生太刀

その日、熊野の空は青く晴れ渡っていた。

千尋は天岩楯へよじのぼろうとしていた。先に岩の上に立っていた忍人が、手をさしのべ
て助けてくれる。
「…ありがとう、ございます、よいしょ」
よいしょ、を付け加えてしまったのが情けないが、なんとか岩の上にたどり着いて、千尋
はほっと息をついた。
「前はこんなに大変じゃなかった気がするのにな」
以前、天鳥船で戦っていた頃にも一度ここに来たことがある。そのときはもう少したやす
く登れた気がするのに、と千尋が唇をとがらせると、忍人が少しおかしそうに唇をゆがめ
た。
「…?なんですか?」
「あのときとは服装が違うだろう」
「………あ」
……そうだった。
以前は戦いの中だということもあって、いつももっと動きやすい服装をしていた。足だっ
て高く上げられた。今は女王陛下として、さすがに御幸の最中なので正装はしないまでも、
それなりに威儀を正した格好でいなければならない。足をさらして走り回ったら、狭井君
あたりが卒倒するだろう。……布都彦もするかもしれない。
「大丈夫か?」
気遣われて、千尋は思わず相手の顔を見直した。
「……忍人さんこそ、辛くないですか?…結構山道、厳しかったでしょう」
「何が何でも俺と行くと言い張った相手に気遣われては、俺も世話はない」
「……はい、ごめんなさい」
しょぼんと千尋がうなだれると、忍人がやわらかく笑ってその頭にそっと手を置いた。
「…大丈夫だ。冬の間少し調子が悪かったが、温かくなってからはずいぶん体も楽になっ
た。朝の鍛錬も再開したし、遠夜も毎日いろいろとがんばってくれている」
冗談ぶって顔をしかめてみせる。
「効き目はともかく、味の方にももう少し気を配ってくれるともっとありがたいが」
「良薬口に苦しというんですよ」
「……君があれを飲まされても同じことを言えたら、その箴言を聞き入れる」
……辛抱強い忍人がここまで言うのだから、よほどの味なのだろう。…確かに、一度遠夜
が忍人のところに薬湯を運ぶ途中に出くわしたことがあるが、飲んでないので味はわから
ないけれども、とにかくものすごい匂いだった。
「…とりあえず、今気にしてやるべきは俺ではなく那岐だと思うが」
忍人がそう言ったとたん、まるではかったかのようなタイミングで、ものすごいくしゃみ
の音が聞こえた。
………那岐だ。
千尋が天岩楯に行幸すると言ったとき、信じられない、と真っ先に反対したのは那岐だっ
た。危険だから、とかそういう理由ではない。
「花粉の原産地じゃないか!!」
……那岐は、杉花粉症なのだ。
「なんでこの時期に熊野に行幸するんだ。信じられない!」
…今は初春だ。梅が開き、桃がほころび始める季節。……そして、杉の花粉の全盛期…。
この天岩楯の周辺にもいくつか杉林は散見されたが、林のそばばかりでなく、熊野全域が
この時期杉花粉のもやのなかにあるようなものだった。
…花粉症持ちには、地獄のような空間である。
「おかしいなあ」
千尋は首をひねる。
「花粉は風で飛んでしまうから、意外と木が植わっている場所では花粉症の人は少ないっ
て聞いたんだけどなあ」
「……まあ、…飛んで行くにしても、生産されているのはここだから」
真面目に忍人が千尋の疑問に応じる。
はくしょん!!…と、またすごいくしゃみの音がした。
千尋にどうしても、と請われて、一応ついてはきた那岐だったが、輿の外に出たとたんに
猛烈なくしゃみを始めてしまって、どうにもここからは出られない、というので、やむな
く輿の中でお留守番なのだった。
「しかし、…なぜここまで那岐と俺を連れてくることにこだわったんだ、陛下。…俺はと
もかく、この状況では那岐は留守番をさせてやってもよかっただろうに。……布都彦は今
筑紫の治安確認に行っているから急には呼び戻せないにしても、遠夜が供でもかまわなか
ったのではないか?」
陛下、と呼びかけられて、千尋は思わず首をすくめた。
「誰もいないんだから、千尋でいいですよ。…来たかったんです、那岐と忍人さんとここ
に」
「…この時期に?」
「……ええ。春に」
忍人がまた少し物問いたげに千尋を見る。千尋はやわらかく微笑んで、座りませんか、と
二人が立つ岩を示した。
…忍人は言われるがまま、岩の上に腰を下ろす。千尋もその隣にちょこんと座り込んだ。
こうしてここに座ると、あの日柊と話したことを思い出す。…千尋は岩のざらざらした表
面をなでながら、まっすぐに前を向いた。
「…私は、…まだ少し記憶が曖昧みたいで。…姉様の出奔がいつだったか、はっきりとは
思い出せない。だけど、一つだけ思い出したことがあるんです」
ここに来る前に手折ってきた、堅いつぼみの一枝をそっと撫でて。
「姉様が行ってしまった日、…闇の中なのに、宮の中庭に植えられた淡い桃色の桃の花が
一輪だけひらいているのがくっきりと見えたこと」
覚え間違いかもしれないけど、でも確かにそれだけ覚えてる。
「だから、今ここに来たかった。姉様が羽張彦さんと柊と一緒に来たという、この場所に」
膝を抱えて、ゆるゆると空を見上げる。
あの戦いが終わって、王位を継承して。風早と柊がどこかに消えてしまって。もう一年が
たってしまった。
「時々考えます。……姉様は二人のこと、どう思っていたのかしらって」
「……?」
忍人が首をかしげる。千尋は笑って、言葉を続けようとした、…そのときだった。
「………!!」
その瞬間までまったく気配がなかった場所に、突如としてむくむくと岩の塊が立ち上がっ
た。とっさのことで身構えることすら出来ない千尋を忍人が背にかばう。
「……まさか、……荒魂!?」
「そのようだな」
岩塊のようなこの荒魂とは、何回か戦ったことがある。油断ならない相手だ。だが、禍日
神の消滅で、荒魂は、少なくとも中つ国からは消滅したと思っていたのに、なぜ、ここに。
なぜ今。
すらり、と忍人が刀を抜いたのを見て、千尋は悲鳴のような声を上げた。
「駄目です、忍人さん!刀を使わないで!」
「……」
「駄目、絶対駄目!!那岐のところまで戻りましょう!お願い止めて!」
叫び続ける千尋に背を向けたまま、忍人は冷静に言った。
「無駄だ。…こいつは土のものだ。俺とも那岐とも君とも比和だ。……それに、…動いた
瞬間に、勝負はついてしまう」
「やめ…!」
千尋がもう一度叫ぼうとしたとき、岩塊が動いた。……そして忍人も。
「魂を砕き、うなれ漆黒の刃。…破魂刀」
忍人の刀から青黒い炎が立ち上る。その炎が一瞬で岩塊を切り裂き消滅させた後、忍人が
静かにくずおれるのを、千尋は指一本動かせずに凝視した。
まるでスローモーションのような長い長い時間に思えたが、実際はほんの一瞬。
くずおれた忍人の前髪がさらりと岩に触れたその瞬間に。
千尋は長く絶望的な悲鳴を上げた。

