幕間
船は宇陀の南に逗留している。室生で禊ぎを済ませた千尋はいったん船に戻り、改めて明
日、橿原へ向かって進軍する。
柊はぼんやりと書庫で竹簡を繰っていた。獣脂は竹簡を傷めるので、蜂の巣からとった蜜
蝋を使って灯をともす。
風が動いた。誰かが書庫へやってくる。顔を上げると、ほんの少しだけ扉を開けて、その
隙間からするりと風早が入り込んでくるところだった。
ふ、と柊と目を合わせて、彼は静かに微笑む。
「なんだい、柊。難しい顔をして」
「…おや、難しい顔をしていましたか?私は」
何でもなさそうな風早の言葉に、柊もさらりと言い返す。
「何か考え事をしていたんじゃないのかい?」
「…そうですねえ」
柊はあごをつまんで考えるそぶりで。
「若いということは、常に怖いもの知らずと等しいのだなあ、と、思ったりしていました
か」
風早は苦笑した。
「年寄りのようなことを言うなあ」
「年寄りのようなものでしょう。…私も、あなたも」
しん、と書庫に沈黙が満ちた。柊はうっとりと笑い、風早は苦しそうに眉をひそめている。
ややあって、柊がふと視線をそらした。
「明日は、三輪山を越えることになりますね」
「…そうだね」
「………龍穴で、龍神は顕れなかった。……もう、我らの既定伝承は定まりましたか?」
風早はため息をつきながら笑うという器用なことをした。
「わざとらしく俺に聞かないでくれないか。俺が、既定伝承について君が知っている以上
に知っていることなど、何もないよ」
「……ほう、そうですか。…あなたは、私などよりもっといろいろなことを知っていると
思いましたが」
風早はその柊の言葉には何も答えない。柊も応えを期待していたわけではないという顔を
して、今まで繰っていた竹簡をきりきりと巻き始めた。
「……ああ、…でもそうですね。あなたは知っていても何も手を出さないし、何も言わな
い。私が一ノ姫と羽張彦と共に神に戦いを挑んだときも、あなたは結局何もしなかった。
……今回もですか」
「……」
「…それとも、二ノ姫が絡めば話は違いますか?…羽張彦も一ノ姫も、…那岐も忍人も助
ける気はなくとも、二ノ姫だけは助けますか?」
「……柊……!」
さすがに風早の声に怒気が混じった。普通の人間なら軽くすくみ上がるであろうすごみだ
ったが、柊は顔色一つ変えない。それどころか薄ら笑いを浮かべた白い顔で受け止めてみ
せる。
「……ねえ、風早。このままこの既定伝承の糸玉が転がっていけば、早晩忍人は破魂刀に
食らいつくされてしまう。……そうなれば那岐はきっと、忍人を救いに黄泉国に足を踏み
入れるでしょう」
そこで柊は、風早の表情を確認するかのように一呼吸置いた。
「姫とともに」
一瞬、風早は獣の目をした。瞳孔が金色に細く光る。…だがそれは本当に一瞬で、素早く
目を閉じた彼が再び目を開いたときには、いつもの穏やかな、しかしどこか苦しそうな笑
顔をしていた。もちろん、人の眼差しで。
「…それは、君が見た未来なのかい、柊」
柊は大げさなほどゆっくりと肩をすくめた。
「………いいえ。あいにくと」
巻き終えられた竹簡を、とん、と棚の間に押し込んで、もう一度風早を見る。
「これは私のただの想像です。……私には、姫が禍日神を倒して即位なさるまでしか未来
は見えないんです、残念ながら」
ねえ、風早?
…子供がわからないことを親に聞くような声で、彼は問う。
「姫が即位なさった後、…私たちはどうなるのでしょうね?」
風早は瞑目して、怒りを抑え込むように長い長いため息をついた。それから、静かに瞳を
開く。感情を消した、人の眼差し。けれどどこか獣の光を秘めていた。
「…それは、俺も知らない」
挑むように柊を見て。
「未来が見える君の瞳に映らぬものを、…神ならぬこの身が知るよしもない」
「…神ならぬ、と、言いますか」
柊も挑み返す。
「……ああ」
ぎり、と風早は唇を噛みしめる。
「…愛しい者たちの運命一つ変え得ないで、何が神か」
ふふふ、と柊は笑った。
「…自分の手で人の運命を自在に変え得るなら、龍神も我々を試すようなことはしないで
しょう。…一つコマを置き換えただけで、未来は思わぬ方向に転がる。……だから神は我
々を試すのではないですか?」
ああ、でも。…柊はそっとつぶやいて、慰めるように風早の前髪を撫でた。
「神ならば運命を変え得ると信じる、…その優しさは、あなたが神でない証拠なのでしょ
うね」
いじめてすいませんでしたね、風早。
「少し、八つ当たりをしたい気分だったんです」
「…八つ当たり?」
「ええ、そう。…ちょっと、那岐に意地悪をされたものですから」
少しうつむいて、彼は竹簡をもてあそぶ。
「…若さは、恐怖を見えなくしますね」
「若さが見えなくしているわけではないと、俺は思うけれどね」
風早は遠い目をした。
「恐怖を克服するのは、誰かへの強い思いだ」
「私はそうは思いませんよ。…もし仮にそうであったとしても、そんな思いが持てるのは
やはり若さ故ではないですか」
「…柊」
「…もう、行ってください、風早。…頼むから少しだけ、私をここで一人にさせてくれま
せんか」
あなたの手前、なんとか平静を保とうと思うのですがね。もう限界です。
「……私にも、戦いに備えて、気持ちを整える時間をください」
「……」
風早は無言で、…一度だけそっと柊の頭に掌を載せ、そのまま風のようにさりげなく書庫
を出て行った。
書庫の扉が閉じられる音と同時に、柊はずるずると壁に背を添わせて座り込む。
視線をそっと、傍らの闇に投げる。
……あの日、忍人は確かにここにいた。
幻の温もりを探すように、柊はそっとその闇の中に手を伸ばす。…その指先に触れるもの
は、そこにはなにもないというのに。
「…忍人」
唇が彼の名を呼び、…柊は膝に顔を埋めてうずくまった。
………蝋が尽きたか、ふっと、書庫の中が暗闇に沈み込む。あとはただ、一面の黒。
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