命の音
室生の龍穴に千尋が入っていって、どのくらいが過ぎたのだろう。彼女の帰りを待つ者た
ちは、一人、また一人と草の褥に身を横たえた。寝ている者もいれば、起きてただ息をひ
そめているだけの者もいたが、夜半には誰も身じろぎはしなくなった。…その静けさの中、
那岐はふと、不思議な違和感を覚えた。ずっとそばにあった何かざわつくような気配が、
不意に遠ざかっていくような気がしたのだ。
身を起こさずに辺りをうかがうと、忍人が、密やかな足取りで気配を殺すようにしながら
その場を離れていくところだった
どこへ行くのだろう。
…気配を追って、これ以上離されると自分の足では彼の足に追いつけない、気配を消して
動けば彼も自分には気付かないだろう、という距離で那岐はそっと立ち上がった。そして
忍人の気配を追って歩き出す。
歩きながら、帰り道がわからなくならないよう、木々に触れる。
木に何本触れた時だったか。
「…追うんですか」
突然傍らの闇からそう問われて、那岐は肩をふるわせ足を止めた。
木の陰からゆらりと柊が出てくる。…自分の気配を消すことと、忍人の気配を追うことに
必死になっていて、木の陰で気配を殺している柊に全く気付いていなかった。
剣呑な顔で那岐が柊を見ると、柊はいつもの薄い笑いを浮かべていた。
「追うんですか?」
そして同じことをもう一度問う。
「…だとしたら?」
そうだとも違うとも言わず、那岐は冷たい声で返した。
「……追わないのも優しさだ、とは思いませんか?」
そう告げる声は、いかにも優しげだ。
「…あんたは忍人に優しくしたいの?」
柊は、眼帯に隠されていない方の目をすがめるようにして笑う。那岐の問いに応とも否と
も言わないのは、先ほどの那岐と同じだ。
那岐はふるり、と首を振った。
「あいにく、…僕は忍人に優しくしたいわけじゃないんだ」
おや、と柊は呟いた。遠くに獲物を見つけた猫科の大型獣のような目だ、と那岐は思う。
「……では、どうしたいんです?」
薄ら笑いは変わらない。目だけが、獲物を追う獣の目だ。
お返しのように、那岐も笑ってやった。
「それを聞くのは、野暮だよ、柊」
そのままひらりと背を返して、また忍人を追う。
柊は何も言わず、追っても来なかった。
林の中を歩き続けていた那岐は、前方の少し開けたところに忍人の姿を認めて、ふと足を
止めた。
忍人は眼下に広がる飛鳥の野を見下ろしているようだった。那岐の来る方に背中を向け、
腕を組んですらりと立っている。
……だが、那岐が追ってきていることには気付いていたらしい。足を止めた那岐を、彼は
振り返った。
「…別に倒れているわけじゃない。君に見られてもかまわない」
先手を打つようにそう言われて、那岐は少し笑った。
以前忍人は、那岐と千尋にだけはそういう姿を見られたくないと言った。だから、この密
やかな深夜の行動が、彼が苦しむ姿を那岐に見せないよう身を隠すためなのだったら、こ
っそり帰ろうと思っていたのだが。
ゆるゆると那岐が近づくと、忍人は受け入れるように少し身をひねり、那岐の方にやや体
を向けた。
「あまり刀を振るわなかったからか、…ここのところ少し体が楽なんだ」
「…そっか」
自分でもそっけない言い方だとは思ったが、感情を出すのが苦手な那岐にはそれが精一杯
だった。千尋ならここで微笑んで、よかったですね、忍人さん!と言うのだろうが。
「何故ここへ?」
「…刀が騒ぐから」
忍人はちらりと自分の腰のあたりに目をやった。
ああそうか、と那岐は思う。身近にあって慣れてしまっていたが、あのざわついた気配は
破魂刀のものだったか。
「飛鳥に入ってからというもの、ずっと騒いでいたんだが、今日は特にひどい。鳴りそう
になったので、慌てて出てきた。…気に聡い者には迷惑だろうし」
暗に、自分や柊が起き出したことを言われているようで、那岐は少しだけ顔をそらした。
忍人は那岐のそぶりを気にした様子はなく、ただ黙って破魂刀を撫でている。気配はやや
収まったようだ。那岐ももう一度忍人を見て、…ふと浮かんだ疑問を口にした。
「…どうして急に騒ぎ出したんだろう」
忍人の頬の線がふっと硬くなった。目を伏せて言葉を探す様子だったが、やがてぽつりと
言った。
「終わりが近いからかもしれない」
「………!」
全身が総毛立つ思いがした。
……終わりとは。…終わりとは何だ。破魂刀にとっての終わりとは、…忍人の魂を削り終
えるということか?