輿の中で、ようやく涙と鼻水とくしゃみを那岐が押さえ込んだときに、その悲鳴は聞こえ
てきた。
尋常のものではない。
顔をこわばらせる那岐の背を悪寒のようなものが駆け上っていく。
条件反射で輿の外へ飛び出す。花粉のことなど忘れていた。不思議とくしゃみも何も出な
い。
いつもなら文句を言いながらたらたらと歩いただろう山道を駆け上がり、天岩楯の岩によ
じ登り、岩上に立ち上がる。
そこに、呆然と目を見開いたままただ涙を流し続ける千尋と、刀を手に、動かない忍人が
いた。
「……!」
何があった、と那岐は聞かなかった。この状況を目で見て、そんなことを問うのは愚かだ
し、そんなことをしている場合ではない。
那岐は忍人がいつも身につけていた玉を飾り紐から引きちぎった。そして、
「千尋!」
手加減せずに背をたたく。
「千尋、僕だ!正気に戻れ、千尋!時間がない!」
二度、三度。ようやく、はっ、と千尋の目に焦点が戻った。
「な、…ぎ?」
「僕だよ」
「那岐、……那岐、どうしよう、忍人さんが、忍人さんが…!」
千尋が再び惑乱しそうになるのを、ぱん、と両手をたたくことで那岐は止めた。
「見ればわかる。大丈夫、ここは熊野だ。死者の国だ。黄泉国への道はたくさんつながっ
ている」
時間がないんだ、千尋。いつもの君に戻ってくれ。
「僕らは忍人を取り返しに行かなきゃならない」
「…取り返す」
「ああ、そうだ。…僕らが二人そろえば必ず忍人を取り返せる」
行こう、千尋。……時間が惜しい。
千尋の目に、正気が戻った。…力強くうなずく瞳を見て、那岐は背を翻した。
……黄泉国への道を、探さなければならない。
手をつないで、二人は駆けた。

野原の真ん中に細く続く一本道を、忍人は歩いていた。初めて通る場所のはずなのに、な
ぜか見覚えがある気がして、それが少し不思議だ。
人は誰もいない。鳥や獣の気配もない。
やがて行く手に鬱蒼と茂る森が見えてきた。道はその中へ続いているようだ。
このまま進んでいいのか。
忍人がそう逡巡した時だった。
森の入口に人影が見えた。……一つ、…二つ。
誘われるように近づく。二人とも、日の光のような金色の髪をしている。森をのぞき込ん
で忍人に背を向けていた二人は、近づく気配を悟ってか、同時にゆっくりと振り返った。
…忍人は、はっとした。
「…やあ、忍人」
面倒くさそうに言う彼と、
「来たんですね、忍人さん」
そう言って花のように笑う彼女。
声も表情も、ふとした手の仕草までうり二つだ。…だが。
忍人はうっすらと笑った。
「……ああ、…お前たちか」
以前に会ったときは、遠目こそうり二つだったが、側に寄ってみてみればまったく違う、
木偶人形のようだったのに。
忍人はゆるゆると周囲を見回して、
「…そうか。…俺の魂は尽きたのか」
今初めて気がついた、という顔をする。
那岐によく似た男は、呆れた様子で鼻を鳴らした。
「よく言うよ。岩楯の上で僕らを使ったとき、覚悟したんじゃないの?」
姫によく似た女は、小首をかしげてみせる。
「まだ本当に尽きたわけじゃありませんよ。最後のそのひとかけら。たった今使い切った
ばかりのそのひとかけらは、まだ取っていません。…もうすぐ消えるけど」
さらりと恐ろしいことを言いながら、ね、行きましょう、と笑って彼女は忍人の手を取っ
た。まるで、若菜摘みに誘うかように。
「…あなたの魂が消えるとき、私たちはあなたの望む姿で迎えに来ると言った。……ねえ、
忍人さん」
「忍人」
二人はふと、声を揃える。
「「…あなたの願いは、叶った?」」
忍人は眉をひそめて、苦く笑った。
「……ああ、…たぶん」

