春告鳥
忍人が橿原宮の渡廊を歩いていると、前の方にふらりと人影が立った。
「…おや忍人。…起きていいのですか」
柊はからかうような声で話しかけてきた。目の縁にやわらかく苦笑がにじんでいる。
忍人はそれが癖の、少しむっとしたような顔になってしまう自分をもてあましながら、平
気だ、とぼそりと応じる。
「ずっと、大事を取れと寝かされ続けていたんだ。もう大丈夫だ。もうすぐ姫の即位式で
もあるし、いつまでも寝てはいられない」
そこでふと言葉を切って、どこか心配そうに忍人は柊をまじまじと見た。
「…お前こそ、ずっと書庫にこもりきりだと聞いたが」
薄暗い部屋でずっと過ごしているからだろうか。柊の顔は前にもまして青白いように思わ
れる。
「ええ、…なかなか整理が追いつかなくてね。中つ国の竹簡は以前のどさくさで放置され
たままだし、そこに常世が自分たちに必要な竹簡を持ち込んでいるものだから」
天鳥船にある竹簡で、こちらに持ってこなければならなかったものもありますしね。
お手上げ、という顔で柊は肩をすくめて見せた。
「やってもやっても追いつきません」
「…人を使っては?」
かすかに眉を寄せて、珍しく気遣うように忍人が聞いた。柊は少し目を丸くして、笑う。
「よほどの読巧者でなければ、逆に足手まといになりますから。そういう有能な人たちは
今みんな忙しいでしょう?道臣殿しかり、風早しかり、ね?」
それに、と何気なく、付け足しのように。
「なんとか、めどは立ちました。おかげで、こうして書庫から出てきているわけで」
「…ならいいが」
忍人がぽつりとそう言ったあと、ふと、沈黙が二人の間にわだかまった。
静かになると、春の到来を告げるかのように、小さな鳥が啼いている声が聞こえてきた。
あれはウグイスか。いやメジロだろうか。
忍人がぼんやりとそのその愛らしい声を聞いていると、柊が口を開いた。
「ねえ、忍人。…君は、天鳥船で私がふらりと散歩に出ると、いつも探しに来ましたが、
もし今、私が宮から誰にも言わずに外出したら、また捜しに来るのですか?…その体調で
も?」
忍人は眉間に一本しわを刻んだ。
「…何故そんなことを聞く。消える予定でもあるのか」
柊は大仰に手を挙げ、首を振ってみせる。
「いいえ、そんな予定はありませんとも。…ただ、聞いてみたくなっただけです」
忍人はまだ眉間にしわを刻んだままだが、静かに素直に答えた。
「…捜すさ。…いなくなれば」
その答えを聞いて、柊はふわりと笑った。
「そうですか。…では、もしもそんなことになったら、捜しに来てくださいね」
忍人は柊のその返答に、はたとその夜の海のような色をした瞳を見開いた。
「…どうしました?」
穏やかに柊は笑っている。まじまじとその顔を見つめて、それからぎゅっと、忍人は眉を
しかめた。
「どうしたと聞きたいのは俺の方だ」
「…はい?」
「…いつものお前なら、俺が捜しに行くと言えば、捜さないでくださいと言うところだろ
う」
ふぅっ、と、柊の笑みが濃くなった。…ほんの一瞬、まるで愛の告白を聞いているかのよ
うな陶然とした顔になる。すぐにその顔はいつものからかうような少し意地の悪い色に変
わったので、残念ながら忍人はその一瞬の表情には気付かなかった。
「そうですねえ。…でもまあ、私は天の邪鬼ですから」
言って、忍人の髪を、子供にそうするようにさらさらと指で梳いて、
「たまには、君に捜してもらおうかと思ったんです」
とどめに、ぽんぽん、と明らかに子供めかして忍人の頭をいい子いい子と撫でたものだか
ら、忍人がかみついた。
「柊!子供扱いするな!」
「おやおや忍人、そんな風に怒っては台無しですよ。…君はもう、大人でしょう?……私
たちの後をころころついてきた頃の君とは違う、……ねえ?」
その柊の言葉の何かが、ゆっくりと忍人の体にまといついていく。…忍人はそれに気付い
ていない。
「君はもう大人だから、わかるはずだ。…だから、私がもし今消えたら、捜してください」
ゆるりと柊は忍人に背を向けた。そのまま、忍人が来た方向へと歩き出す。忍人はなぜだ
かその場から動けない。
