秋のひかり

遠夜が薬猟に行くという。
薬猟は、宮中の行事としては春に若菜を摘むものだが、秋になる実やきのこにも薬効のあ
るものはたくさんある。特に根は秋冬によく太るので、薬効が高いと遠夜は言う。そうい
うものを山野に集めに行くのだと。
忍人が、ついていっていいだろうか、と問うと、遠夜は少し目を見開いて困った顔をした。
日々を穏やかに過ごすということはつまり、体を動かすことも余り出来ず、また日々の生
活に何の変化もないということだ。…有り体に言うと、忍人は毎日暇なのだ。
正直にそう訴え、ついでに、
「どうせ君の薬の大半を消費しているのは俺だ。材料集めくらい手伝わせてくれ」
と、理由とも屁理屈ともとれる言葉を付け加えると、遠夜は困った顔のまま、それでも少
し笑みを交えて、わかった、と言った。
「その代わり、絶対に無理は駄目」
ぴしりと言われて忍人も苦笑を返す。

千尋にそのことを報告に行くと、ふらりとやってきた那岐が、
「じゃあ僕も行く」
と言い出した。
遠夜は今度こそ目を丸くして、…何を言うかと思ったら。
「那岐、山だ」
忍人と千尋は吹き出した。
那岐は少しむっとした顔をした。
「わかってるよ、それくらい」
「途中でしんどくなったとかめんどくさいとか言わないか」
女王陛下と将軍閣下はげらげら笑った。
「言わないよ」
少しではなくはっきりむっとした顔になって那岐は言い返し、
「そこも笑わない」
ぴしりと二人を指さす。慌てて忍人と千尋は口を押さえ、でもこっそり互いの目を見交わ
して、目だけで笑った。
千尋は、
「行きたいのは山々だけど」
豊穣を祝う祭りを終えたばかりで、放置されていた仕事が山積みなのだと残念そうにうな
だれた。
「春には絶対に一緒に行くからね!」
こぶしを握る。
道臣は
「気をつけていっていらっしゃい」
と笑った。
女王陛下の護衛で留守番組の布都彦が、那岐も行くと聞いて、
「那岐は虎狼将軍のいらっしゃるところならそれがどんなに面倒なところでも一緒に行く
のだな」
と、まっすぐな目をして言い、…言い終わらぬうちに那岐に思い切り足を踏んづけられる。
「い…!」
痛い、すら言わせぬ勢いでぎろりと布都彦をにらみつけ、
「行こう、遠夜、忍人」
那岐はすたすたと歩き出した。忍人と遠夜は顔を見合わせ、苦笑を交わしてその背を追っ
た。

遠夜は迷わず宇陀を目指した。薬草が多く生える山があるのだという。言いながらふと不
安げに忍人を見やるのは、道のりの遠さに忍人の体を思うからだろう。忍人はだがけろり
とした顔をして、
「俺よりも那岐を心配してやってくれ」
と言う。
「失敬な」
那岐がふくれる。そのやりとりに、ようやく遠夜が愁眉を開いた。そしてまた前を向いて
歩き始める。
里の家々は収穫を終えたところが多いようだ。冬ごもりの準備を始めている村落も見受け
られる。
「柿だ」
那岐が里の外れに立つ木を指さした。
取るにはまだ少し早いような、橙色にようやく色づき始めた実が、枝に鈴なりになってい
る。
「そういえば遠夜、柿のへたを集めてなかったっけか」
「うん。でもあれはもう十分ある」
すたすた歩きながら振り返りもせずに遠夜は言う。
「あれも薬?」
「うん。煎じて飲めばしゃっくりが止まる」
「……」
那岐と忍人は顔を見合わせた。
「…うそ」
「本当」
遠夜の声は落ち着いている。きっと真顔で言っているに違いない。
「今度しゃっくりが出たら煎じてあげる」
「…出たらね」
那岐は、うええ、という顔をして応じた。忍人はくっくっと笑っている。

