冬ごもり

風はすっかり冷たくなった。橿原宮でも数日前初雪がちらほらと舞ったが、今日はよく晴
れて気持ちのいい日で、元気のいい子供たちが庭を駆けめぐって騒いでいる。
那岐はここのところずっと書庫にこもっている。朝起きてすぐから夜眠る直前まで。
下手をすると食事も取らないと聞いた千尋が、執務の合間に眉をひそめて書庫を覗いた。
「那岐」
声をかけると、入口からは見えない隅から、「何」と無愛想ながらも返事が返る。
声のした方へ千尋が進むと、明かりとりの窓の下で、那岐が竹簡を繰っていた。あたりに
も何巻も竹簡が散乱している。
「何してるの」
「調べ物」
硬い声で聞いた千尋に、那岐は短く答える。
「朝から晩までここにいて、食事を取らないこともあるって聞いたわ。…そんなに根を詰
めてしなければならないこと?」
「まあね」
会話が面倒くさいのか、那岐の返事はひどく短い。だが悪気があってそうしているわけで
はないことは、彼が少し顔を上げて千尋を見て、苦い笑いをもらしたことでわかった。
「…時間がないから」
その言葉と、痛いような笑顔に、おぼろげながら千尋にも、那岐の調べ物が何に関するも
のであるか察せられる気がした。
…彼にそんな顔をさせるのは、一人しかいない。
「…時間がかかるなら、人を出しましょうか?」
戦乱の最中にかなり失われたとはいえ、橿原宮の書庫にある竹簡はかなりの量だ。そこへ
もってきて、天鳥船にあった竹簡も詰め込まれているから、一巻一巻見ていくだけでもか
なりの分量になるだろう。手分けをした方が、と考えた千尋の提案を、いいや、と那岐は
首を横に振って退けた。
「ありがとう。…でも、いい。関連していそうな竹簡は、ほとんど一ヶ所に集められてい
たから」
「…え」
千尋が目を丸くする。
「…だれが、そんなこと」
真顔で目をぱちくりさせた千尋の顔を見て、那岐はさっきとはちがった少し柔らかい顔で
笑う。
「書庫の整理が得意な、無器用なお節介っていったら、一人しかいないだろ」
語尾にため息のような苦笑が混じった。千尋は短く息をのむ。
……そう、…千尋の即位式前後、ずっと書庫にこもって竹簡の整理に明け暮れていたのは
柊だった。
「こんなことちまちまやるくらいなら、消えずに今ここにいてくれればいいのに」
子供のように爪を噛みながら那岐は少し愚痴っぽく言う。
「きっとどこかで忍人のこと心配してるくせに」
「……そうね」
千尋は明かりとりの窓を振り仰いだ。小さく切り取られた青空に、彼らの今いる場所を思
う。……彼らが消えた後、千尋は出せる人出を最大限使って彼らを捜したが、結局見つか
らなかった。
那岐もちらりと窓を見上げたが、…また手元の竹簡に視線を落とす。
「まあ、そのお節介のおかげで、ほとんどの資料はすぐ見つかったんだけど、見たいもの
が一つだけ見つからない。…それを捜してるんだ。見つかったら、もう調べ物はやめるよ。
心配かけて、ごめん」
「…ううん、調べ物が悪いって言ってるんじゃないの。ただ、食事はちゃんと取って、ち
ゃんと寝て。…那岐まで倒れたりするのは、嫌」
うつむいていた那岐が、千尋のその言葉にまた顔を上げた。苦笑している。
「…僕は大丈夫だよ」
「過信は駄目」
お手上げ、というポーズで那岐は両手をあげてみせた。
「はいはい。…陛下のお言葉は胸に刻みます」
「那岐」
千尋がまた少し怒った。真面目に言ってるんだよ、と那岐は苦笑する。
「…わかったよ、ちゃんと食事は取る。…千尋も忙しいだろ?…執務に戻りなよ。僕は大
丈夫だから」
「…うん」
千尋は那岐の様子を気にしながらも、彼に背を向け、書庫の入口に向かって歩き出した。
その背中に、那岐がふと、声をかける。
「…ねえ、千尋」
「…なあに?」
千尋は振り返った。那岐はうつむいて竹簡に視線を落としたままだ。
「…前に、破魂刀の夢を見たって言っただろう?…あの後は?」
「破魂刀の夢を見たかってこと?」
那岐はうなずく。千尋は首を横に振った。
「見ないわ。…一度きりよ」
「……そうか」