「ただ、…忘れないでくださいね。…私は天の邪鬼なんですよ…」
柊はそう言い残して、静かに渡廊の奥の暗闇へ消えた。
ゆるゆると柊が歩く渡廊の、…柱の陰から低い声がした。
「何故、忍人にあんなことを」
「おや、風早。…盗み聞きとは、あなたらしくありませんね」
にやりと柊は笑ったが、風早は唇を引き結び、きつい瞳でにらみ返した。
「そんなに怖い顔をしないでください。…少し、釘を刺しておこうと思っただけですよ」
柊は風早をなだめるように手をひらひらさせてそう言った。
「…ああ言えば、あの子は我々を追ってこないでしょう。聡い子ですから」
姫が無事即位なされた。…私は消えねばならぬ頃合いです。そして、あの子に捜されて見
つけられては困るのです。
風早は柊の韜晦を、難しい顔をしたまま少しうつむいて聞いていたが、柊が口を閉ざして
しまうとまたきりと彼を見据えた。
「確かにああ言えば忍人は君を追わないだろう。……だが、あれは君の呪縛じゃないのか、
柊」
柊はゆるりと片眉を上げた。
「……」
うっすらと笑う。
「ええ、そうです。…私は忍人を縛ったんですよ」
口から出たのはあっさりとした声だったが、どこかにねっとりと重苦しいものが含まれて
いる。
「他にはあの子の何も望みませんから、…一つだけ、私の言葉を、私という存在を、あの
子の中に置いていきたい。……私を追うな、という呪縛を、あの子の中に錨として置いて
いきたいんです」
重い鎖につながれた、錨として。
ふふふ、と柊は笑う。明らかに自嘲が混じった笑いだった。
「ひどい業ですね。…責めてもいいですよ」
風早は一瞬目を閉じ、また目を開いた。…閉じる前は確かに、厳しいけれどもいつもの風
早の瞳だったはずのそれは、開かれた瞬間、瞳孔が細長い獣のような瞳に変わっていた。
「君を責めるべきは忍人だ。…俺じゃない。…俺に責められて、許された気になってもら
っては困る」
柊は、一瞬痛そうな顔をしたが、すぐに飄々とした笑いを取り戻した。
「…そうですか」
「そこまで忍人に執着するなら、なぜここに残らない。…一族のほとんどはもう隠れたの
だろう。君一人宮に残っても、問題はないと思うが」
風早は少し声をやわらげた。相変わらず、獣の瞳のままではある。柊を気遣うその言葉に、
しかし柊は首を横に振る。
「…忍人がいるから、残らないのですよ」
今はまだ見えませんが、いつか見えるかもしれない。忍人の死の瞬間が。それを導く出来
事が。
「あの子は前を向いて歩ける子です。破魂刀の呪縛があっても、死がどこで待つかわから
なくても、きちんと前を向いて進んでいける子だ。…だからこそ、彼の側に、未来が見え
る私がいてはならない。彼の行く手にある暗雲に、気付ける人間が側にいてはならないの
です。…それは彼の歩みをとどめることになる」
あの子の側に、私はいてはならないのです。
「………」
「もうすぐ最後の竹簡が片付くんです。…そうしたら、行くつもりですよ。…あなたはど
うします、風早?」
まるで今までの会話などなかったかのような、世間話のような口調で柊は風早に話しかけ
た。
「……姫の即位式が始まるのを見届けたら、すぐに」
「じゃあ、一緒に行きましょうか。…一人は寂しいですから。せめて途中までは一緒に行
きましょう」
そして道々祈りましょう。我々の愛しい子たちが、どうか幸せで過ごしてくれるように。
「柊」
風早は獣の瞳のまま言った。
「君も、幸せになっていいんだよ」
柊は、片方の頬だけゆがめて笑う。
「…ええ、いつか、どこかでね」
そしてゆるりと歩き出した。
風早はそれを追わなかった。柱の陰でただじっと壁にもたれて。
ゆっくりと瞳を閉じて、開くと、そこにはもう獣の瞳はなく、いつもの風早の穏やかな目
があった。
柊が消えた方向をゆっくりと見やって。寂しそうに彼はつぶやく。
「君も、…私の愛しい子の一人なんだけれどね、…柊」
その声は闇が吸い込んだだけで、誰にも届きはしなかった。
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