる。
「…いいえ。残念ながら、今のは私のただの私見です。…君はどう思いますか?」
柊の、答えを聞くまではてこでも引かないという雰囲気を感じ取ったか、忍人は大きなた
め息を一つついて、ようやく話し始めた。
「…少なくとも、獣の神は姫の願いを聞いて、我らに与してくれはじめている。…龍の神
が今は姿を見せていないとしても、全く願いを聞き届けないとは言い切れないだろう」
…忍人のその答えを聞いて、柊は肩をすくめた。
「…中つ国の民として、…国の中枢を守る将軍として、非常に君らしい答えですねえ」
からかうような声色に、忍人は少し皮肉な笑みを漏らし、柊にとっては少し意外なことを
ぽつりと言った。
「…そうか?…俺としては、多少皮肉を込めたつもりだったが」
「…おや?」
龍の神は確かに、もしかしたら、願いを叶えてくれるかもしれない。が、…叶えてくれな
い可能性の方が高いと思う。なぜなら。
「龍の神が本当に神子の願いを叶えてくれる気があるなら、一ノ姫と羽張彦は今頃幸せに
暮らしていられたはずだと俺は思うから」
国を飛び出したり、咎人扱いされたりせずに、橿原宮にいられたはずだと思う。だから正
直、…あまり龍の神の力に頼る気はない。
「……ふうん」
柊にとっては思いがけない忍人の告白だった。…てっきり彼は真面目に、姫が祈りさえす
れば龍神が顕れて願いを叶えると信じているものと思ったのに。
「………ただ」
忍人は静かに言葉を継ぐ。
「龍の神が本当に今も坐ますなら、せめて、…一ノ姫の分も、二ノ姫を幸せにしてほしい
とは思う。…それがたとえ敵国の王子との恋であれ、彼女が本気で願うなら叶えてやって
ほしい」
「………!」
………おやおやおや。
「…姫に厳しい葛城将軍の言葉とも思えませんねえ」
あまりに驚いてしまって、思わず正直な感想を柊がもらすと、
「いけないか」
忍人は真面目に問い返した。
「確かに彼女は、軍の大将としてはまだまだだ。しかし慣れない状況で、必死に大将軍と
しての役割を果たそうとしてくれている。それはわかる。熱心に学び、弓の鍛錬も欠かさ
ない。…そんな彼女だからこそ、少女としての彼女には幸せになってほしいと俺は思う」
忍人は少し身をかがめて、一輪、笹百合を手折った。
「問答に気が済んだならもう行くぞ。…姫がお前を待っている」
言うが早いか、柊に背を向け、忍人は谷の入り口に向かって歩き始めた。
「……」
吐息を漏らして、柊も一輪笹百合を手折った。茎を手の中でもてあそびながら、
「…そうですね。…私も、せめて姫には幸せになっていただきたいと思っていますよ」
かなわなかった、かなえてあげられなかった、あの方の分まで、幸せに。
失われた右目に、幻の桃の花が見える。
が、柊がぼんやり感傷に浸る時間はあまりなかった。
「……柊!」
ついてこない柊に焦れたように、谷の入り口で忍人が怒鳴っている。
「やれやれ、将軍殿は怒りっぽいしせっかちだ」
わかっている、と言う代わりに片手をあげて見せ、彼は笹百合の波の中を歩き始めた。
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