頭から冷水を浴びせられたかのようにぞっとして、みぞおちが重くて苦しい。
何か言いたいのに、声が出ない。それなのに、口を開けたらわけのわからないことを悲鳴
のように叫んでしまいそうな気もした。
かちかち、というかすかな音。…自分の歯が小刻みに震えているのだった。
忍人は目を伏せていて、那岐のそぶりに気付いていない。しばらく黙りこくっていたが、
やがて目を伏せたまままた話し始めた。
「橿原宮を取り戻すだけじゃない。常世に坐すという禍日神と我々は戦わねばならないだ
ろう。だから刀も心が騒ぐのかもしれないと……」
そこまで言って、忍人はようやく那岐の様子に気付いたようだ。
「…那岐?」
声をかけられて、那岐はやっと我に返った。
「…どうした?」
我に返って、今呆然としていた間に自分の耳を通り過ぎていった忍人の言葉を噛みしめ直
す。
「…戦いが、…終わりだ、と?」
「……?ああ。橿原宮を取り返して神に戦いを挑む日が、この戦いの終わる日かと…」
言いさして、忍人もはっとしたようだ。青ざめた那岐の顔を見てきつく眉を寄せ、視線を
斜め下に逃がし、口元だけ笑ってみせる。自嘲とも謝罪ともとれるような苦い笑みだった。
「…俺の、…魂のことかと思ったか?」
その声があまりに静かで、逆に那岐はかっとなった。
「そうだよ、誤解した!」
叫んで忍人の胸ぐらを掴んで、…目が合った忍人の瞳があまりに静かだったので、逆に那
岐はいたたまれなくなってしまった。
僕だけが、…僕一人が、動揺して。
悔しいような恥ずかしいような泣き出したいような。心の中がぐちゃぐちゃになる。
「…忍人の言い方が紛らわしいんだ!」
それだけ言って、那岐は掴んでいた忍人の服を離した。…そのまま、忍人の肩口に自分の
額を預ける。混乱した自分の顔を、これ以上忍人に見られたくなかった。
すり、と額をすりつけて、…那岐はどきりとする。
…元より、忍人は武人としては華奢な方だった。…だが、これほどに肩が薄かっただろう
か。否、もっと、二刀を扱うに十分な筋肉を備えた腕だったはずだ。
ぎゅ、と那岐は目を閉じた。額から伝わる忍人の肩の華奢さを無理矢理に頭から追い払う。
忍人は黙って那岐にされるがままになっていたが、那岐が自分の肩に顔を埋めたままぴく
りとも動かなくなってしまったのが気になってか、そっと、
「…那岐」
名を呼んだ。
ささやくような声は、少しかすれて、甘く響いた。
「……那岐」
「………」
呼んでも那岐がぴくりとも反応を返さないので、忍人がかすかに嘆息する気配がした。
ややあって、那岐が顔を埋めていない方の腕がそっと動き、おずおずと那岐の金の髪を撫
でた。
さらり。さらり。さらり。
大人が子供にするような、というよりは、子供が子供にしてやるような、ぎこちない仕草
だった。これでいいのだろうか、と確認するように、撫でる途中で手が止まったりもする。
「…那岐」
そうしながら、また那岐の名を呼んで。…一言、付け加えた。
「…悪かった」
「……!」
那岐は、ぎゅっと唇を噛んだ。
「…謝るな」
叫んだまま、ずっと閉ざしていた口から出た声は、少しかさついていた。
「謝るなよ。…何が悪いのかもわかってないくせに」
髪を撫でる手が、ひた、と止まった。……那岐の頭上で忍人が逡巡する気配。
「……紛らわしい言い方をしたことを、怒っているんじゃないのか…?」
……ほら。やっぱりわかってない。
那岐は、忍人の肩に顔を埋めたまま、笑い出しそうになった。笑ってしまうと、機嫌を直
したと忍人に思われるだろうから、ぐっとこらえる。
忍人の言い方が端的すぎてまぎらわしいことくらいで、こんなに怒ったりしない。那岐が
腹立たしいのは、忍人が、自分では死ぬ気などさらさらないくせに、死の気配というもの
にひどく無頓着なところだ。
いつ死がやってきてもさらりと受け入れてしまいそうで。死にたくないとあがくことなど
しないようで。
ああ、でも違うな。…那岐は思い直す。
死ぬ気がないから無頓着なんだ。自分は生きる、と思っているから、死の気配などに気を
配らない。……でもきっと、死がやってきたときに「ああ、来たのか。…そうか」と受け
