夏への扉
橿原宮の季節は、ゆっくりと春から夏へ移ろうとしている。千尋の即位式の頃にようやく
咲き始めたばかりだった桜はとうに散り敷き、薄柔らかい黄緑色をしていた若葉も少しず
つ色を濃くしている。
那岐は、以前見つけた昼寝場所に向かって歩いていた。
春先には昼寝に少し不都合だったその場所も、日差しが強くなり、葉の影が濃くなった今
では、涼しさと日当たりのバランスがちょうどいい頃合いだろうとふと思い出したのだ。
たどりついてみると、そこには先客がいた。
「…忍人」
目を閉じて、眠っているかに見えたその人は、那岐の声が耳に届いたのか、あるいは気配
に気付いたか、静かに目を開いて微笑んだ。
「那岐か。…ああ、ここは君の昼寝場所か」
片膝を立て、片足を投げ出してぼんやりと座っている体勢は変えないまま、まぶしそうに
那岐を見上げて。
「どうりで、寝心地がいいと思った」
「…そりゃ、よかった」
那岐は返答に困ってそれだけ答え、忍人の隣にすとんと腰を下ろす。
「…忍人は、…寝るならちゃんと自分の部屋で寝なよ」
言いながら那岐は、一瞬くふんと鼻を動かした。
……薬草の匂いがする。
日々遠夜が煎じる薬湯の匂いが、忍人の髪か肌かにしみついているのだろう。
「こんなに天気のいい日に?」
那岐が自分の部屋で寝ろと言ったことに抗議するかのような口ぶりで、しかし声は穏やか
に、忍人は言う。
「外の空気を吸うくらいいいだろう。鍛錬は朝だけで我慢しているんだ」
…本当は遠夜は、その朝の鍛錬も禁止したいはずだけどね。
心の中だけで那岐はつぶやく。
だけど、それまで禁止してしまったら、忍人はたぶん命あるまま死んでしまうから。
…遠夜が苦しげに千尋にそうもらした場に、那岐も居合わせた。
息はしていても、心が死んでしまうから。だから、一日に一刻だけ。…それだけは許す。
それ以上は決して、体に負担がかかることをさせないで。
朝の鍛錬が遠夜の最大限の譲歩だと何となく察しているから、忍人も甘んじて彼の指示に
は従うのだろう。いつまで続くかわからない、安静と苦い薬。
僕ならとっくにぶち切れているかもしれない、と那岐は思う。
…忍人は我慢強い。
ぼんやりそう思っていると、ぷん、と薬くさい匂いが強くなった。…けれど少し甘い匂い
でもある。
「…?」
那岐が匂いの出所を探すと、それは忍人の手の中にあった。
「何それ。…干しナツメ?」
「ああ。…いらないか、那岐」
差し出されて、思わず素直に受け取る。干しナツメは噛んでいるとじんわり甘い。薬にも
するが、茶請けにもなる。掌でころころ転がして、那岐は首をかしげた。
「これ、どうしたの?」
「滋養にいいし薬が苦いからと、遠夜が毎晩くれるんだが、…甘くて」
忍人は困ったような顔をする。
「一つで十分なんだが、毎晩五つも六つもくれるものだから」
余ってきてるのか。
給食を残す小学生みたいだなあ、と、那岐は少しおかしくなった。
「足往は、…ああそうか、熊野の方にお使いか」
忍人の周囲で甘い物を好みそうな子供、と考えて、すぐ浮かんだ茶色い毛の狗奴の子供は
今、旅先にある。
女王陛下の即位と共に、地方の豪族に再び中つ国との友好関係を結ぶよう働きかけるため、
主立った官人は今、各地に飛んでいた。足往は、熊野から志摩、伊勢の方を回る官人の護
衛兼供としてついていっているのだ。比較的近く、また元々中つ国に友好的な豪族が多い
場所を選んで行かせたのは、忍人の配慮だろう。
一方布都彦は、信濃から高志へ向かっている。こちらは道も苦しく、行き先の豪族たちの
友好度はともかくとしても、途中山賊などの危険もあり、かつ長旅になる。足往とは逆に、
その強さを見込まれての道行きだった。
「サザキも、ちゃんと筑紫や高千穂の族に話できてんのかな」
「…まあ、海賊復帰が優先だろうが、あれでちゃんと日向の統領だ。請け負った仕事はす
るさ。カリガネもついている」
「ああ、副官が有能だったね、あそこは」
副官と言えば、もう一人思い出すのはリブだが、彼の主のアシュヴィンは皇の跡を継いで
常世の皇にたったと聞く。地方平定せねばならなかったり、アシュヴィンの即位を快く思
わない多くの競争相手を退けねばならなかったり、息のつけない日々ではあるだろうが、
彼なら生き生きとして、自分の意のままにならぬ者たちを蹴散らしまくりそうだ。
考えているうちに我知らず旅の仲間を順繰りに思い返して、那岐は忘れるわけにはいかな