師匠と暮らしたときに、熊野の地理について学ぶ機会があった。そのときは、師匠の庵か
ら出ることなど考えていなくて、右から左へ聞き流していたような気がしていたが。
……覚えているもんだな。
那岐は苦く笑いながら、千尋の手を引いて道を進む。
目の前に洞窟が見えてくる。鬼道を使う那岐には、この世ならぬものの気配は身近だ。
……間違いない、あそこだ、と脊髄反射のように覚る。
「行こう、千尋」
洞窟の中をしばらく進むと、不思議なことに突然外に出た。
……いや、本当の外かどうかはわからない。外だ、と思ったのは、道が森の中に入ったか
らだ。洞窟の中に、こんなに鬱蒼とした森が繁るだろうか。木は梢が見えないほど高く伸
び、どこまでも広がっている。
道を外したはずはない。何より一本道だった。今も、たった一つの道をたどり続けている。
…いや、たどり続けているはずだ。
………惑わされたか?
那岐がそう思ったとき、どこからか霧が忍び寄ってきた。
まずい、と那岐が舌打ちしそうになったとき、千尋がぽつりと、あ、と言った。
「…千尋?」
「私、…ここを知ってる」
「……え?」
それまでずっと那岐に手を引かれて後からついてきていた千尋が、ふいに彼の前に出た。
「知ってるわ。前に来た。……あの霧の奥で、破魂刀と出会ったの」
強い瞳で那岐を振り返り、来て、と手を差し出す。その手を握り返すと、今度は千尋が前
に立って道をたどりだした。
霧の中、道にも絡んだ木の根が張りだして歩きにくくなる。だが千尋は迷わずに歩き続け
る。まるで何かに導かれているかのようだ、と那岐は思う。
……いや、実際に導かれているのかもしれない。
いつ取り出したのか、彼女は那岐と手をつないでいない方の左手にしっかりと天鹿児弓を
握りしめていた。その弓の先がかすかに光っている。
何かと思ったら、弓の先に結ばれた瑠璃色の紐が光っているのだった。
前には、あんな紐は弓に結ばれていなかったと思う。そもそも弓というのは非常にデリケ
ートな武器だ。少しでも重さが変われば狙いが狂う。何故、あんなものを。
……まるでその那岐の心の中の疑問が耳に入ったかのように、千尋が言った。
「…遠夜にもらったの」
「…え?」
「遠夜にもらった勾玉に、この紐が結んであった。…遠夜は、忍人さんにあげた勾玉にも
同じ紐が結んであるんだと言っていたわ。…だからもしやと思って、さっき歩いている間
に取り出して弓に結んでみたの。……そうしたら、この紐が勝手に揺れる。那岐が迷うと
きでも、指し示すようにこちらだよと先を示して揺れていたの」
きっとこの紐は、惹かれているのだと思う。忍人さんのいる場所に。
「だから、大丈夫。…この道で合ってる」
きっぱりと言って、千尋はまた道を急いだ。手を引かれて歩きながら、那岐は何かが胸に
迫るのを感じた。
誰もが。
誰もが忍人を救いたいと思っている。
破魂刀の贄にしてはならないと思っている。
那岐は、忍人の飾り紐から取ってきた玉をぎゅっと握りしめた。
……それは、人として生きる僕らだけではなく。

「何故僕たちが君を選んだか、わかるかい?忍人」
のんびりと、いやいっそだらだらと、という様子で歩きながら、那岐に似た男は問うてき
た。
「…俺があのとき苦境にあって、つけ込みやすかったからではないのか」
あっさりと忍人が言うと、ちがうね、と彼は笑った。
「僕らはずっと君だけを待っていた。君が僕らを必要とする時をずっと待っていた」
「私たちが取り込むのは、あなたの魂でなければならなかった」
後を引き取るように、千尋に似た女が言う。
「あなたが、玄武の選んだ地の玄武だから」
「………?」
思いがけない言葉に、忍人の眉が寄る。
自分は確かに、玄武の加護を受け、千尋を守る運命にあった者らしい。だが、戦いの中で
遠夜と共に玄武の降臨を願う以外に、自分が玄武の加護を受けた者だという認識はあまり
ない。
「…それが、どうしたと言うんだ」
忍人の言葉に、ふふふ、と二人はおかしそうに笑い合った。
「……それを説明するには、私たちの元々の姿から説明しないといけないわ」
「どうせ、黄泉の国までもう少しかかる。道々の無沙汰を紛らわすのにちょうどいいだろ
う。話そうか、忍人」
男は、那岐と同じで面倒くさそうなそぶりをする割に、話し好きのようだ。けろりとした
顔で話し始めた。
「…僕たちは、元々、生太刀という名前の太刀だったんだ」
男が言ったその名前に、忍人も聞き覚えがあった。生弓矢と共に、王家の宝だったはずだ。
かつて、中つ国よりも前、神々がこの豊葦原を支配していたとき、一人の国津神が様々な
冒険の果てに手にした太刀だと。彼はそれで自らの多くの兄弟神を打ち倒し、豊葦原の王
となったのだと聞いている。
「私たちは人の子の命を守り、現身に姿を現さぬ神を斬るための太刀なの。…それなのに、
あの中つ国の戦の混乱の最中、…誰かが私たちを人の子の血で汚した」
「本当なら、僕たちに人の子は斬れない。だが、飛び散った血で穢された僕たちは暴走し、
…いつしか人の子の命をも奪ってしまった」
「…それで、私たち、おかしくなってしまったの」
くすくすと女が笑う。
「もう、人の子を守ることが出来なくなってしまったの」
触れても、人の子の命を取ることはないはずだった。それなのにすらりと触れただけで私
たちは人の子の命を吸い取ってしまう。
「僕たちは、戻りたかった。もとの生太刀に。人の命を取るのではなく、守る存在に。だ
から」
「毒を食らわば皿までという言葉を知ってる?」
「僕たちは徹底的にやることにした」
「死の奥底を見ようと思った。多くの命を奪い、血を浴びて、本当の死にたどり着いたら、
…私たち、裏返るんじゃないかと思った」
「…裏返る?」
黙って聞いていた忍人がそこで口を挟んだ。
「そう。…裏の裏は表だ。…ならば、死の死は生ではないか?」
那岐に似た男はそう言う。忍人は首を振った。何を言っているのかわからない。
「玄武は死と再生を司る。天の玄武が司るのが再生、そして地の玄武が司るのが死。……
多くの命を奪って、僕たちは魂の飽和状態になった。最後に死を司る地の玄武の君の魂を
得れば、僕たちは死を突き抜けて、きっとまた生命を司る存在に戻ることが出来る」
……狂っている、と忍人は思った。
彼らの理屈が理解できない。忍人の命を取ることで真実彼らが生太刀に戻ることが叶うと
は思えない。
彼らは狂ってしまっているのだ。生太刀から破魂刀となり、荒魂となった時点で、彼らは
冷静な判断など出来なくなってしまったのだ。贄など、忍人でなくとも、他の誰でも良か
ったはずだ。彼らがそう思いこんでいるだけなのだ。
……だが、確かな事実もある。
忍人が彼らと誓約をしたこと。…そして、中つ国を取り戻すのに、彼らの力が確かに役に
立ったということだ。
だから、…彼らに魂の最後のひとかけらをくれてやることに、ためらいはない。
そう自身を納得させて、忍人は、遠く自分を呼ぶ声に聞こえないふりをした。
……行くな、手放すな、と、…誰かが自分を呼んでいる。
「…ああ、ここだ。…ここが黄泉の底」
破魂刀たちは足を止めた。…必然的に忍人の足も止まる。
二人の手が、すうっと忍人に伸びてくる。
「その最後の輝きを、…忍人」