入れてしまうのは一緒だ。来たならしょうがない、って、たぶん忍人はあがいたりしない
んだ。……僕の気も、千尋の気も、知らないで。
「……那岐」
「…何でもない。…僕がどうかしていた。一人で誤解して、怒った。忍人は悪くないよ」
「那岐」
那岐はふ、と笑って、片手で忍人の片耳を塞いだ。
「聞こえる?」
「………?」
「ごーっていうかすかな音。それは、人の命の流れる音なんだって」
ほら、こうするともっと聞こえる。
そう言って那岐は両手で忍人の両耳を塞ぐ。忍人は那岐の言う音にはっと気付いたようだ。
目を閉じて、音に聞き入る。
「…忍人の音も、聞かせてよ」
那岐は、忍人の耳から手を離して忍人の手を取り、自分の耳にあてた。
ごおおおお、と。…確かに、忍人の生きている音が聞こえる。重々しく、愛おしい音。
那岐はふと気付いた。
那岐の手が掴んでいる忍人の手首。その指先にかすかにふれるもの。……忍人の脈だ。
不意に泣きたくなった。耳から聞こえる音。指先に触れるかすかな脈。…忍人の生きてい
る証全てが、どうしようもなく愛おしい。離しがたい。……これが全て自分のものだった
らいいのに。決して誰にも渡しはしない。手放しはしないのに。
たとえそれを奪っていくのが神であったとしても。
那岐はそっと片耳から忍人の手を外して、自分の指先ごと、触れている脈に口づけた。忍
人の手首はひいやりとしていたが、その薄い肌の下に確かに熱を感じる。
「那岐」
呼ばれてふっと顔を上げると、口づけていた手首がひらりと返されて、逆に自分の手首を
忍人に取られる。忍人の薄い唇が一瞬柔らかく笑い、その笑みの形のまま、彼はそっと那
岐の手首に口づけた。
やわらかい、と思った。
忍人の表情や立ち居振る舞いはとても硬質で、…だから、唇も陶器のような感触かと思っ
ていた。けれど触れてくるそれは熱を持って、やわらかくて、とても優しい。
まじまじと自分の手首に触れる忍人の唇を見て、…伏せられたまつげの長さを見て、……
はたと気付く。
……なんだか、とても、…なまめかしい図ではないだろうか。
いや、さっきまでの自分も、勢い余って同じことをしていたのだが。でも。するのとされ
るのは違うというか。うっとりと口づけている忍人の表情を見ていると、さっきまでの自
分もあんな顔をしていたのかと気付くというか。
…なんだかいろいろ考えたら、耳が熱くなってきた。
ふと見ると、忍人はもう唇を離していて、那岐の表情を見て苦笑を浮かべている。
「おたがいさま、だ」
ぽつりと彼はそう言った。
お互い様って、どこまでがお互い様なんだろうか、と那岐は思う。
びっくりしたり照れくさかったり恥ずかしかったりしたことだけじゃなくて、…少しだけ
うれしいと思ったことも、お互い様だろうか?
聞こうかと思ったが、…やめた。
聞いてもきっと、「聞くな」とだけ言って、そっぽを向くような気がしたから。…こちら
をまっすぐに見ている忍人の頬が少しだけ上気していて、耳の先が赤いのも、…きっとお
互い様なんだろうから。
忍人は、ふっと我に返った様子で刀を確認する。那岐も気配を取って、
「…落ち着いたね」
そう声をかけると、
「そのようだ」
と静かに忍人も応じた。
戻ろうか。忍人はそう言って、背を返した。一瞬振り返り、那岐がうなずくのを見て歩き
出す。その背中を追って歩き出しながら、那岐は柊の言葉を何故か思い出していた。
………では、どうしたいんです?
そう、彼は聞いた。
聞くのは野暮だよ、と言って、あの場はごまかしたけれど。
…僕は、忍人にどうしたいんだろう。
優しくしたい、という気もある。だけど、本当は、忍人が自分から隠したいと思っている
ことを全て暴いてしまいたいという凶暴な欲もある。約束したから、しないけれど。
……僕は、…忍人をどうしたいんだろう。
その答えはまだ出ない。見つからないけれども。
…一つだけ気付いたことがある。
…僕は、…忍人を愛している。
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