い二人の顔を思い出した。
…風早と、柊。
二人は千尋の即位式後、相次いで宮から姿を消した。行方は杳として知れない。
千尋は人を出してあちらこちら調べさせてはいるのだが、噂すら聞こえてこないと、最近
ではもうあきらめ顔だ。
「…どこにいるのかな」
物思いをうっかり口に出してしまったら、傍らで忍人も
「風早と柊か」
と応じた。
「…うん」
那岐はあぐらをかいた膝に頬杖をついた。
「聞いた?…伊予の、風早の里に使いを出したら、そんな人間はいないって言われたんだ
って」
「…らしいな」
忍人は短く応じる。
確かにその族には風早と同じ年格好だった子供がいて、中つ国への恭順の意を示すため、
橿原宮へ従者として差し出されたのだったが、早くに病を得て身罷ったという。墓もきち
んとあったと、風早の里へ使者として出された官人は、首をひねりひねり帰ってきた。
……ではついこの間まで、那岐が共に過ごしていた風早は、一体どこの何者なのか。
「柊もさ、星の一族が暮らしていたはずの里に行ったらもぬけの殻で、人っ子一人いなか
ったって。…星の一族はどこへ動いたのかと、こっちは狭井君の方が顔をしかめているら
しい」
「…柊が、一族と共にいるとも限らないが」
どこか遠くを見るような眼差しとその言い方に、那岐の胸は何故かちくりと痛んだ。
「…忍人」
「…?」
ゆるり、と忍人が那岐を見てかすかに首をかしげる。
「忍人は、風早と柊が、…いいや、二人のうちのどちらか片方でも、どこにいるのか知っ
てるのか?」
忍人は無言で首を横に振った。
「…本当?」
「…知っていれば、陛下にお伝えする」
忍人の性格と立場ならば、確かにそうするだろう。…疑う余地はないことなのに、那岐の
心は何故か騒ぐ。
…騒いだ心が、言うつもりはなかったことをぽろりとこぼした。
「忍人は、船で柊の姿が見えなくなるといつも捜しに行っていたから、…柊がいなくなっ
たとき、てっきり捜しに行くと思った」
どうやって止めようかと、那岐はこっそり遠夜と相談までしたのだ。
忍人は那岐の言葉を聞いて、ほんのかすかではあったが、笑ったようだった。
「…薄情だと思うか?」
静かな声でそう聞いてくる。那岐はきっぱりと首を横に振った。
「ちがうよ、そうじゃない。…行くと思ったのに行かないから、だから、二人のどちらか
の行方を知っているんじゃないかと思ったんだ。知っているから捜しに行かないんだと」
忍人はまた無言で、首を横に振った。
沈黙が重く二人の間にわだかまると、どこからか燕のさえずりが聞こえてきた。もう、彼
らが南の国から戻ってきて巣作りをする季節になったのか。宮のどこかの軒下を巣をかけ
る場所に定めたらしく、忙しなく泣き合う声は近い。
やがて、ふっとその声が遠ざかっていった。またどこかへ、巣の材料を捜しに行くのだろ
う。
その静けさをつくように、忍人が突然口を開いた。
「…姫の即位式の直前、柊と話をした」
那岐ははっとして忍人の顔を見直した。忍人はおそらくわざと那岐を見ずに、まっすぐ前
を見ている。
「その時柊はもし今自分がいなくなったら捜しに来るかと聞いてきた」
表情のないその瞳を見て、また那岐の胸がちくりと痛む。何故かはわからない。
「もちろん捜すと言ったら、あいつは笑って、では捜しにきてくださいと言ったんだ」
横顔が、少しゆがんだ。
「普通ならそんなこと言うやつじゃない。俺が捜すと言えば厭そうな顔をして無粋ですよ
とか、捜されたくないこともあるとは思わないんですかとか、…とにかく俺の捜すという
言葉を否定してかかるはずだ。それを、捜してくれと言われて、…」
忍人はそこで絶句するかのように言葉を切った。
その忍人の反応がなくとも、那岐にも、その言葉の意図することはわかった。
柊は、忍人に捜すなと言っているのだ。捜してくださいという言葉で捜すなと命令してい
るのだ。
忍人は聡い。柊の言う「捜してください」が、あなたがそうしたいなら捜しに来てもいい
けれど、私は捜されたくないんですよ、という意味なのだと、容易にくみ取れただろう。
そしてくみ取れたからこそ、一歩も動けないでいる。いっそくみ取れずに、言われるがま
まに捜しに来た、と言えれば良かったろうに。
那岐はただ黙って唇を噛んでいた。
柊はずるい。たった一つの言葉で、いともたやすく忍人を縛ってしまえる。たとえこのま
ま一生会えなくても、忍人は柊のことを決して忘れないだろう。
たった一つの言葉のために。