「あそこ…!」
千尋が指を指した先を見て、那岐も足を速めた。
表情のない黒髪の男と女が、ぼんやりと立っている。その足元に、忍人が横たわっていた。
本物の体ではない。
…あれが、魂の器なんだ、と那岐は思った。ぐ、ともう一度勾玉を握りしめる。那岐が首
からかけた二連の玉もじわりと光った。
「破魂刀」
呼びかけると、ぼんやりと二人はこちらを見た。
「忍人さん!」
叫んで千尋は忍人にすがりつく。
男の方がぼんやりと言った。
「ほしいならくれてやろう、女王陛下。…その魂の器は、どうせ空じゃ」
「空じゃ。…地の玄武の魂は全て我らが食らった。…それなのに、なぜ」
那岐は千尋と千尋がすがりついている忍人の魂の器を背にかばい、破魂刀に向き合った。
手はずっと、勾玉をきつく握りしめたままだ。
「……聞け、鬼道使いよ」
ぼんやりした顔のまま、男は話し始めた。
「我らは生を司る刀だった。…神を殺し、人の子の命を守る刀だった」
那岐ははっとする。
「…穢れを受け、破魂刀という荒ぶる姿になった我々は、死を突き詰めることで生へと戻
ろうとした。たくさんの死を知り、最後に地の玄武の魂を取ることで、われらは生太刀の
姿へ戻ろうと思った。…戻れるはずだった」
千尋がかっとなった様子で言い返した。
「たくさんの命を奪っておいて、どうして生を司る刀に戻れるなんて思うの!?」
その肩に手を置いて、那岐は静かな声で言った。
「いいや、千尋。…鬼道の理屈としては、やつらの言うことは正しいんだ。僕たちは、全
てのことに因果があり、何事も突き詰めていくと逆の事象になると考える。東を目指して
どこまでも行くといつしか元いた場所の西に出る。西を目指していけば東に出る。生を突
き詰めていけば、その最後には必ず死が待ち、死を突き詰めていくとやがて再生し、また
生まれる。そうやって世界は回るというのが鬼道の考え方だ。……玄武が司る死と再生の
うち、死は地の玄武の領分だ」
ああ、と那岐は思う。
「だから、忍人を贄に選んだのか……」
そんな状況ではないのに、那岐はひどく得心がいったような気がした。何故忍人だったの
かと思ったこともあった。だが、忍人でなければならなかったのだ。…破魂刀の贄は誰で
も良かったわけではなく、忍人でなければならなかった。
「理屈は正しい、とお前も思うか、鬼道使い」
男は泣き笑いのような顔になった。女はもう半分泣いているようだ。
「だが我らは生太刀には戻れなかった。…何が足りなかったのだ」
那岐は眉をひそめた。
「…今なら、聞けば隠さず教えるか?」
那岐の少し思い詰めた声に、破魂刀たちは、ぽかんとした顔で向き直った。
「…何を」
「お前たちはかつて、僕の持つ神宝と千尋が持つ神宝がそろえば、あるいは自分たちも忍
人も救われるかもしれないと言った。……どうすれば救えるんだ」
男ははっとした顔になった。…が、またすぐに顔をゆがめる。
「それも、我らの浅知恵だったのだろう。それに、将軍の魂を削りきった今となっては、
お前たちが我らのためにその力を使ってくれるなどと期待はしていない」
「愚痴を聞きたいわけじゃない」
ぴしりと那岐は言った。
「僕に教える気があるのかないのか、どっちなんだ。お前たちは、残された可能性に賭け
てみたいとは思わないのか」
女がすがるような眼差しになる。
「…我らを救ってくれるのか」
「救うとも救わないとも言っていない。まず話せと言っている」
女は苦しそうに眉をひそめたが、ぼそぼそと話し始めた。
「我らは、穢れを受けたときに、刀の本体と我ら荒ぶる意識とに分裂してしまった。我々
二人は穢れ故、黄泉の国から出ることを許されない。だが、お前の持つその死反玉さえあ
れば」
と言って那岐の胸元を指さした。那岐は答えるようにぐっと首元の玉を握りしめる。傍ら
で千尋は、眉をひそめたまま成り行きを見つめている。破魂刀と那岐のやりとりは理解で
きないが、那岐は何か策を持っているはずだ。…その証拠に、いつも面倒くさそうにして
いる彼の瞳が今は、破魂刀の言葉を一言も聞きもらすまいとするかのように、炯々と光っ
ている。
「我らは王の宝。王の族(うから)とみなされるはずだ。ならば、死反玉があれば、我ら
は黄泉比良坂を越えることが出来る、…はずなのだ」
那岐はすうっと息を吸った。
…そういうことか。
そういうことだったのか。
「…やっとわかった」
那岐はぐっと唇を噛む。
「千尋の天鹿児弓と天羽々矢さえあれば、お前たち破魂刀を浄化できるはずだと僕は思っ
た。だが、以前千尋がお前たちに言った、『僕たち二人がそろえば』という言葉がずっと
引っかかっていたんだ。天鹿児弓と天羽々矢だけでお前たちを浄化できるなら、僕は必要
ないはずなのに」
天鹿児弓での破魂刀浄化を試すことは簡単だった。だが思い切れなかった。天羽々矢は一
条しかない。試してもし失敗したら、…二度と忍人を救えないかもしれない。…それが怖
かった。怖くて踏み切れなかった。
「…お前たち、破魂刀の意識も救わなければ、完全なる生太刀に戻すことは出来ない。…
そういうことか」
「…だが、…それが浅知恵だったのかもしれないと言っている」
女の言葉を否定するかのように、男は首を横に振った。
「我らはまず自分たちの力で元に戻ろうと思った。刀に多くの血を吸わせ、我らは地の玄
武の魂を得る。そうすることで、二つの姿が共に死の極みを越え、生の姿へ戻ると信じた。
だがそれは間違っていた」
地の玄武の魂を全て奪っても、我らは死の極みを越えることが出来なかった。
「…我らの考えは間違っていたのだ」
男が嗤う。
那岐は背筋を伸ばした。
ふうっと、…空気にぴりぴりとしたものがたちこめていくのを千尋は感じ取った。静電気
のような、ひびわれる直前の薄い硝子のような。
「…いいや。…お前たちの考えは、おそらく間違ってはいない」
静かな那岐の声を聞いて、二人はぽかんとした顔になった。
「…何を」
「そこを見や。魂の容れ物は空であろう。…我らは、将軍の魂を全て奪った。それなのに
この場所に縛られている」
那岐はぐっと腹に力を込め、息を吸った。決して手放してはならないと、拳の中にあの勾
玉を握りしめて。