ならいいんだ。変なこと聞いてごめん。
そう言って、那岐はまた竹簡を繰り始めた。…もう少し彼が何か言うかと千尋は少し待っ
たが、没頭しはじめたらしく千尋を見もしない。しょうがない、と、ため息をついて書庫
を出た。

その日の夕方、今度書庫を訪れたのは遠夜だった。
彼は名を呼ぶことなく、すたすたと中に入っていく。暗くなってきた部屋の中、一ヶ所だ
け灯りがともされている。あやまたず、那岐はそこにいた。
座り込む彼の前に立つと、那岐がぼんやり顔を上げた。
「今度は遠夜か。…何?」
「食事、とって」
…ああ、と那岐は眉をひそめ、
「…うん、わかった。…これだけ読んでしまったら、行くよ」
言うと思った、と遠夜はため息をつく。
「まだかかる。…ちがう?」
たたまれた方の竹簡の厚みを指さされて、那岐は決まり悪げな顔をした。さっき千尋と約
束したばかりで、しかもその約束を知って呼び出しに来た遠夜に対してこの態度では、確
かに恥じ入るべきだ。
しかし、千尋も遠夜もその対応は予測していた。ので、深い深いため息をもう一度つくこ
とだけで、許してやることにする。
「…これ」
遠夜から差し出された椀は、ふんわりと湯気を立てていた。那岐がのぞき込み、首をかし
げる。
「…何、これ?」
「梅の実を煮詰めたものにおろした生姜を入れて湯で溶いた。体が温まるから、せめてこ
れだけ飲んで。…それから、早いうちに読み終えて、食事を取りに来ること」
中身を聞いた那岐は、椀を受け取りながら苦笑して、
「なんだそれ。解熱剤の処方みたいだな」
何気なくそう言って、はっと顔をこわばらせた。
「……忍人、…今日、調子悪いの」
見上げてくる瞳の痛々しさから目をそらすように、遠夜は少し顔を横に向けて、小さくう
なずいた。
「…夕方熱が上がるのはよくあることだけど、今日は昼前から熱を出して寝てる」
熱を下げるのに、もっと強い薬も本当はあるけど、重なるのは良くないから。さっきこれ
と同じものを持って行った。
「…大丈夫。ちゃんと飲んでいたよ」
遠夜は那岐の前にしゃがみ込み、なだめるように、夏の木漏れ日のような彼の瞳をのぞき
込んだ。
「薬が口を通ったから、大丈夫」
それからまたすくりと立ち上がり。
「心配なら、早くここを片付けて、ちゃんと食事を取って。…そして、顔を見せに行って
あげて」
遠夜は、大人が子供に諭すような言い方をした。
「那岐や、ワギモの元気な顔を見るのが、たぶん忍人には一番の薬だから。少しでも早く、
会いに行ってあげて」
那岐は叱られた子供のような顔をして遠夜を見上げ、…またうつむいて、受け取った椀に
口をつけた。
こくんと飲み込むそのしぐさを見て、遠夜が優しく笑う。
「じゃあ、俺はこれで」
「あ、待って遠夜」
背中を向けた遠夜を、どこか慌てた様子で那岐は呼び止めた。
「…何?」
「聞きたいことがある。…土蜘蛛の術で、見たい夢を見る方法って、何かないか?」
突然思いがけないことを言われて、遠夜はその丸い瞳をぱちぱちとまばたいた。
「…夢を見る方法?」
「ああ」
「……」
彼はまず、ぎゅっと眉を寄せた。それから何か思い出そうとするかのように天井を見上げ
て、ゆっくりと首を右へ傾けて。傾けたままゆるゆるとうつむいて。右手の拳をあごに当
てた。そのまま彼は動きを止めて、少し考え込んでいたが、やがて申し訳なさそうにゆる
ゆると首を横に振った。
「そういう術は、思い当たらない」
「そうか。…ごめん、変なこと聞いて」
「ただ、…見たい夢があるなら、そのものの傍で寝るのが一番だと思う」
「…傍で寝る?」
「そう。枕の下に敷けるものなら敷いて、無理なら枕元において。動かせないものならそ
の傍に那岐が行って。それが一番」
遠夜は言いながらも首をかしげている。
「…こんなこと、…あまり役に立たないかもしれないけれど」
那岐は慌てて首を横に振った。
「いや。…参考になった。ありがとう、遠夜」
「どういたしまして」
面はゆそうに笑って、遠夜はじゃあ、と背を返した。なるべく早く片付けて、と言い残し
て書庫を出て行く。
