風を見る人

その日、忍人が鍛錬を終えて堅庭に出ると、いつもの場所に先客がいた。
青い翼の青年は、じっと空を見ている。
「カリガネ」
名を呼ぶと、ゆっくり振り返り、忍人の姿を認めてほんのわずか、唇に笑みを浮かべた。
「空がどうかしたか?」
横に立ち、同じ空を見上げる。雲が一つだけ、ゆっくりと動いている。
「風を見ていた」
「……風が、見えるのか?」
その忍人の問いに、カリガネは無言のまま首肯した。視線は空に向けられたままである。
忍人も、空を見た。雲が動く。頬に風があたる。…雲が動くから、風は今あちらからこち
らへと動いているのだろうな、とわかる。頬に風があたるから、風の存在は知っている。
…だがそれだけだ。風が実際に見えるわけではない。
「……」
無言のまま、胸の中で疑問を転がしていると、まるでその疑問が声となって届いたかのよ
うに、珍しくもカリガネから口を開いた。
「……我々の一族の言い伝えだが」
忍人はカリガネに顔を向ける。カリガネは空を見たまま、言葉を続ける。
「古から豊葦原に住まう三つの種族は、いずれも目に見えないものが見えるという。…日
向の一族は風が、月読の一族は命の長さが、星の一族は未来が」
カリガネがゆるりと忍人に目を向ける。忍人はかすか目を伏せ、笑んだ。
「…星の一族が未来を見るのは知っている。…が、他は初耳だ」
「そうか」
カリガネはまた空へ視線を向けた。
「…見えるのが風だけでよかった。人の命や未来を見るのは、どういう心持ちかと思う」
あまりいいものではないような気がする、と、彼が言外に言っている気がした。返す言葉
を持たず、忍人も同じ空を見る。
「…今、風はどう動いている?」
「西から吹いていた風が、さっき南からの風に変わった。少し大きい風だ。遠くに雲と雨
粒をのせている。もうすぐ、雨になる」
忍人はまじまじと空を見る。…空には相変わらず、一つの雲が浮かんでいるだけだ。あと
はただ抜けるように青空。…こんなに晴れているのに。
思わずまたカリガネを見ると、カリガネも忍人を見ていた。かすかに笑う。
「…間違いない」
「…そうか」
忍人はゆっくりうなずいた。
「…君がそう言うなら、そうなのだろう」
カリガネが片眉を上げる。
「…何か?」
「…いや」
カリガネは少し首をかしげた。言葉を探している様子だ。
「…君は、おもしろいな」
それがどういう意味合いなのか、忍人がはかれずにいると、カリガネが言葉を足した。
「ひどく警戒心が強いのに、時折奇妙に素直だ」
そのとき、足下でぷっと吹き出す声がした。
「…?」
忍人がのぞき込むと、縁の下、いつもの昼寝場所に那岐がいた。
「いたのか。…気付かなかった」
「今起きたとこ。寝てたから、気配がとれなかったんだろう」
くすくす笑いながら那岐が応じる。
「…何をそんなに笑っているんだ」
「いや、カリガネの言うこと、当たってるなあと思って。…忍人ってそういうところある
よね。なんでもかんでも疑ってかかるのかと思いきや、信頼が置けると判断した相手の言
葉は、ええ?って思うような内容でもきっちり信じる」
忍人は眉を寄せた。自分ではそういうつもりはない。信じられると思うから信じる。信じ
られないと思うから信じない。…それだけなのに。
そのとき、堅庭の扉を誰かがどぉん、という勢いで開けた。うわ、という声を発して那岐
が縁の下で縮こまる。
「那岐いるか!?」
大きな声を出して入ってきたのはサザキだった。忍人とカリガネの姿を認めてうお、と奇
妙な声を出す。
「…何やってんだ、二人して」
「別に」
カリガネの答えは素っ気ない。
「…二人そろうと、何の話するんだ?」