「…いいや。…忍人の魂は、ほんのひとかけらだが、…まだここにある」

瑠璃の勾玉。
気多の浜で、亀の卵穴の中にあったもの。天の玄武である遠夜に託された玉。それは、自
ら加護を与えた者の命を守るため、玄武がこっそりと隠したもの。
忍人を守りたいと思っているのは、僕らだけではないのだ。

「この勾玉の中に、玄武は忍人の魂のひとかけらを隠している。お前たちが忍人の全てを
飲み込んでしまわぬよう。……万が一のことが起こっても、忍人を救う術が残されるよう
に」

その瞬間、千尋は、はりはり、と何かが砕けた気がした。

ぶわ、と破魂刀たちの髪が逆立つ。伸び上がるようにして、
「それを寄越せ!」
「寄越せ!!」
ひゅう、と長く伸びた影の形になって、那岐に、正確には那岐の手元に襲いかかってきた。
那岐は千尋と忍人の魂の容れ物を背にかばったまま、首から引きちぎるようにして死反玉
を外し、
「止まれ」
襲い来る破魂刀たちの影の前に、がっ、とそれを突き出した。那岐は大声で叫んだわけで
はない。むしろ静かな声だったが、何者をも押しとどめるような低く重い威厳がこもって
いた。気圧されてか、伸び上がったまま影がその場で固まる。
「この魂のかけらをお前たちに渡す気はない。お前たちは浄化も叶わず、やがてここで朽
ち去るだろう。…だが、お前たちは生太刀に戻りたいのではないのか」
ひくりと影が二つとも震えた。
「浄化され、この黄泉の国に縛られた鎖から解き放たれたいのではないのか」
重ねる那岐の声は冷厳だ。
「ここから出たい」
泣きそうな声ですがるように言ったのは女の方だった。
「生太刀に戻りたい」
押し殺した声でうめいたのは男の方だった。
那岐は二つの影をぎっと睨み据える。
「…ならば、…僕の言うことを聞け」
自分をかばう那岐の手が、…忍人の勾玉を握ったままのその手が、かすかに震えているこ
とに千尋は気付いた。ここで失策を犯してはならないと、彼が緊張していることを知る。
「……我らに、何を求める」
うなるように、男が言う。逆に那岐を脅し返すような声だった。
…負けないで、那岐。
千尋は、何も出来ない自分が歯がゆくて、せめてもと、自分をかばってくれる那岐の手に
両の手をそっと添えた。
ひくりと、那岐の背が震えた。…それからゆっくりと弛緩する。…肩の力が抜ける。ふう
っ、と一つ息を吐いて。
彼は言った。
「お前たちが取り込んだ忍人の魂を全て返せ」
影たちは目を見開き、…男の方が鼻で笑った。
「…それをどうする。…抜けた魂は、今更、器には戻らぬぞ」
那岐はしかし、きっぱりと首を横に振って。
「戻す。…戻せる。この玉の力があれば」
まだ首からかけたままの玉にそっと触れてみせた。
「…これは生玉だ。死反玉と対になる、王家の宝だ。千尋が即位してからずっと、僕が借
り受けている。…いつ何が起こってもすぐに使えるように」

死反玉と対になる生玉は、あくがれいずる魂を元の体に戻すことができる玉。人を生かす
ための玉だ。
それは、那岐の首にある玉が死反玉であると教えてくれたとき、ついでのように朱雀が教
えてくれたことだ。
何かの役に立つかもしれん。…神子から借り受けておくと良いぞ、那岐。

何かの役に、どころではない。朱雀はちゃんとわかっていて教えたのだと、竹簡を調べ始
めてすぐに那岐は気付いた。忍人を元の体にするためには、どうしてもこの玉が必要なの
だ。彼の体から奪われた魂を元に戻すにはこの玉の力を借りるしかなく、しかもその玉を
使えるのは王家の血を引く者だけ。
君には出来る。…夢の中で忍人が言った言葉を那岐は今改めてかみしめる。
もちろん、今ここで、瑠璃の勾玉から忍人の魂を取り出して、この魂の器に押し込むこと
も出来る。だがそれでは、忍人の魂はほとんどが失われたままだ。生き返っても、また寝
たり起きたりの毎日で過ごさなくてはならない。それでは今までと変わらない。
那岐は破魂刀と交渉したかった。彼らが持つ忍人の魂を全て奪い返したかった。だからず
っと、彼らに会う方法を探し続けていた。
結局こんな形でしか会えなかったが、…だからこそ、失敗は許されない。なんとしても彼
らから忍人の魂を奪い返す。

破魂刀たちは顔を見合わせ、それから向き直ってじっと那岐の首の玉を見つめた。
「…その輝きは確かに生玉」
「なるほど、生玉ならば将軍の魂は戻せよう」
「…しかし」
砂を噛むような顔をして、男は言いよどんだ。
「我らが魂を返した後、お前が約束を違えぬという証はどこにある」
その言葉に、那岐は憐れむような目を刀たちに向けた。
「お前たちは、人の子の命を守ると言いながら、何故そんなにも人を信じない。……聞く
が、忍人が一度でもお前たちに不義理だったことがあるか?」
気まずそうな顔で、刀たちは顔を見合わせ、押し黙った。
那岐は憐憫の眼差しをやや和らげ、…まあ、そうくるだろうとは思っていたさ、と小さな
声でつぶやく。
「ではこうしよう、破魂刀。僕はまず、死反玉の力で黄泉に縛られているお前たちを解き
放ち、ともに地上へ戻る。地上でお前たちは忍人の魂を僕らに返し、僕は忍人の魂を体に
戻す。…しかるのちに、千尋の弓矢で刀そのものを浄化する」
女は何も言わなかったが静かに目を伏せた。…男は深くうなずいた。
「お前の言うとおりに」
「商談成立だな。…じゃあ、戻ろうか?」
散歩から家に戻るような気安さでそう言って、那岐は手に持ったままだった死反玉を高く
掲げた。
光がほとばしる。
まぶしさにぎゅっと目を閉じた千尋は、何か固いものが割れるぱきん、という硬質な音を
聞いた気がした。その耳元で那岐がささやく。
「…そのまま目を閉じておいで、千尋。何があっても後ろを振り向いちゃいけない。前だ
けを見て進むんだ、いいね?」
緊張して肩をこわばらせ、こくん、と小さくうなずくと、那岐がかすかに笑う気配がした。
「…大丈夫。僕の手を握って。…さ、行こう」
手を引かれるがまま、ぐっと目を閉じて、千尋は地上を目指した。