登り始めた山道は、赤や黄色に彩られていた。紅葉はもちろんだが、いろんな実が自分を
主張しようと色づいている。目の覚めるような紫がかった青い実のやますげ、小さなかわ
いらしい赤い実のやまたちばな。遠夜はちらりちらりと周囲を見ながら通り過ぎていく。
取り急ぎ取る必要がないか、薬にはならぬ実と見える。
が、ふとその足が止まった。
道の脇に南天の木が何本か群れて生えている。
忍人は何故足を止めたのかと少し首をかしげたが、那岐はぴんと来たようで、
「実を取ればいい?葉も?」
と問うた。遠夜は懐から二つ袋を取り出して、小さい方を那岐に渡し、
「葉はこれくらいあればいい」
それから大きい方を忍人に渡して、
「実を取って」
と言った。
「いっぱい。全部でもいい」
那岐が少し眉をひそめるようにして笑う。遠夜も似たような顔で笑い返して、俺はもう少
し先まで行ってみる、と言った。
「分かれ道はあまりないはずだけど、もしあれば枝を少し折ってしるしを残しておく。も
し摘み終わっても俺が戻らないようなら追ってきて。俺が戻ってくるのをここで待ってい
てくれてもいいけど」
その方がいい、という顔をしている。那岐に念押しするようにじっと視線を合わせてから、
それじゃあ、と遠夜は山道を登っていってしまった。
「…さ、仕事仕事」
那岐は忍人の肩をぽんとたたいて、自分は葉を摘み始めた。おとなしく南天の実を取りな
がら、忍人は一人言のように、
「この実は何に効くんだろう」
とつぶやいてみる。
…那岐が、忍人を見ないで答えた。
「咳止め」
「……」
那岐と遠夜の微妙な視線の理由を、忍人は理解した。
忍人の具合が悪くなると、まず熱と咳に出てくる。この実がたくさん必要だということは
つまり、忍人の病状を遠夜が楽観視していないと言うことだ。
少しむくれたような那岐の顔を見ると、それ以上何も言えなくなって、忍人は黙々と言わ
れた作業に従事した。
遠夜が何故葉を那岐に、実を忍人に摘ませるのか、作業を初めてすぐ忍人は理解した。
南天の葉は取るのに少し抵抗があるというか、力がいる様子なのだが、南天の実は摘むと
いうほどのこともなく、小さく触れるだけでぽろぽろと掌にこぼれてくる。すぐにざらざ
らと掌いっぱいになるのだ。
その朱さは、忍人に何かを思い出させる。
何だろう、とぼんやり考えて、…はっとした。

……ああ。
あそこから見た景色だ。
見下ろす一面の朱色。目が覚めるかと思うほど美しかった。

「…忍人」
自分は少しぼうっとしていたらしい。
気がつくと那岐が忍人をのぞき込んでいた。
「気分でも悪くなった?」
いつもの少しめんどくさそうな顔で聞かれて、いや、と忍人は小さく笑った。
「すまない。少し思い出したことがあって、ぼうっとしていた」
「思い出したこと?…ただ摘んでるのも暇だし、よかったら話してよ」
見れば那岐はもう必要なだけの葉を摘んでしまったようだ。彼の手には赤い南天の実が何
粒か転がっている。
「…たいした話じゃない。…以前、古い神の社があるというので、戦勝を祈願しに行った
んだ。その社は山の中腹にあって川から里を通って道が伸びている」
峻険な、というほどではないが、それなりに急な坂を登る。登る間はずっと前だけを見て
いた。社の目印となるこんもりとした森だけを見て登っていた。
「神に祈りを捧げ終えて、ふと振り返ったら。……見下ろした里は、一面の朱だったんだ」
那岐はぱちりと目を見開いて、南天の実を一粒かざしてみせる。
「…こんな?」
「そうだな、…本当はもう少し橙色に近かったんだろうけれど。でも俺の印象に残るのは
その色だ」
「何。紅葉?」
「…いいや」
忍人はさっきの会話を思い出してくすりと笑う。
「…柿だ」
「……柿?」
那岐も思い出したようで、一瞬うええという顔になり、…それから首をかしげた。
「…柿の実って、そんなに真っ赤になるっけ」
「本当なら、ならないだろう。熟柿になる前に取ってしまうから。……だがその頃、その
土地では戦が続いていた。里を捨てて戦のない土地へ逃げ出した里人も多かっただろうし、
戦に男手が駆り出されて人がなかったのかもしれない。あの数だ。…勝手に生えていた木
ではなかろうと思う。丹精込めて育て続けていたはずの柿が、真っ赤になっているのに放
ったらかしにされて。事情を思うと胸が詰まる気がするんだが、…見た瞬間の俺は、そん
なことに全く思い至らなかった」
美しかった。
「見下ろす一面の朱に圧倒されて、その美しさに魅入られてしまって、…事情や状況に思
い至ったのは、里に下りてからだった」
忍人は遠いところを見る目をした。
「あの里にも、今なら人が戻っているだろうか。……柿の木は、無事にまた新しい実をつ
けているだろうか」
「…見てみたいな」
那岐も優しい顔になった。
「…それ、どこの話?」
その質問が来ることは予想していた。最初から場所を伝えて話し始めることだって出来た。
…そうしなかったのは、その場所が、ある意味を持つ場所だったから。
「………筑紫だ」
言いよどみながらそう言うと、那岐はまじまじと忍人を見て、…ぷっと吹き出した。
「…那岐?」
その反応は予想外だった。忍人が思わず名を呼ぶと、だって、と那岐がまだ少し笑いなが
ら言う。
「忍人があんまりがちがちになってるから。何かと思った。…あの約束を、気にしてるん
だ?」
「……」
指摘されて、思わずうつむいてしまう。
一年前、熊野の海で約束したこと。戦いが終わったら、千尋と那岐と三人で、霧のない筑
紫を見に行こうと言った。行くつもりだった。…こんな体にさえならなければ、もうとっ
くに行っているはずだったのに。
「まだあの約束が果たせないと、…そう思ってる?」
突然鼻先に突きつけられる指。からかっているような、…けれどどこか、いつもの彼より
大人びて優しい声。
「気にすることないのに。…僕は、忍人が約束を忘れずにいてくれればそれでいい。縛る
ための約束じゃなかったはずだ。三人で楽しむための約束だっただろう。…違う?」
うつむいた顔をのぞき込まれて、忍人は観念して顔を上げた。さらりと金の髪が目の前を
よぎる。
「…違わない」
那岐は、もう一度笑った。
「じゃあ、それでいいじゃん」
さらりと言って、彼は南天の実を摘み始める。声もそぶりもごく自然に力が抜けている。
…ああ。
鼻歌を歌いながら南天の実を摘む那岐を、同じように南天を掌に受けながら、まぶしいよ
うな気持ちで忍人は見やった。
君と姫はそうだ。そういう人だった。頼りないように見えたり、手を抜いているように見
えたりするけれど、いつもちゃんと前を向いて立っている。そして、何やってんの、と俺
を見て笑うんだ。行こうよ、と、しゃがみ込みそうになる俺を立たせてくれるんだ。
俺が外に見せている強さだけでなく、中に持つ弱さも知って。労りながらも、甘やかし包
み込むことはない。一緒に行こうよ、と、隣にしゃがんで誘ってくれる。
君たちが、…君がいなければ、俺はこのいつまで続くともしれない、死を背中に負った日
々に、とうに絶望していただろう。
君がいるから、…俺は光を探せる。

