朱雀
その日、那岐は、久しぶりに朱雀の磐座に足を向けた。今日、橿原宮へ向かって進軍すれ
ば、おそらくしばらくは船に戻るまい。その前に一言挨拶くらい、と、少し殊勝なことを
考えたのだ。
磐座はがらんとして人影がなかった。
元々、常日頃から人のたむろするような場所ではない。たまに風早がぼーっと立っていた
り、サザキがむにゃむにゃ言いながら都合のいい願い事をしているくらいのものだ。二人
とも出立の準備で忙しそうにしていたから、しばらくはここへは来ないだろう。
那岐はてれんと磐座の前に立った。めんどくさそうに、それでも一応、「こんちは」とつ
ぶやく。
『……那岐』
朱雀の声は、実際の音として鼓膜に伝わるのではなく、脳内に直接響き渡る、という感じ
だ。その声(実際には声ではないかもしれないが、便宜上そう呼ぶ)は、おかしそうな笑
みをたたえていた。
『出立前の挨拶とは、お前にしては殊勝なことだ』
「そうだよ。殊勝にも挨拶しに来たんだから、一応は僕らの勝利を祈ってよね」
『我に出来ることはしよう』
朱雀はまだおかしそうに、しかしあっさりと言い切った。…出来ないことはしないんだな、
と那岐は思った。神様はそういうところ、結構クールというか、合理主義だ。比較的人と
いう生き物に優しい朱雀でさえこれだ。他の神様推して知るべし。
『それだけか?』
神様への文句をこっそり脳内で並べかけていた那岐は、逆に朱雀からそう問われて、え、
と目をぱちぱちさせた。
『わざわざ、面倒くさがりのお前が我が元に来るからには、他用もあるかと思ったが、挨
拶と戦勝祈願だけなのか?』
朱雀はどうやら那岐の今日の行動をかなりおもしろがっているようだ。いつにもまして気
安いその彼の様子に、那岐の心が少し動く。
…千尋は以前、忍人を救うのに、二人が持つ神宝が必要だと言っていた。一つはおそらく
彼女の持つ天鹿児弓。だが、もう一つは?……自分はいったい、どんな神宝を持っている
というのか。
…朱雀は神だ。神ならば、神宝について、何か知りはしないか。
「…朱雀」
『何だ』
彼はまだおもしろがっている風だ。
「僕が問えば、あなたは答えてくれるのか」
が、那岐がそう言うと、少し彼の雰囲気が変わった。背筋が伸びるような、というか、少
し真面目に聞こうか、と意識を改めたというか。
『…問いの内容にも拠るが、それが我の知ることならば、教えてやってもいい。…今日の
殊勝さの褒美だ』
那岐がすっと背筋を伸ばし、口を開こうとした、その機先を制するように、しかし、と朱
雀は続ける。
『条件が、一つある』
それはあるだろうなと那岐も思っていた。神に何かを求めるなら、何らかの代償は必要だ
ろうと。
『我に答えを求めるならば、そなたも我の問いに一つ答えよ。…その問いに答えが出せた
ら、我もお前に答えてやろう』
那岐はうなずく。
「ああ」
『……では答えよ。……優しさとは、何か』
那岐は軽く目を見開いた。
…その問いは、那岐にはひどく抽象的に思われた。
朱雀は何を期待して、那岐にこの問いを投げたのだろう。優しさって何かって、…優しさ
は、人に優しくできること、じゃないのか。
……待て。優しくするって、どういうことだ?
誰かを大切に思って愛しむ気持ち。手を広げて守りたいという欲求。相手を思いやり、け
れど伝えるべきは伝えられる真摯な強さ。
順繰りに思い浮かべて、…結局那岐の脳裏に浮かんだのは大切な二人の顔だった。
妹のように、否、いっそ、生まれるときにうっかり別々の場所に生まれてしまった精神的
双子のように思える千尋。
そして。那岐にとってたぶん初めて親友と呼べる相手で、……そして今は、それ以上の感
情を那岐に想起させる存在の忍人。
二人に向ける感情の全て、行動の全てが、自分の優しさなのだ。
「………忍人と、千尋だ」
『………』
朱雀はその瞬間、噛みしめるように何も応えなかった。
「僕から二人に向かうもの全て、…二人を思うときにこの心に生まれる熱が、僕の優しさ
なのだと、僕は今信じる」
『……………』
長い沈黙の後、朱雀はなぜか、ああ、と瞳を閉じて嘆息した。
「…朱雀?」
何か自分の答えは彼をがっかりさせたのかと、那岐は眉をひそめる。が、まぶたを閉じて
黙考し、やがてゆるりと開いたその瞳は、慈しみに満ちていた。
『……動くか』
静かな声が不思議なことを言う。
「……?」
『初めて我に答えたな、那岐』
那岐が自分の言葉に不思議そうにしていることには気付いているだろうに、あえてそれを
無視して朱雀は話しかけてきた。
『よかろう。お前は我に答えた。我もお前に答えよう。…我に何を問うか、那岐』
那岐は朱雀の不思議な言葉からはっと我に返って、真正面から朱雀を見つめ返した。朱雀
は厳しい中にも優しい神の目をして、じっと那岐を見つめる。
「龍神の神子が以前、夢見の中で、彼女の神宝と僕の神宝があれば忍人を救えると破魂刀
に言われたそうだ。…彼女の神宝が天鹿児弓であることはわかる。……では、僕の神宝と
は何だ。…あなたなら、何か知らないか」
『…ふむ』
朱雀は長い首を一つ揺らした。
『…よかろう、教えよう。…お前の持つ神の宝について。……まあ、そのために知っても
らわねばならぬことが他にもあるが』
「……?」
那岐の脳裏で、朱雀がうっすらと笑う気配がした。
『聞け、那岐』
「ああ、忍人さん。那岐を見ませんでしたか?」
千尋に問われて、忍人は眉を上げた。