「いや、特に何も」
忍人も淡々と応じる。
「……えーと」
「……」
「……」
がしがしがし、とサザキは頭をかいた。
「まあいいや。…那岐知らないか?」
「知らん」
けろりとカリガネは言ったが、サザキはあっさり、ああそうかい、といなして縁の下をの
ぞき込んだ。忍人がだめ押しでここにはいないと言う暇さえなかった。
「やっぱりいた」
にんまりサザキが笑うと、
「…なんで、カリガネが知らないって言ったのにここをのぞくんだよ…」
那岐が頭を抱える。サザキはその那岐の問いに自信満々に答えた。
「カリガネの右の羽が動いたからだ」
忍人は少し目を見開いた。サザキは忍人と視線を合わせて、肩をすくめる。
「カリガネは、嘘つくときたいてい右の羽がぴくっとすんだよ」
言われたカリガネはむっとしている。たぶん、そんなことはないつもりでいるのだろう。
「…那岐も、見つけられてそんなにいやがるなよ。落ち込むだろう、俺が」
「だって、また何かに巻き込むつもりだろう」
サザキはがしがしがし、とまた頭をかいた。
「…今日は違う。…もうすぐ雨が降るから中に入れって言いに来ただけだ」
そう言って、サザキも空を見た。忍人はつられてまた空を見上げる。…相変わらず、抜け
るような青空なのに。
「急に来そうだからな。…お前じゃ不意打ち食らうかと思って。…まあ、カリガネがいる
なら俺がわざわざ来るまでもなかったか」
「………」
那岐は頭を抱えるのをやめた。…縁の下で立ち上がる。
「…ほんとに降るのか?」
「降るさ。…もうずいぶん、雨が近くなった」
カリガネもうなずく。彼の目にも見えているのだろう。
「…早く戻れ」
カリガネに言われ、サザキに手を差し出されて、那岐はしぶしぶという顔でサザキの手に
つかまった。一瞬でサザキは那岐の体を引っ張り上げ、勢い余って、どぉん、と那岐の体
は堅庭の地面に転がる。
起き上がるなり那岐はかみついた。
「むちゃくちゃすんなよ、鳥!」
「鳥って言うな!てぇか、お前が軽いのが悪いんだ!なんでそんな軽いんだ、骨!」
「骨って言うな!」
「じゃあ枝!」
「枝じゃないー!!」
忍人は額を押さえた。見ると、横でカリガネも同じ姿勢をしている。
「…君も苦労するな」
「…慣れたが、…時々、見捨てようかと思うことがある」
ため息一つついて、カリガネはサザキを促した。
「あと五十歩で来る」
「うお、ほんとだ。…走れ、那岐!」
言うよりも早く、サザキは那岐を小脇に抱えて走り出した。忍人が南の空を振り返ると、
今まで全くなかった大きな黒い雲が、驚くほどの速さで近づいてくる。カリガネに背を押
され、忍人も走り出した。4人が船内に走り込んで扉を閉めたとたん、がらがらがら、と
いう音がして雷が落ち、それと同時に大粒の雨が堅庭をたたきつける音が響き始めた。
「…うわあ」
さすがの那岐も言葉を失っている。
「どうだ、すごいだろう」
サザキは妙にうれしそうに笑っている。カリガネはそのサザキの肩をたたいて、
「茶を淹れる」
と告げ、忍人を振り返った。
「…よければ、那岐と君も」
「…ああ、ご相伴にあずかろう。…この降りでは、することがない」
カリガネは静かな笑みを浮かべて、三人の先に立って歩き出した。後ろから歩くサザキが
えらそうに、
「うまいのを淹れろよ、カリガネ!」
と言うと、
「…お前にはとびきり苦いのを淹れてやる」
むすっとした声で背を向けたままカリガネは応じたが、…その瞬間、カリガネの右の羽が
かすかに動いたのを見て、忍人は静かに笑った。


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