……ちがう。

………君が。…俺の、光。

無意識に、忍人は那岐の髪に手を伸ばしていた。触れられたことに気付いた那岐が、何?
と忍人を見た、…その目を見た瞬間、体が動いた。
手に触れた肩をそのまま引き寄せ、抱きすくめる。
「…忍人?」
驚く那岐の声が、忍人の耳の後ろあたりで聞こえる。
「…急に、何」
答えず、忍人は抱きしめる手に力を込めた。一瞬惑った那岐の手が、おずおずと忍人の背
中に回される。
「…いいの」
からかうような声だった。
「…遠夜、帰ってくるかもしれないよ」
少しかすれた声に、熱を感じる。口ぶりでだけとがめてみせて、…けれど忍人の背中を抱
く彼の手にも力がこもる。
「誰もいない。誰も見ていない。…見られたってかまわない。…那岐、…君が好きだ」
びくん、と那岐の背がはねた。
「…ちゃんと言ってなかった。…いつか言おうと思ってた」
言えないままもしもが起こったら、俺はきっと後悔するから、と、…そう思ったことは那
岐には言わない。もしものことを考えたと那岐が知ったら、彼はきっと怒るから。
これ以上自分がうっかりしたことを言わないように、忍人はそっと那岐の頬に唇を押し当
てた。と、背にあった那岐の手が忍人の頬を包み込み、少し怒ったような顔をした那岐が
真正面から忍人を見る。
「ほんとに、何。…急に」
「好きだから、触れたくなった。…では、いけないのか」
笑ってみせると、今度は那岐が泣きそうな顔になった。百面相だ。
「その顔、反則」
何も言えなくなるじゃないか、と言いかける唇を、忍人は塞いだ。
…もう、何も言わなくてもいい。君がここにいてくれれば。それだけで。

南天の木から実がすっかりなくなって、そろそろ遠夜を捜しに行こうか、と那岐が提案し
たとき、ひょっこりと遠夜が帰ってきた。大きな白い麻袋を背中に背負っている。
「…サンタクロースみたいだな」
那岐の言葉の意味が忍人にはわからなかった。遠夜も少し首をかしげる。その手は、紫色
の花束を握っていた。
「…竜胆か」
忍人のつぶやきを聞いて、遠夜はふわりと笑った。
「必要なのは根なんだけど。…あんまりきれいだったから。…ワギモにおみやげ」
言ってから少し小首をかしげ、困ったような笑顔を見せて、
「忍人には、根の方を、今晩あげる」
言われて忍人は渋い顔になった。
「…何」
「……遠夜がそういう顔で持ってくる薬は、たいてい、尋常じゃなく不味い」
聞いた那岐が吹き出した。遠夜も申し訳なさそうな顔をしながら、でも笑う。忍人一人渋
い顔で、…けれど、結局、仕方がなさそうに彼も笑い出した。
じゃあお詫びにこっちも、と差し出された竜胆を一輪手に持って、忍人は歩き出した。一
歩先を遠夜が、逆に背後をのんびり那岐が、歩く。
背中に感じる彼の人の気配に、忍人はかすかに微笑んだ。
いつも背にあるのは忍び寄る死の不安だった。今日は違う。今日忍人が背に感じるのは、
ひかり。夜を裂いて、また新しい日を立ち上らせるかぎろひのような、鮮烈な光。

秋の日が西の山に落ちていく。けれどまた、日は昇る。自分があきらめない限り、光はそ
こにある。
忍人はぐっと唇を噛みしめ、背筋を伸ばして歩き続けた。


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