天岩楯に戻ると、幽霊のようだった破魂刀の二人は、すうっと吸い込まれるように刀の中
に消えた。忍人の魂の器といわれたものも、気付けばその影も見あたらない。千尋が焦っ
て辺りを見回すと、まるで消えた代わりにとでもいうように、藍色に、瑠璃色に、りんと
青く深く輝く光の玉が宙に浮かぶ。
千尋は以前、遠夜が言った言葉を思い出した。
……あれは、忍人の髪の色で、忍人の魂の色。
ああ、…これがそうなんだ。
千尋はまぶしいものを見るときのように、少しだけ瞳をすがめてその輝きを見つめた。
…きれいだわ、とぼんやり思う。そしてなぜだか、泣きたくなるほどうれしい。痛いくら
い愛おしい。
那岐は壊れ物にさわるようにおっかなびっくりその光に手を伸ばし、そうっと腕の中に引
き寄せて、愛おしげにかき抱いた。
それから死反玉を首に戻し、逆に生玉を手にとって、高く掲げる。
千尋には聞き取れない言葉で何事か彼が呪を唱え始めると、生玉からやわらかい温かい光
がこぼれだして、忍人の体を包んでいく。
まるでその光に引き寄せられるように、藍色の光は忍人の体に近づいていって、…すうっ
と体に吸い込まれて消えた。

……。

生玉の光も、忍人の体を包んでいた光も消える。

……。

一呼吸、二呼吸。

……。

息が詰まるか、と、千尋がつばを飲み込もうとしたとき。

…うっすらと、忍人の目が開いた。
ぱた、ぱた、と大きく二度まばたき、掌も二度、開いて、閉じて、開いて、閉じて。
その右手がぐっと拳を握って、…左手を体を支えるように岩について、ゆっくりと忍人は
起き上がった。
ゆるり首をめぐらせて、ぼんやりと那岐と千尋を見る。…その視線が、主に那岐の上でじ
っと止まって。
「……あれ?」
彼には珍しい、ほにゃ、とした声を出した。
「…那岐、…くしゃみは?」
そうつぶやいた瞬間、那岐が拳を振り上げたので、千尋は慌ててその手にしがみついた。
「待って待って待って待って那岐待って!今、忍人さんをぐーで殴ろうとしたでしょ、ぐ
ーで!!」
「だって、生き返っていきなりくしゃみはってなんなんだよ!!そんなこと言ってる場合
か!?僕のくしゃみより自分の生死を気にしろよ!!」
「何となくその気持ちはわかるけど、今の今まで死んでた人に、ぐーのパンチはやーめー
てー!!」
忍人は二人のやりとりにぱちぱちとまた何度かまばたいて、
「…そうか。…やっぱり俺は死んでいたのか」
とおっとりと言う。
那岐がまたぐーを握った。
千尋が慌てて忍人をかばい、那岐の拳を上から両手で包み込む。
かばうことで忍人に背中を向けた、その背中に、
「ありがとう」
静かな声が届いて、千尋は思わず振り返った。
那岐の手も、だらりと下がる。
忍人が、笑っている。
静かに、優しく、…けれど力強く。
初めて出会ったときのあの健やかさで。瞳だけが、共に過ごした時間の分、くつろいで柔
らかく。
…その瞳が、はっと見開かれた。
「那岐、千尋」
二人同時に名を呼ばれて、はっとして千尋は那岐を振り仰ぐ。
彼は目を見開いたまま、ぼろぼろと声もなく泣いていた。その視線が自分に降りてきて、
「…千尋」
と名を呼び、そっと頬をぬぐってくれる。
ぬぐわれる自分の頬も濡れていた。
忍人が一歩二人に近づいて、何か言おうとしたとき、…りん、と破魂刀が、多少遠慮がち
に鳴った。
那岐が苦笑混じりにむっとしてみせる。
「…無粋だな、破魂刀」
『…すまない』
音としてではなく、三人の脳裏に響くような声で、破魂刀はそう言った。
「わかってるよ。…ごめん、忘れてるわけじゃない。次は刀の浄化の番だ」
破魂刀が苦笑の気配で震える。刀の方でも、多少自分たちの余裕のなさを恥じる気持ちが
あるのだろう。
「…千尋」
那岐に呼ばれて、弓を手に取った千尋は、あの瑠璃色の糸を解いて弓の準備をしながらふ
と、
「ねえ」
刀に向かって話しかけた。
「私があなたたちを浄化したら、あなたたちはどうするの?」
破魂刀たちは、一瞬千尋の問いの意図がわからない、という風だったが、すぐに答えを返
してきた。
『まあ、宮の蔵に眠ることになろうな。…将軍と共にあっても良いが、彼は国を守る人間
だ。我らを腰に佩いて、決して我らを人の子の血で汚さぬとは誓えまい』
忍人は目をすがめるようにして笑った。否定しない。無論、そんな機会などないのが一番
だが、彼の立場上決してないとは言えない。
「一緒に宮に戻ってくれるの?じゃあ、このまますぐどこかへ消えてしまうわけではない
のね?」
『…?』
破魂刀も不思議そうにしたが、那岐と忍人も千尋が何を言いたいのかと首をかしげた。
「…千尋?」
問うたのは那岐だ。千尋はちらりとその顔を見て、すぐ視線を忍人の腰にある破魂刀に向
けた。
「私が今からあなたたちを浄化したら、あなたたちはおそらく生太刀に戻る。…そうすれ
ば、禍日神のように実体化していなくても、神を斬れるかしら?」
「…陛下!?」
忍人が少し大きな声を出した。
「何を一体…!」
「私は、龍神と話がしたい」
強い瞳で、天鹿児弓を握りしめて、千尋は言った。
「私は今まで、龍神を見たことがない。声も聞けない力不足な神子でしかない。……だけ
ど、そんな私でも、生太刀を仲立ちにすれば龍神と話が出来るのではないかと思ったの」
「…仲立ちにするというか、…斬られたくなかったら出てこいって脅す、みたいに聞こえ
たけど、僕には」
那岐が顔をゆがめるようにして笑いながら言うと、そうよ、と千尋はきっぱり肯定した。
「願って出てきてくれないなら、脅迫するわ」
「…陛下…」
忍人が額を押さえた。
困惑する人間二人に比べ、破魂刀の方は千尋のその案をおもしろがっているようだった。
『神子殿はよほど龍神に何か物申したいと見える』
『生太刀に戻ってみなければどうなるかわからぬが、…戻れたら、では龍神を呼んでみよ
う、我らの声で』
「…お願い」
こくん、と一つうなずいて、千尋は天羽々矢を取り出した。
「忍人さん、刀を岩楯の上に突き刺してもらえますか」
岩の上に寝かせたのでは照準をあわせにくくて、と言うと、忍人は素直に刀を二振り、岩
の上に突き刺した。
千尋がきり、と弓を引く。
じりり、と的を狙って。
忍人はすらりと立って、それを見ている。那岐は千尋の先の言葉を噛みしめているようで、
少し眉をしかめている。
空気が一瞬、ぴん、と張り詰めた、次の瞬間。
ひょう、と天羽々矢は光の尾を引いて飛び、あやまたず破魂刀を貫いた。
貫かれた箇所から、黒いもやのようなものが抜け出ていく。それはどんどんどんどんあふ
れ出し、光の矢の中に吸い込まれていって、…やがて、光の矢もろとも消えた。
「……成功、…したのか?」
忍人がそうつぶやいたときだった。