燕がまた巣の材料を持って戻ってきたようだ。忙しなく泣き合うさえずりが沈黙を少しだ
けやわらげる。
忍人はまぶしそうに空を見上げて、姿の見えない燕を捜すそぶりだ。那岐を見て話せない
わざとらしさを、燕でごまかしているかのようだった。
耐えられなくなって、那岐は言った。
「捜そうよ、忍人」
「…?」
忍人がようやく那岐を見た。
「柊を捜そう。見つけだして、捜しに来てくれって言っただろうって言ってやろうよ」
目を丸くして那岐を見つめて、…ふっと笑う。
「…君は、俺が柊を捜しに出ると言えば、止めると思ったが」
………あ。
那岐がばつの悪い顔になってうつむくと、ありがとう、那岐、と小さな声で忍人が言った。
「いいんだ。…捜しに行こうとは思っていない。彼らはきっとどこかで生きている。いつ
かひょっこり現れるかもしれない」
気長にそれを待つ。だからいいんだ。
「ただ、…また置いて行かれてしまったなと思って、…それを少し拗ねているだけなんだ、
俺は」
俺はいつも居残り組だ。
気安い口調でそう付け加えて、ふと、忍人は寂しそうに那岐を見た。
「……君もいつか、俺を置いていくだろうか」
那岐は反射的に、馬鹿か!と怒鳴りつけそうになって慌ててこらえた。表情が怒っている
のが自分でもわかるので顔をそらす。
置いていくのは自分じゃない。自分を置いて、いつか破魂刀に連れて行かれてしまうのは
忍人の方じゃないか。
僕はもうずっと、君と命の音を交わしたときからずっと、離れたくないと願っているのに。
喉の奥からせり上がりそうなものを飲み下す。忍人に不審がられないようこっそりと呼吸
を整える。
そうしてなんとかいつもの声で、那岐は言った。
「僕はどこにも行かないよ。……めんどくさい」
くっ、と忍人が笑う。
「めんどくさい、か。…那岐らしい」
そのまま彼は、くすくすと少し続けて笑って、……ふと笑いおさめ、まっすぐ那岐を見た。
「…ありがとう、那岐」
その静かに沈む海の色の瞳を見て、信じてない、と那岐は思った。
忍人は、那岐の言葉を信じていない。だから礼を言う。那岐が、忍人の気持ちを慮って嘘
をついてくれたのだと思っている。
馬鹿。
どこにも行かないと言っているのに。
那岐は、忍人から離れたくないと思っているのに。
行ってしまうのは忍人の方じゃないか。
離れたくない。
つながっていたい。
………君に、触れたい。
そう思ったら、体が勝手に動いていた。
忍人に向き直り、座り込む彼の前に跪いた。頬を両手で包む。日陰にいたせいか、それと
も今日は調子がいいのか、あまり体温は高くないようだ。むしろひいやりとしている。
忍人は那岐にされるがまま、じっとしている。夜の海のような深い色の瞳を穏やかに開い
て、静かに那岐を見ている。
その瞳に吸い込まれるように、那岐はゆっくりと忍人に口づけた。
途中で目を閉じてしまったから、忍人の表情はもう見えない。けれど、口づけた瞬間ぴり
りと震えた肌は、すぐに柔らかく弛緩した。
一瞬離して、もう一度重ねる。引き結ばれていたはずの忍人の唇が、かすかに誘うように
開いていた。誘われているのかもしれないが、那岐には子供のようにぎこちなく重ねるの
が精一杯だった。
どきどきして苦しくて。うれしいのか痛いのか怖いのか甘いのか、もう何が何だかわから
ない。
「好きだ、忍人」
気付けばそう口走っていた。
「…好きだよ。…どこにも行かないから、だから忍人もどこにも行くな」
袖を引かれる感触。那岐がふと我に返ると、忍人の右手が、那岐の左の袖をそっとつかま
えていた。
「…?」
一瞬きょとんとした那岐に、笑って、…忍人が両のかいなを広げる。
それは那岐の背を優しく抱いた。
「……那岐」
耳元でささやく甘くかすれた声。
「魂が許す限り、君の側にいる」
那岐の首からかけた勾玉が震えた。
那岐は強い光を帯びた瞳をぐっとまぶたの下に隠して、忍人を抱きしめ返す。
……誰にも渡さない。
それが破魂刀でも柊でも神でも。
僕の持てる力以上のものが必要となったとしても。
僕は君を誰にも渡さない。
燕がさえずっている。
あの天鳥船の堅庭に子燕を置き去りにしていった親燕は、どこかでまた巣をかけているだ
ろうか。
あの雛を忘れて。
大丈夫。…もう誰も、君を置いていかない。
……僕だけは、君を置いていかない。
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