那岐は渡された椀に口をつけて一気にあおった。何とも言えないすっぱがらさで、口の中
が熱くなる。ごくんとつばを飲み下すことでそれをやり過ごし、彼は猛然と読みかけの竹
簡をたぐりはじめた。

那岐は手燭と枕を持って、宮の廊下を歩いていた。冬の日は暮れるのが早い。早めに書庫
を片付けて、食事も急いでとったのだが、もうとっぷりと日が暮れている。
通い慣れた部屋の戸をたたく。
……いらえはない。
那岐は眉をひそめたが、意を決して、そうっと扉を開けてみた。
忍人は静かに寝台に寝ていた。彼の枕元で、灯火がじじじじと小さな音を立てて燃えてい
る。扉の音には反応したようで、白い顔はこちらに向けられていた。那岐の目を見て、ふ
わりと笑う。
その笑顔を見ると、胸がぎゅっと握りしめられたように痛んだけれど、那岐はなんでもな
い顔をして笑い返し、部屋に入って後ろ手に戸を閉めた。
いつものようにすたすたと歩いて枕元に手をつく。
「…具合、どう?」
手燭がまぶしそうなので、消してその顔をのぞき込み、指でそっと額に触れてみた。やや
熱っぽいが、高熱というほどではないようだ。
「少し、楽になった」
かすれた声もそう応じた。
「…よかった」
静かに言って、那岐はぽん、と持ってきた枕を忍人の枕の横に置いた。
「……?」
忍人が不思議そうに首を傾ける。
「あのさ、今晩、ちょっとここで寝させて」
相手の返事を聞かず、もそもそと寝台に潜り込む。完全に上掛けの中に収まってから、那
岐は忍人に向き直った。
「見たい夢があるんだ。どうしても見られないから、ちょっと場所を変えてみようかと思
って、…ええと」
一気に話して、…そこで思わず絶句してしまう。……忍人はきょとんと目を丸くしていて、
那岐は何を突然言い出すのか、という顔だ。無理もない。夢を見るために、なぜ那岐が忍
人の寝台で寝なければならないのか、と思っているだろう。
那岐は破魂刀の夢が見たいのだ。だが、忍人に突然破魂刀を貸してくれと言っても了承し
てもらえない気がした。ならば、忍人の傍で眠ればいいのではないかと、…一応那岐とし
ては考えた結果の行動だった。
あまり詳しく説明して、忍人に無用の心配をさせたくはない。彼は、那岐がまた何か気ま
ぐれを起こしたとだけ思ってくれればいい。…そう思って、那岐は自分の行動についてこ
れ以上説明するのを止めた。ぎこちなく笑って、おずおずと言葉を継ぐ。
「…寝台狭くなるし、嫌だろうけど、今晩一晩だけだから、試させてくれない?」
意見も聞かずに潜り込んできたくせに、今になってもじもじしているのがおかしいのか、
忍人は小さく笑った。
「君が、そうしたいなら」
短い言葉は許しだった。那岐はほっとしてまた微笑む。忍人が少しまぶしそうな顔をして
目を細めた。
寝台はさほど広くはない。二人、ひたりと肩と肩を触れあわせなければ眠れないくらい狭
い。が、那岐は隙間で昼寝することに慣れているし、忍人も野営慣れしている。
指で探ると、忍人の手に触れた。微熱のせいか、それともずっと布団の中にいたせいか、
那岐の手よりもじわりと温かい。
那岐は指を触れさせたまま、伸び上がるようにして忍人の額に額を合わせる。
「いやなら、…手はつながないけど」
おずおずとそう言うと、忍人は困った顔で笑う。
「…那岐」
静かに名を呼ばれた。…触れただけの指が絡まる。那岐の鼓動がはねた。
唇を頬に押し当てると、忍人が、絡めた指の力を少しだけ強くした。鼻先と鼻先をふれあ
わせ、口づけを唇に落とす。
どきどきして。
…ちゃんと眠って、夢が見られるのか、僕は、と、那岐は自分で自分に少しつっこんだ。
鼓動の早さと大きさが忍人に伝わりそうな気がして恥ずかしくて、わざと顔を真上に向け
る。
…手は、ちゃんとつないだままだったけれど。

どきどきして眠れないかもしれない、などと殊勝なことを思っていたにもかかわらず、自
分は意外と図太いのか、毎日書庫にずっとこもって頭と体が疲れていたのか、それとも触
れる温もりの心地よさと規則正しい呼吸音のおかげか。