目を灼くような強烈な光が、その場を襲う。
ごう、と渦のような風が巻いて、三人を包み込んだ、その渦の中から声がした。
『我も乱暴な娘を神子に選んだものだ』
激しい風に腕で体をかばっていた千尋が、はっと肩をふるわせた。千尋だけではない。忍
人にも那岐にも、その声は届いた。
不意に風がやむ。
岩に突き刺さった刀の柄の上に、尾の先をちょいと触れさせて、…白い龍がそこにいた。
真珠のような光沢を持つ白い鱗が、彼が体をうねらせるたびにきらきらと光る。
『脅迫まがいのことまでして、我を呼んだは何用か』
千尋は体をかばっていた腕をおろし、まっすぐに龍神を見た。
「用件を話す前に、あなたにしなければならない話が一つあるの。…まずそれを聞いても
らえる?」
龍はおもしろがっている目をして、ひげをぴくりと震わせた。
『聞こう』
千尋がすっと背を伸ばす。息を詰める。
…その背に、忍人がそっと手を添えた。
肩の力が少し抜けて、千尋は詰めていた息を吐いた。泣きそうな顔で一瞬忍人を見ると、
またまっすぐ龍神に向き直り、…口を開く。
「一年前、橿原宮に攻め込む前の晩。…私は、天鳥船の堅庭に出て、忍人さんと話をした。
…それまでも、あの場所で忍人さんと話したことはあったけれど、夜に二人きりであの場
所で話すのは初めてだった。…はずだった」
千尋の背に置かれた忍人の手がかすかに震えたことに気付いて、那岐は忍人の表情を見や
った。
彼は眉をひそめて、不思議な表情をしていた。千尋の言を、肯定も否定もしかねる、…そ
んな顔だ。
千尋もそっと忍人の顔に視線を流し、何かを無理矢理飲み込んだときのような苦しそうな
顔で、また前に向き直る。
「……でも、私はそのとき、この場所でこうして忍人さんと話すのは、初めてじゃないと
感じた。どこかで絶対、私はこの情景を見たことがある。……けれど、何度思い返しても
そんなことはなかったはずなの。私が豊葦原に戻ってきてからその日までの間に、そんな
ことは一度も」
「…だが」
割り込むつもりはないのだろう、一人言のように、誰にも聞こえないほど小さな声で、
「…だが、確かに」
忍人がそうつぶやく。
「…そう、確かに」
その声に力を得てか、千尋の声に少し強さが増す。
「確かに、…どこかでそれはあった」
そう思った瞬間から、私の中で何かが変わった。
「玉垣での戦いも、その後の禍日神との戦いでも、自分の即位式ですらそう思った。…こ
れは初めてじゃない」
そこで不意に、千尋は少し小首をかしげた。
「私、…風早に連れて行かれた世界で、たくさん本を読んだわ。普通の小説も、恋愛もの
もファンタジーやミステリーも、…それから、SFも、たくさん」
思い出に浸る優しい表情が、また一変する。何かを糾弾するように、強い瞳で龍神を見据
える。
「……だから、気付いたの。…私は、私たちは、時を繰り返しているのかもしれないと。
……あなたの、神の力で」
『……』
無言で、ぴくりともせずに千尋の言葉を聞いていた龍神が、そこで初めて口を大きく開け
た。威嚇のようだった。
千尋は動じなかった。
「あなたの望む未来を選ばなかった私たちを、あなたはまた元に戻してやり直させている
のかもしれないと思ったの」
『……』
龍神は再び口を閉じ、しばらくの間検分するようにじっと千尋を見つめた。
千尋も口を閉ざした。龍神の答えを待つ顔で、じっと神を見つめ返す。
根負けしたのは、神だった。ひげを一回、ぴくりと震わせる。
『正面から我に問うた度胸に免じて、答えてやろう。…その通りだ。我が時を戻した』
それで?…龍は鼻を鳴らす。
『そのことで我を責めるために、わざわざ呼び出したか』
「いいえ、ちがうわ」
千尋はきっぱりと首を横に振った。
「わたしは、あなたと誓約がしたい」
『…』
龍神は、少し表情を改めたようだった。
「私たちは確かに、あなたから見ればひどく愚かで、ちっぽけなのだと思う。失敗したと
思えばすぐにくずして積み直せる積み木の城のようなものかもしれない。……でも私たち
は、積み木でも人形でもない。あなたからどう見えているとしても、私たちは、一生懸命
考えて今の世を生きている。自分たちだけの力じゃない、たしかに朱雀や玄武の力も借り
たけれど、でも、考えて考えて、大切な人を取り戻したの」
ぎゅ、とその手が忍人の服の袖を握る。もう片方の手が探るものに気付いて、那岐はそっ
と近寄り、千尋の手を握った。
「お願い」
千尋の蒼い瞳に太陽のような光が宿る。
「私たちをこれ以上試さないで。このまままっすぐ前を向いて進ませて。…この生太刀が、
誓約の立ち会いよ」
誓約の証に何をすればいいか、教えて。
『……』
龍の瞳の中を、様々な色が過ぎゆくのを那岐は見た。
驚きと蔑みと発見と哀れみと笑いと諦観と、……そして最後に、深い深い慈しみが、その
目を覆う。
『前を向いて進むと誓えるか、神子』
龍神は大きな口を開いて言った。
『どんな後悔がお前を襲っても、元に戻りたいとは思わぬか』
「……思わない」
『……』
龍神は目を閉じた。…再び開いたそこには、重々しい威厳だけが残る。
『では、この生太刀に誓え。…この生太刀を、お前が生きている間は決して再び人の子の
血で穢さぬと』
本当は、お前が生きている間、決してこの世に争いを起こすなと言いたいが、…お前の目
の届くところは限られていよう。お前の治めぬ国、手の届かぬ場所で起こる戦までお前が
防げるとは思わない。
我も甘い、…そう龍神は独りごちたようだったが、定かではない。那岐の気のせいかもし
れない。
『お前の力で、生太刀を穢れから守れ。…お前がその誓いを守る間は、我はもうお前たち
に手出しはすまい。…まっすぐ前を見て進むがいい』
「…誓うわ」
千尋のまっすぐな瞳を見て、…龍神が笑った、と思った瞬間、また岩楯の上を大きな渦の
ような風が襲う。慌てて体をかばって、はっと気付いたときには、風も龍神の姿も消えて
いた。
…ただ、岩の上に突き立てられた生太刀が残るだけ。
「………」
ぺたん、と千尋がその場に座り込んだ。傍らに、寄り添うように忍人が腰を落として片膝
をつき、那岐もべたりと座り込む。
「…君は本当に、…破格の人だな」
忍人の何よりのほめ言葉がこぼれた瞬間、…千尋の目から涙があふれ出した。