「いや、俺はずっと狗奴の軍にいたから那岐は見ていないが、…どうした」
「もうすぐ出立の時間なのに、姿を見た人がいないんです。部屋にもいないし」
千尋が不安そうに顔を曇らせ、忍人が眉をひそめたところに、ひょっこりと風早が首をつ
っこんだ。
「那岐なら、少し前に朱雀の磐座で見ましたよ。…中に入ろうと思ったら彼が朱雀と会話
している気配だったので、入らずに帰ってきましたが」
見かけないのなら、たぶんまだそこにいるでしょう。
そう付け足して、彼は忍人ににっこり笑いかけた。
「…迎えに行ってやってくれませんか、忍人」
「……」
…風早がこういう顔をして依頼するとき、忍人は余り聞き返さない。黙って言うとおりに
背を翻す。見送りながら千尋は、そっと風早を見上げ、忍人の代理のように問うた。
「…居場所を知っているのに、どうして忍人さんに行かせるの」
「それがいいと思うからです」
答えて風早は静かに笑った。
忍人が磐座の扉を押し開けると、那岐がぼんやりと立っていた。朱雀はまた磐座の中に戻
ったのか、忍人の目には見えない。きゅ、と唇を噛んで、忍人はきびきびと那岐に近寄っ
た。
「…那岐。もうすぐ出立するぞ。……那岐?」
反応がない。
「…那岐!」
少し強い声で言って、ぱんと背をたたくと、ようやく那岐があ、とつぶやいて我に返った。
「…大丈夫か」
ゆるゆると那岐が首を忍人に向け、ぱちぱちと何度か瞬いた。瞬きを繰り返すうち、よう
やく焦点がはっきりしてくる。
「…うん、大丈夫。ごめん、今ちょっと変なことを朱雀に言われて」
「…変なこと?」
忍人はそっと眉をひそめた。那岐は首からいつもかけている玉をざらりと手にとって、忍
人に示す。
「…僕が中つ国の王族の一員だと、彼は言うんだ。その証がこの玉だと。…これは中つ国
の王家に伝わる死反玉という神宝なんだと」
「………」
突然の告白に忍人が応じかねて黙りこくると、いや、それだけなんだけどさ、と那岐は肩
がこったときのように首の後ろをこぶしでとんとんとたたいた。
「…なぜ急に、朱雀はそんなことを」
忍人が素直な疑問を口にすると、それに関しては那岐が
「いやまあ、…いろいろあって」
と口を濁す。
「…那岐は、王族として扱われたいのか?」
忍人が続けてそう問うと、那岐は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして、音がしそうなほど
ゆっくり大きく一つ瞬く。それからはっきりと顔をしかめた。
「厭だよ、めんどくさい」
その言い方に忍人は思わず吹き出した。
「めんどくさいから厭、か。…那岐らしい」
すると那岐は唇をとがらせた。
「じゃあ忍人は、突然、あなたは王家の一員ですって言われたらどうするのさ」
「・・・・・・」
逆襲されて忍人は顔をしかめ、その状況を想像し、ゆっくり首を横に振る。
「…厄介そうだから、厭だな」
「ほらみろ」
「わかったわかった、悪かった」
くっくっと短く笑って、忍人はふっと真顔になった。
「君が王族として扱われたくないなら、このことは誰にも言わないでおくが、…それでい
いか」
「もちろん。…ああ、でも、千尋にだけは言うかもしれないけど」
次期女王である彼女には、知らせるべき事柄かもしれない、と那岐は言った。…それは嘘
ではなかったが、それだけが理由というわけではない。……だが那岐は、その他の理由を
敢えて忍人に伏せた。
伏せられたことに気付いていない忍人は、そうだな、姫には、と応じてから、だが、と少
し眉をひそめて。
「狭井君には知られない方がいいな。…厄介なことになりそうだ」
その言い方に、那岐は少しおもしろがる顔になった。
「…お覚えめでたい将軍様が、そういうこと言って、いいわけ?」
「事実だ」
苦々しげにぽつりと忍人は言う。反論する気はないので、那岐も首をすくめた。
「とりあえず、その必要があるまで、俺は誰にもこの件は口外しない。姫にもだ。…姫に
伝える必要があるなら、君の口から伝えるだろう?」
「…うん、自分で言う」
じゃあ行こうか、と背を翻して、…忍人はふと、また笑った。
「…何」
「いや、…アシュヴィンのような話し方をする那岐を、少し想像して」
「……なんでアシュヴィン?」
「王族ということは、君も皇子ということだろう?」
「・・・・・・・」
仏頂面になる那岐に、忍人は珍しく追い打ちをかけた。
「姫のような話し方をする那岐というのも興味深いが、こちらは少し気持ちが悪いからな」
「気持ち悪いなら想像するな!!」
があ!と那岐が怒ると、忍人は久しぶりに快活な笑顔をみせて、そっと体をかわした。
その必要最小限の動きに、ああ、もしかしてまだあまり本調子ではないのか、と、那岐は
少し不安になる。だが顔には出さない。さっき作った仏頂面のまま、いじけたふりをして
みせる。
それが、那岐が自分に課した約束だった。忍人の前で、決して不安な顔は見せない。…こ
の間は、うっかり動揺してしまったけれど、あんな失態はもう見せない。
僕は君を守る。どんな手を使っても。……そう、朱雀が教えてくれたことを利用してでも。
行こう、と先に磐座の出口に向かう忍人の背を追って、那岐はてろてろといつものように
面倒くさそうに歩き出した。
……その瞳だけが、炯々と光っている。
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