いずれにせよ、那岐はあっさりちゃんと眠ってしまったようだ。

ふと気付くと、那岐は砂浜に立っていた。
雲のない青い空。碧色をした美しい海。
美しいところだが、残念ながら、霧の気配も森の気配もない。破魂刀とはめぐりあえそう
もない場所だった。
「…ま、…そんなにうまくはいかないか」
ため息をついて、那岐は改めて辺りを見回した。
何となく見覚えのあるような浜だ。あの戦いの中、訪ねたことがある浜べかもしれない。
熊野か出雲か。
夢の中だし、誰もいないのかな、と手を庇にして見やると、向こうの方にぽつり、一つだ
け人影があった。
すらりと立つ姿勢、腰に佩いた二刀。…小さな人影が誰かに気付いて、那岐は思わず駆け
だした。
砂に足を取られてなかなか思うように前に進まない。…夢の中、ということもあるかもし
れない。進んでも進んでも近づいていないような気がするのだ。
…が、彼が顔を上げて自分を見た、と思ったとたん、…那岐は忍人の前に立っていた。
「…那岐」
静かな声で言って、彼はにこりと笑う。
顔色がいい。声にも張りがある。……自分が覚えている出会った頃の忍人そのものだった
が、那岐に向ける笑顔の柔らかさだけは今の彼のものだった。
…夢じゃなければいいのに。
こっそり那岐はそう思う。
「…何してるの」
面倒くさそうないつもの声で問うと、忍人は黙って視線を下に向けた。
なにやら穴がある。…よく見ると、中にいくつも卵がある。
……!
それで思い出した。那岐は顔を上げて辺りをぐるぐる見回した。間違いない。
ここは気多の浜だ。出雲の祭りのために、皆で珊瑚を探した場所だ。いじめている亀を忍
人が助けた。……リアル浦島太郎、と呆れたあの光景をまざまざと那岐は思い出した。
そのとき、すっ、と忍人が卵の一つを指さした。
「ちょうど孵る」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、一番上の卵にぴきぴきとひびが入った。うん
せ、という感じで小さな小さな子亀が前足を出し、ついで頭をひょこんと出し、えいせえ
いせ、と身をよじらせるようにしながら体全部を殻から抜いて、そのまままっすぐに海へ
と向かっていく。
また一つ。またもう一つ。
見る間にその巣穴の卵がみな割れ始めた。必死の形相の亀たちが、見守る忍人と那岐にか
まいもせず、殻から抜け出しては海へ帰っていく。
子亀の行列をのんびり眺めていると、その一番最後から、少し毛色の違う亀が卵から出て
きた。
他の亀は、砂にまみれて灰色ながらもおおよそ黄土色から茶色がかった甲羅をしていたの
に、その亀だけは目が覚めるような美しい瑠璃色の甲羅を持っている。一匹だけ、別の種
類の亀の卵が紛れ込んででもいたのだろうか。
しかも、その亀だけは海へ向かおうとしない。それどころか陸へ向かって、…否、忍人に
向かってよじよじと這っていき、はた、とその足にすがりついて、今度は足をよじよじと
のぼり始めた。
「…おーい」
那岐は思わずその子亀を手ですくい上げた。子亀は嫌がって身をよじる。
「海はそっちじゃないって。あっち」
砂浜に置いて、海の方へと押しやってやったが、子亀はくるりと向きを変え、また忍人に
向かって一生懸命這っていく。
もう一度拾おうとした那岐を、忍人が止めた。
「いいんだ」
柔らかく笑って子亀に手をさしのべ、すくい上げてその甲羅を優しく撫でた。ぽかんとし
ている那岐に、同じ優しい笑顔を向けて。
「…これは、…俺に還るべきものだから」
「……どういうこと?」
那岐のその問いに、しかし忍人は答えない。微笑んでただ亀の背中を撫でている。
「忍人?」
重ねて疑問符を発したが、やはりその疑問には答えないで、…ただこう言った。
「…君には出来る」
何を、と問おうとした。何のことだ、と問おうとした。が、不意に忍人の姿が陽炎のよう
に揺らいで、子亀と共に薄れていく。
「…忍人!」
叫んで手を伸ばした、そこにはもう誰もいない。

「…おし…!」
はっ、と那岐は目を開けた。