どのくらいの間、そこでぼうっとしていたのだろう。
太陽の角度が少し変わったことに気付いた那岐が、
「ねえ」
と声をかけた。
ぼんやりと千尋が那岐を振り仰ぐ。
「…そろそろ、帰ろう」
忍人が千尋に手をさしのべた。
「そうだな。…もう行こう」
「…うん」
千尋は忍人の手を借りてよろよろと立ち上がった。
「……うわあ、足に力が入らない」
「……龍神にはあんな気迫で話してたくせに、何だよ」
「あれが精一杯振り絞った気力だったのよ」
くすくすと忍人が笑いながらよれよれの千尋に肩を貸す。…何なら、背中に負うか?との
申し出は、ありがたく辞退した。さすがにそれは少し照れくさい。
けれど、久しぶりに見るきびきびした忍人の動きは小気味よくて、なんだか千尋も那岐も
うきうきしてしまう。
岩楯を降りて、輿の近くまで戻ってきたときだった。
輿の側に人影がある。
呼びに行くまで、輿の担ぎ手はここに近づかぬように指示しておいたはずだった。
一体誰が、と身構えようとして、…那岐も忍人も力を抜いた。
千尋の目が大きく見開かれる。
「…………!!」
足に力が入らない、という言葉もどこへやら、…突然走り出して、その人影にむしゃぶり
つく。悲鳴のような声でその名を呼んで。
「風早!!」
「…久しぶり、千尋」
女王陛下を抱きとめた男は、微笑んで、那岐と忍人にも手を挙げた。
「…やあ、…那岐。…元気そうだね、忍人」
「…今までどこにいた」
仏頂面になった忍人に、いやまあいろいろと、と彼は笑う。
「…誓約を見守れと言われたのでね。…戻ってきました」
那岐がはっと肩をふるわせる。
「…あんた、…まさか」
言いかけた言葉は飲み込んだ。風早が唇に人差し指を当てて、しいっ、というそぶりをし
てみせたからだ。
「…それは、…聞かないのがお約束」
「…師君と狭井君にもそれが通用すると思うか?」
忍人が苦虫を噛み潰したような顔で言うと、師君には通用しますよ、と風早は笑った。
「狭井君も、俺が役に立って、かつ中つ国に害を及ぼさないと見れば、俺の素性に関して
深追いはしませんよ。あの人はそういう人です」
那岐と忍人は顔を見合わせて、…そうかもしれない、とうなずきあう。
千尋と、那岐と忍人を順繰りに見やって、…ついでのようにぽつりと風早は付け加えた。
「…もう一人ね、…帰ってきてますよ」
忍人の肩が大きく震えた。
「…新しい未来を見たくなったそうです。途中で行き会ったんですが、ばつが悪いからと
ここには来ませんでした。先に宮に帰るそうです」
「……っ」
震える唇をきっと噛みしめた忍人が、片方の拳をぐっと握って、風早に一歩踏み出す。風
早は千尋を抱きとめていた手を片手だけ離して、忍人の肩をぽん、とたたいた。
「……殴ってやるといいですよ。…忍人にはその権利があると俺は思います」
「…なんだよそれ」
那岐が眉をしかめて、吹き出した。千尋も顔を上げて、小さく笑う。
「…行きましょう」
やがて、促す声を出したのは千尋だった。
「行きましょう。前を向いて、進むの。…誓約は守るわ。私たちが選んだ道を歩きつづけ
るために」
輿の担ぎ手を呼んできますよ、と、風早が軽い足取りで道を下っていく。千尋を輿に乗せ、
俺は帰りは歩く、と忍人は笑う。
「歩きたい気分なんだ。自分の足で、前を見て、どこまでも歩いていきたい」
輿の御簾を下ろして、…忍人は那岐に手を差し出した。
きみといっしょに。
…唇が声を出さずに、そう綴る。
差し出された手を、那岐は握った。

僕たちはもう、神の奇跡を待たない。
ここから、自分の足で歩いていく。


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