そこは薄闇に沈むいつもの忍人の部屋の中だった。もう夜明けが近いのだろう。蔀戸の隙
間からは赤い色をした光がもれている。朝焼けが濃いなら、今日は雨かもしれない。
那岐の心臓はばくばくしている。寝る前のどきどきとは違う。恐怖にも似た感情で、心臓
が慌てているのだった。
おそるおそる指を動かすと、柔らかく、けれど消えない剣ダコがある温もりが確かにそこ
にあった。規則正しい呼吸も聞こえてくる。
「……」
那岐は、心底ほっとして、深い息を吐いた。
それから、天井を睨んで今見た夢のことを考える。
何の意味もない夢だとは思えない。まるで誰かが意図して見せた夢のような気さえする。
だが、…どんな。
「…ん」
そのとき傍らで忍人が身じろいだ。ざら、と音がして、彼が顔をこちらに向ける気配がす
る。那岐も首を傾け、忍人を見た。
ぼんやりと、深い色の瞳が自分を見ている。
「ごめん、起こした?」
「…いや」
そう応じてもう一度かすかに忍人が身じろぐ、そのはずみで何かがちりん、と音を立てた。
「…!」
那岐ははっとした。
つないだ手の側、忍人の飾り紐を、…その先にある玉をそっと探る。いくつかの丸い玉が
指に触れた。…それから、勾玉が一つ。
遠夜があの浜で見つけて、磨いて、…忍人に渡した瑠璃の勾玉。
「………!!」
……ああ。そうか。……そうだったのか。
「……那岐?」
ちょい、と軽く手を握られて、那岐は慌てて焦点を忍人の顔に合わせる。かすかに目を細
めた顔は、苦笑しているようにみえる。
「…希望していた夢は?」
からかいのまじった声で聞かれて、那岐は苦笑を返した。
「思っていた夢は見られなかったけど」
破魂刀は、かけらも出てきてくれなかったけど。
「……でも、…とても大事な、いい夢を見たよ」
「…そうか」
忍人は吐息で笑う。それならよかった、と。
「…忍人は?…何か、夢を見た?」
「……そうだな。…いい夢だった気がする」
那岐から視線を外して、彼は天井を見上げた。
「君と姫がいて、笑っていて。…その背後に、風早と柊がいた。……まるで、出奔なんて
しなかったって顔で、…当たり前の顔をして、二人ともそこにいるんだ」
那岐は、一瞬涙がせり上がりそうになって、ぐっとこらえた。
…忍人の心に彼の人たちは、小さな棘のようにずっと刺さったままでいるのだと、…今更
ながらに思い知らされて。
自分の感慨をごまかすように、那岐は軽く首を振って笑った。
「…いい夢じゃん」
忍人は那岐を見て小さく笑うと、…ふっと体を起こした。
…ちりん。…腰の玉が触れあって、澄んだ音を立てる。
「…忍人?」
慌てて那岐も起き上がる。
「…不思議だ。なんだかひどくすっきりした気分で、…動きたい」
何日かさぼってしまったが、今日なら鍛錬できる気がする。
「君はもう少し寝ているといい」
言われて那岐は首をすくめた。
「僕も起きる。…妙に頭が冴えてるんだ。今なら、見つけたい竹簡が見つけられる気がす
る」
途中まで一緒に行こう。
忍人は少し驚いた顔をした。
「…雨かな」
那岐はむっとして言い返す。
「…こんな朝焼けじゃあ、僕が殊勝でなくたって雨だよ。…いや雪かな」
拗ねた顔をしてみせようと思ったけれど、くっくっと笑い出したその笑顔が楽しそうで、
つられて那岐も笑ってしまった。
二人で寝台を抜け出して、身繕いを整える。行こうか、と扉を開けようとした忍人の手を
那岐は押しとどめて。
「…まだ言ってなかった」
なにを?と聞きかけた、かすかに開かれた忍人の唇にさっと口づける。
「………おはよう」
にこりと笑って那岐の手で戸を開けると、おりからの朝焼けに照らされて、口元を手で覆
った忍人の顔は真っ赤に染まっていた。何度も口づけはしているのに、彼の方から口づけ
てくることだってあるのに、不意打ちには慣れないらしい。
「那岐」
たしなめるように名を呼ばれて、那岐は笑う。
雪の気配をまとった風が、二人の髪を揺らしていった。

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